第32話 一応憑かれました。

 魔王スティンリーは、その事態に焦燥していた。まさか自分を真の意味で縛るものがこの世にあるなど思っていなかったからだ。

 身体に纏わりつく黄金の鎖は、輝きを増すごとに魔王から力を奪っていく。


「ぐ、う、ぬぅ……」


 しかしそれも長くは続かなかった。天の鎖を発現させたエメラダの消耗は存外にも激しく、たった数分それを維持するだけで今にも意識が飛んでしまいそうなほど疲弊していた。


「ク、ク、火事場の馬鹿力というやつかな? しかしそれも長くはなかったようだ!」


「ふぅぅ、だ、め……消え、ないで――――」


 次第にスティンリーに身体の自由が戻ってくる。ついにはエメラダは倒れ、天の鎖も輝く粒子と共に霧散してしまった。


「随分と驚かされた……しかし天の鎖、その縛り心地はこれまで味わったことがない! 今にも私の貞操帯が弾け飛びそうなほどだ!!」


 一転、興奮冷めやらぬスティンリーはぞくぞくと身を震わせる。強力な力は得られずとも彼の趣向にはいたく刺さった様で、もはや有頂天であった――――眼前で起こっている絶望的な変化も見逃すほどに。


「おう。ご機嫌だなぁ変態?」


 言葉と共にスティンリーに襲った衝撃。天地がぐるりと回り、落下の音と共に視界が地面で埋め尽くされる。

 何があったのかと思った頃に、ようやく腹部に強烈な痛みが奔る。


「がぁぁっ!? な、ン、なんだ!?」


 もぞりと起き上がり腹を見れば、大きな窪みが出来ている、これが激痛の正体だと分かった頃に、ようやくそれを与えた者に目を向ける。


「まったく気持ち悪ぃもん見せやがって。思わずぶん殴っちまったぜ」


 声の主は、先ほど止めを刺し損ねた青年――グレイのものだった。しかし何かが違う。口調もそうだが、纏う雰囲気がまるで別人のようだった。


 人間としては平均より少し小柄で色白く、黒髪に黒い瞳のはずだった彼は、大きく変貌を遂げていた。


 焦げたように浅黒い肌、真っ赤に染まった髪、そして不敵に笑いながら細める瞳も紅く輝いている。

 無造作に髪を掻き上げオールバックな髪形になると、そこにいるのはもうグレイではなかった。


「ハッハァ! にしても随分と馴染むなぁこの身体は! ちと細っこいが気に入った、これなら派手に暴れられるぜ!!」


「せ、青年……ではないな? 誰だ貴様は!?」


「あん? この俺に名乗らせようってか、不遜だな」


 そう言って手をかざすと、ランプの灯火のような小さい火種が現れる。それを放った途端に、轟々と赤い炎が舞い踊る。

スティンリーの作った黒炎の檻はあっという間に塗りつぶされ、そこは真っ赤な炎の舞台と化した。


「しかし、今は愉快で仕方ねぇ。特別に名乗ってやろう――――俺は現世うつしよに猛る数多の火を司る者。荒ぶる轟竜と称えられし精霊、サルマンドラ様よぉっ!」


 向上を垂れる口からはちろちろと火の粉が散る。それを聞きスティンリーは信じられないと口を開いた。


「莫迦な、元素の精霊が人間に憑依だと……ありえん!」


「ありえんも何もこうして出てきちまったしなぁ。それにちょっと昔は結構いたぜ?」


 彼の言うちょっと昔が、魔王スティンリーの誕生するずっと以前のことだとは推し量れなかった。なにせサルマンドラが最後に現世に顕現したのはもう五百年も昔のことだ。それも致し方ないだろう。


