桜の花びらが降る、その頃に

笠緖

桜待つ、壬生寺にて

 穏やかな気候に微睡んでしまうほど、とはまだいえないものの、身を切るような寒さからは一歩ずつ離れはじめた如月の終わり。

 見上げた空は、藍を水で薄めたような色が広がっており、境内に咲く桜の木は、その枝先に濃い色の蕾を膨らませていた。あと数日もすれば、一斉に綻ぶように花を咲かせるのだろう。

 時折、ふわりと頬を撫ぜる風は、すでに春の色が濃くなってきている。

 耳朶を撫ぜるのは、子供たちの遊ぶ声。

 ちらりと視線を向けた先で、いくつかの小さな影に混じってひと際背の高い人物が、その中の誰よりも楽しそうに笑い声を上げていた。その姿に、知らず石井 秩いしい ちつの目尻は柔らかく溶け、唇が三日月を食む。


「お秩さん」


 彼女の視線に気づいたのか、睫毛の先にいた人物――沖田総司おきたそうじは人好きする表情で呼びかけてきた。そして子供たちに「少し遊んでいて」とでも言い含めたのか、雪駄の裏を石畳の上に落としながら一歩、また一歩と秩の許へ近づいてくる。

 上背があり、ひょろりと伸びた手足は、まるで新緑の季節に天へと枝を伸ばす若木のようだ。やや浅黒いおもては、いつも頬の位置を高くしており、男性にしてはやや高めの声は常に笑っていて、まるで童がそのまま身体だけ大きくなったかのようである。


「あぁ疲れた。子供は遊びに関しちゃもういいって事がないからいけねぇや」

「まぁ……沖田はんがそれをお言いやすのん?」

「勿論。こと、遊びに関しちゃ子供にゃ勝てやしねぇさ」


 かけっこに、つかまへぼ(鬼ごっこ)を延々と繰り返し、ときには子供全員が鬼となり逃げるに徹していたのだから、疲れているのも道理ではあるのだが、それでも楽しげに笑う彼からは一切の疲れを感じる事もなく、息も全く切れていない。


(まぁ……、新選組しんせんぐみん隊長はんやから、それも当然かもしれへんけど)


 秩が沖田と出会ったのは、今から半年ほど前の事だ。

 詳しい話はよくは知らないが、なんでも三条にある池田屋という旅籠に不逞の輩がよからぬ企み事をしていたらしく、そこを新選組が取り押さえる、といった騒動があったらしい。大がかりな捕り物となったそうで、その時に沖田も足を少し負傷した。

 秩の働く壬生村の診療所にやってきたのは、その治療の為にということだった。


  ――つっても、俺の怪我は皆みたいに刀傷なんかじゃあなくってさ、暑さでやられた時に柱にぶつかってやったもんだったけどね。


 生来、人懐っこい性格だったようで、何ともバツが悪そうに、けれどどこか冗談めかして笑う沖田からそう声をかけられた事が始まりだった。人の話に、人を人とも思わず斬り捨てる集団だと聞いていただけに、そんな噂が大凡似合わない彼のその笑顔に、ひどく驚いたことを今でも覚えている。

 その後、沖田の治療は終わり、縁も切れたかと思っていたが、仕事終わりに娘のユキを連れて遊びに行ったこの壬生寺の境内で、子供たち相手に楽しげに遊ぶ彼と再会し――いまに至る。


(やて、ほんまに疲れたわけでもないやろに……)


 傍らに立つ彼の気配が、近頃ひどく心臓に悪い。

 あくまでも、秩は娘を遊びに連れてきている。

 沖田は、近隣の子供たちと遊ぶために壬生寺に来ている。


(子ぉ等あっちで遊ばせてうちとこないに話しとったら、そないな名目とか……消えてまうやんか)


 夫は、結婚後にあっという間に病で亡くなり、娘のユキを残してくれたものの彼との思い出はそう多くはない。人ごとに聞く、恋というものがどういうものであるかさえ知らずに、夫はこの世を去った。

 その後、娘を養うために親類の伝手で壬生村に身を寄せ、診療所の下女(看護師助手)として働き出したが、だからこそ、きっと自分はもうそういうものとは無縁のまま生きていくんだろうと、なんとなくぼんやりとそう思っていた。

