目覚めたら狼獣人になってました。

禾野ノギ

プロローグ

第0話 独身貴族、死す

 人それぞれ、人生の形というものは十人十色で、一人ひとりがまるで違う。


 地方の、良くも悪くもない公立大学を卒業して、住み慣れた地元の市役所に就職し、未だ独身の三十二歳。気がついた頃には、見事におっさん予備軍の仲間入りを果たしてしまっていた。


 家族は、母と兄貴が一人。父親は俺がまだ幼い時に蒸発した。母親は女手ひとつで俺と兄貴を育て、定年退職後に山間にお洒落なログハウスを建てて、仲のいいおばさん達と一緒に"ババカフェ"なるものを経営しつつ悠々自適に生活している。


 大学生の頃はそんな生活を見て特別何も感じなかったが、現代社会の荒波に揉まれまくった今となっては、そんな悠々自適な生活が非常に羨ましい。


 毎日役所にやってきた大勢の人々の対応に追われ、ストレスで今までに何度か病みそうになったぜ……それが原因で、精神安定剤の購入量が一時期ヤバいことになった。実にその額月に……いや、やめておこう。考えるだけでまためっちゃやむ……。


「相澤先輩、昼飯食いに行きません?」


 丁度キリが良かったのか、俺の後輩である立川が、爽やかイケメンスマイルで話しかけてきた。俺に無いものをひけらかしやがって……えぇ? 嫌味??


 しかし、もうそんな時間なのか……知らなんだ……なんて思いながら、時間を確認してみれば……。


「……オイオイ……まだ十一時前じゃねぇかよぉ……。変に期待させるようなこと言うなよなぁ……」

「あれ? おかしいな……」


 イケメンだが超ド天然、それが立川という男だ……正直めっちゃ疲れる。正直日々のストレスの原因の一つだから少しは自覚して反省して?



 ◆◇◆



「あぁ……やっぱりあそこの定食美味すぎない? なのに食べログの評価あんまり高くないんだぜ?」

「えぇ……マジですか?」


 通い慣れた定食屋で食事を済ませ、早めに仕事を片付けるために、他愛もない話をしながら元来た道を引き返す。


 工事現場の音、人々の話し声、横を通る自動車のエンジンの駆動音。


 そんな音がビル街を何度も反響し、市街地特有のあのざわざわとした喧騒が周囲を包んでいる。


 いつも通りのこの街の風景……その時だった。


 ドオオオオオオオオンッ!!


「うわびっくりしたぁ!?」

「工事の音ですかね?にしてもデカイような……」


 俺と立川がはてと首を傾げていると、直後周囲が影に覆われる。何事かと上を見上げてみれば……。


「な……」


 建設中のビルから大量の鉄骨が空中にばら撒かれ、それが恐ろしい勢いで落下してきていた。


「危ねぇ!!」

「うわぁっ!?」


 ここままでは逃げ遅れてしまう。せめて立川だけでも。


 直感的にそう思い、咄嗟に立川の背中を全力で押し出し、直後……。


 ダァァァァァァァァンッ!!


 逃げ遅れた俺の身体を巻き込みながら鉄骨が地面と激突し、周囲を轟音が包む。


「え……先輩?」


 身体の大半が鉄骨の下敷きになった俺を見て、イマイチ状況が掴み切れていないといった声を出す立川。声の様子からして、アイツはどうやら無事らしい。よかった……。


 ……なんて、こんな時に俺は他人の心配をしていると考えると、なんだか自分の性に合わなくて馬鹿らしく思えてくる。俺、結構厳しい方だと思っていたんだけど……実は自分でも思ってもいない程お人好しだったり? マジか……。


 ――貴方は優しい人です。底抜けに優しい人――


 一瞬だけ、何処からか明らかに俺へ向けて言ったと思われる聞き覚えのない声が聞こえた気がするが……まぁ気のせいだろう。それなりに通行人も多いし。


 普段なら、他人から優しいなんて言われると、自覚がないし恥ずかしいしで直ぐに否定するだろう。だが、今は何故か、無性に救われたように感じた。


 身体中が潰され砕けて傷がつき、様々な場所から大量の血が溢れ出てくる。特に酷いのは背中だ。諸に下敷きになってるからね……。確実に骨は折れているだろう。きっともう……。


「……よく聞けぃ……立川ァ!」

「……はい、何ですか? 先輩」


 最後の力を振り絞り頭を上げてみれば、涙で赤くなった目をこすり、立川は俺を真っ直ぐに見つめていた。


 そう泣くなって。みっともないぞ。あとそのぐしゃぐしゃな顔で見てくるのやめろ。血も何もかも吹き出しそうになるだろ……。


「……立川……烏丸さんに……はぁ……迷惑かけるんじゃねぇぞ……グフッ!?」


 かなり無理して声を発したからか、口から真っ赤な鮮血が勢いよく吹き出す。


「なんで! こんな時に何遺言みたいなこと言ってるんですか! ゴキブリ並みにしぶとい先輩がこんな……アッサリと……こんなアッサリ、死ぬわけないでしょうが!!」


 振り絞るようにして出した俺の言葉を、立川は首を振って拒絶した。


「俺がしぶとい……ねぇ。最後の最後まで……変なこと言うんじゃねぇよ……」

「無理しないでくださいよ! 先輩! 今、救急車がこっちに向かってますから! 絶対! 絶対来ます! それまで、絶対に無理しちゃダメですよ!」


 いつの間にか、誰かが救急車を手配していたようだ。遠くからあのサイレン音が聞こる気がする。いやまあ幻聴かもしれないけど。


 しかし、そのサイレン音もだんだんと聞こえ辛くなってきた。


 もう既にマトモな視力は残っておらず、立川の顔も、周りの景色も、イマイチよくわからない。


 ただ、吹き出した血の匂いだけが、未だしっかりと感じられた。


 昔、「死に際には、視力、聴力、最後に嗅覚の順で失われる」と聞いたことがある。となれば……もうそろそろ、俺も限界のようだ。


「立川」

「……はい」

「必ず、俺の分ま……で……!」


 ――俺の分まで、生きてくれよ――


 俺の最期のメッセージは、立川の耳に届くことなく霧散していった。


 こうして、俺――相澤始――の“人間としての”人生は、こうして幕を閉じたのだった……。



 ◆◇◆



 薄暗い部屋に、女性が一人。


 煌びやかな黒いドレスに身を包んだその女性の目の前には、一つの小さな発光体――人の“魂”――が浮かぶ。


 ふわふわと勝手に浮かぶそれを手に取り、慎重に口元へ持っていき……壊してしまわぬように、優しく接吻キスをする。


 その接吻は、“女神”の慈愛を受けた印。


 女性が紅く濡れた唇を離すと、魂はその手から文字通り消えて無くなる。


「後は、よろしくね――」


 ……誰もいない部屋で小さくそう呟くと、女性の姿は歪むようにして消え去った。

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