「貴様は……彼を憑き殺すつもりか? 普通の人間がそんなことをすれば精神が崩壊する!」


「そんなことねぇぞ、今も身体ん中でやかましく騒いでらぁ。――――ですですってうるせぇよ好きにやらせろ! ……あん? 女を焼くな?」


 グレイ――改めサルマンドラが端を見れば、倒れたエメラダが今にも炎に包まれそうになっていた。

 仕方なさげに手を振ると、彼女の周囲に球状の膜ができ、そこには炎が立ち入らなかった。


「おら、これでいいだろ? で、だ。お前さぁ――使ったよな? あの糞犬の臭ぇ火をよ?」


 途端、目つきが変わる。サルマンドラに睨みつけられ、スティンリーは思わず一歩引き下がってしまった。


「おかげで目が覚めちまった。俺あの犬っころホント嫌いなんだわ、キャンキャン喧しいしな。だからよぉ、責任とってくれや」


 サルマンドラは悠然と歩きだし、スティンリーへと近づく。隙だらけなのに何故か手が出せず、魔王は身構えて固まったままだ。

 両者の距離が手の届く範囲まで近づいたとき、先に動いたのはスティンリーだった。


それは自分よりも上位の存在に対する恐怖への抵抗。小魔王として生まれ変わってから、恐怖を抱いたのは三人だけ、すなわち大魔王たちのみだった。

しかし目の前のそれは、彼らに匹敵するものを抱かせた。


 故に恐慌し、渾身の力で爪を振るった。袈裟切りに身体を引き裂くはずだった鋭い刃は、しかし素手で受け止められてしまう。


「なんだとっ!? くそ、離せっ」


「おやおや、随分と綺麗にお手入れしてんなぁ。お洒落さんかな? けどてめぇには似合わねぇな!」


 片手で止められた自慢の爪は、呆気なく握り潰され砕かれる。その痛みに苦悶しつつも、今度は黒炎纏う左の拳を素早く振るう。


「――だからよぉ、それが臭ぇって言ってんのが聞こえねぇのか!」


 またも受け止められた拳は、サルマンドラの赤い炎で焼き焙られた。黒炎はあっという間に塗りつぶされ、自らに宿らせた炎狼アモンの加護も霧散してしまう。


「あ゛あ゛あぁぁっ、こんな、私の、私の自慢の拳がっ」


「なんだ、そのデケェ拳が自慢だったのか。じゃステゴロしようぜステゴロ! 前にもこいつとやってたろ!」


 そう言って構えるサルマンドラはまるで子供のように無邪気だった。軽くステップを踏み、今か今かとわくわくしていた。


「お、のれ! 精霊ごときが!」


 挑発に乗り、ブンと岩拳を振り回す。その悉くを防がれ、いなされ、時にカウンターを入れられて血反吐を吐く。

 これでは先程までと全く逆だ……精霊とはここまでの存在なのかと、スティンリーは戦慄いた。


「いいないいな! 小魔王とはいえ中々の筋じゃねぇか、お前序列は何位だ?」


 言いながら、フックをスティンリーの脇腹に抉り込む。咽び反吐を撒き散らしながらもスティンリーは果敢に応戦した。


「良く喋る精霊だ、貴様らはみんなこうなのか!」


「あぁ、どいつもこいつもお喋りさぁ! なんせ滅多に話し相手がいないもんでな」


 巨大な掌を広げ、スティンリーは上から降り下してサルマンドラを押し潰そうとした。しかしそれも片手で防がれ、思い切り顔面を殴りつけられ鼻が曲がる。


「んぐぁっ!ぐぅ……くそ、同じ身体でなぜこれだけ力の差が出る」


「当然だ、いまこいつの身体は顕現した精霊の身、すなわち世界の一部。お前もやってみれば分かるぜぇ? 耐えきれればな」


 顔を押さえるスティンリーに渾身の前蹴りを突き出せば、その巨体が宙に浮き中庭の壁に激突する。

ガラガラと崩れる壁の中で、スティンリーはしばし沈黙した。


「あん? おいどうした。もう終わりじゃねぇダろ?」


「――――あぁ、ではやってみることにしよう」


 ゆらりと立ち上がる魔王。その全身には再び黒い黒炎が浮かぶ。


「……おい、やめとけ。お前がやっても食われるだけだぞ」


「それでも良い。貴様を退けられるならば、喜んで悪魔に身を捧げよう」


 身に宿る黒炎は次第に膨れ上がり、巨大な渦と化す。これまでそれに焼かれることのなかったスティンリーが、その炎に食われるように身を焦がしていく。


「炎狼アモン――我が身を食らえ、我が魂を呑め。そして仮初でも良い、彼奴を討つ力を我に委ねよ!」


 そう言い放った瞬間、魔王を焼き尽くす勢いで黒炎は燃え広がり中庭の壁をも越える巨大な火柱となった。それがとぐろを巻くように空中で数度蠢くと、元の場所に戻るようにゆっくりと勢いを弱める。