 けれど――。


「ん? お秩さん、どうかしたかい」


 なんとなく落ち着かず、そわそわと袖を掴んでは離し、離しては再び掴む秩に気づいたのか、沖田の視線が自身へと落ちていた。途端、かぁ、と僅かに痘痕あばたの残る白い頬に赤みが差す。

 そわそわと落ち着かないのは、誰かにこの様子を見られたら、きっとあっという間に噂になってしまうことを恐れてか。


(ちゃう)


 少なくともこの京において、沖田が妻帯している様子はない。秩も、十代の頃、嫁いだ夫との生活は一年ほどで終わった為に、いまお互い人から悪く言われるような身の上ではない。


(ちゃうんや……ただ、うちは)


 沖田はんの隣におるんが、照れくさいだけや。


「お秩さん?」

「ひゃぁっ!」


 背を屈め、顔を覗き込んでくる沖田のおもてが、眼前に広がり、秩は悲鳴にも似た声を上げた。


「あっ、悪ぃっ! 驚かせて……いや、その、黙っちまったから、どうしたのかと思ってさ」

「……あ、ううん。ただ、その……桜。そう。桜はもうじきやなぁって、見とったんどす」

「桜……? あぁ、これかぁ」


 沖田は近くに植えられた桜の枝へと視線を這わせると、ゆっくりとそちらへ近づいて行った。そして、指先でツン、とその蕾に優しく触れた。


「まだまだ寒ぃと思ってたら、もう桜が咲くのか。早ぇもんだよなぁ」

「花、咲くまで、あと十日ほどやろか」


 そう秩が呟くと、沖田は一度瞬きし、「十日」と呟きを落とす。


「沖田はん?」

「……あー、いや……」

「どないしはったん?」


 江戸っ子らしく、スパスパと歯切れよく話す彼にしては、珍しく言の葉が口の中で転がっていた。秩はくっきりとした二重の瞼を上下させると、軽く小首を傾げる。


「お秩さん」


 意を決したように、沖田が秩の名を呼ぶ。


「はい?」

「ずっと、言いそびれてたけど……近々、俺たちの屯所が西本願寺に移ることになったんだ」

「……そ、れは……いつ……?」

「十日後、だから……この桜は、見れねぇかもしんねぇな」

「それはまた……えらい急なお話どすな……」


 先ほどまでとは違う、焦りにも似た感情が、心臓に汗をかかせる。

 感情の波に、溺れてしまいそうな錯覚さえ感じてしまう。


西本願寺おにしさんゆうたら……今より遠なって……お会いするんも、難しなって……」


 声が、震えるのは気のせいではないだろう。

 ここ壬生から西本願寺までは、言うほど遠いわけではない。一刻(約三十分)ほど歩けば着く距離だ。


(でも)


 今までのように、日常的にすれ違うということはほぼなくなる距離だ。

 彼が、ここで子供たちと共に桜の下で遊ぶ姿を見ることは、きっと難しくなるに違いない。


(こないな風に、沖田はんと一緒に過ごすんも)


 きっと、難しくなる――。


「……寂しなる……」


 心の呟きが、そのまま音として唇から零れ落ちた。

 自身の耳朶にその声が届いた瞬間、しまったと秩は両手で唇を塞ぐ。けれど一度漏れ出たものを回収出来るわけもなく、そっと手放しながら桜の下にいる彼へと睫毛の先を向けると、軽く目を見開く沖田の姿。


「あ、あの! そやのぅてっ! あ、あの。ユキが。ユキが、寂しなるなぁて」

「……俺も、寂しくなるよ」

「っ、そうゆうてもろて、ユキも、」

「こうやってもうお秩さんに、会えねぇんだから」

「っ!?」


 ひゅ、と息を呑み込んだ秩へ、桜の蕾をツン、と再び弾いだ沖田が告げた。



「あのさ、お秩さんさえ良かったら――」




 元治二年――三月十日。

 門出を祝うかのように、桜の蕾が一斉に花を開かせた頃、新選組はその屯所を壬生から西本願寺へと移した。

 時を同じくして、副長助勤であった沖田総司は壬生界隈に休息所として私邸を設け、妻子を住まわせそこから西本願寺まで通うことになったという――。

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