 そして凝縮された漆黒の炎は、スティンリーのいた場所に一匹の巨大な何かを作り出した。


「あの筋肉野郎……せっかくのお楽しみだったってのに」


 サルマンドラは忌々しげに呟く。その目に先程までの楽しげな様子はなく、まるで汚物のようにその黒い巨体を見ていた。


「糞犬なんぞ憑依させやがって……」


『ア゛ア゛ア゛アアァァァアァァッッ!!!!』


 それは巨大な黒き狼。全身から黒い炎を揺らし、赤い瞳は鋭くサルマンドラを捉える。口から垂らす涎はジュウと音を立て地面を溶かしていく。


「ならもう容赦しねぇ、一発で消し飛ばしてやる」


 サルマンドラは腰のダガーを引き抜く。それが一番魔力の通りが良く丈夫であったからだ。

 振りかざすと、短剣から勢いよく炎が溢れ出る。それはただ燃える火柱のようだったが、次第に形を整えていった。


 それは、極大の断頭剣。刃渡りは裕に自身の身長を越え、炎で形成された長い柄に両手を添える。


「来いよ犬ッコロ、真っ二つにしてやる」


『ウォォオッォォォオォォォォォンッッ』


  普通の人間ならばそれだけで失神しそうな雄叫びを上げ、巨大な黒狼は疾駆する。牙を剥き出しに、目標を一飲みにしようと巨大な顎を開いてサルマンドラに飛びかかる。


「うるっせぇな、だから犬は嫌いなんだ」


 サルマンドラは極大剣を肩に乗せ、振り抜く瞬間を待つ。しかしその間にも炎狼アモンの化身はサルマンドラを一飲みにしてしまう。


 その瞬間だった。カッとまばゆい光が黒狼の口から洩れたと思うと、そこから真っ二つにするように炎の線が黒狼の身体を寸断する。


 正面から半分にされた黒狼はゆらりと揺らめきながら、その二つに分かれた巨体をドスンと横たえた。


 サルマンドラによって振り抜かれた極大剣は深々と地面に刺さり、そこから地割れが起きたように真っすぐ地面を割り、城の壁を突き破って眼前を赤い炎に塗りつぶしていた。


「……ふぅ、なんだよ。これだけで魔力切れか? もっと鍛えろ、まだまだ暴れ足りん」


 極大剣は焚火の火が虚空に舞うようにゆっくりと元の短剣へと姿を戻す。サルマンドラはふらりと身体をぐらつかせた。


「次来るときはもっと魔力保容量キャパシティを増やしとけ、いまの三倍は欲しいな」


 誰に語りかけているのか。周囲に聞く者はいない。それは身の内にいる身体の持ち主に向けてだろう。

 サルマンドラはそう不満を漏らしながらも、何処か満足げな笑みを浮かべた


「じゃあ身体は返すぜ、痛みで死ぬなよ――――それと、ほんの一時だったが感謝する。お前に火の精霊の寵愛を賜わす」


 それだけ言い切ると、唐突にサルマンドラの身体に変化が起こる。


 浅黒い肌は白く戻り、赤くなった髪と瞳は元の黒に変わった。

 そしてその表情も先程までの自信と傲慢に満ちたものでなく、困り果て苦痛に満ちたいつもの顔――グレイの表情へと戻っていた。


 そのままグレイは前のめりに倒れてピクリとも動かず、しかしか細く愚痴を零した。


「もう……絶対……二度と貸しません」


 それは弱々しくも、決意に満ちた言葉であった――――。

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