第六章 追う者、追われる者

第51話 軋み始めた歯車

 アーシェラは語り終えると、ゆっくりと長い息を吐いた。

 天幕の外はどっぷりと日が暮れ、いつの間にかくべられた炉の中の炎が天幕の内側に二つの影を大きく映し出している。

 めくられた天幕のすそから吹き込んでくる夜風にあおられて、炎がゆらゆらと揺れる様をムウはぼんやりと見つめていた。

 アーシェラの口から語られた物語に身体ごと引きずり込まれ、まだそこから帰って来れぬような、不思議な感覚から抜け出せずにいたのだ。

 ふと、目の前の炉の中でぱんっと大きな音を立てて薪が爆ぜた。

 ムウははっと我に返ると、弾かれたように顔を上げた。

 目の前に座るアーシェラの顔を確かめようと何度も目をしばたたかせている内に、ここが何処で己が誰なのか徐々に頭の中が晴れていくのを感じた。

 やがて、アーシェラの顔につっと暗い影が落ちたかと思うと、何かを悔いるような、悲しみの入り混じった声がした。

「そこでようやく、私たちは大きな過ちを犯したのだと気付きました」

 ムウはぐっと眉根を寄せた。

「あなた方は一体……」

 独り言のように呟かれたムウの問いに、これが答えだとでもいうようにアーシェラはゆっくりと目を開き始めた。

 長い金色こんじきの睫毛が瞼と共に徐々に上へと上がっていく。

 固く閉ざされていた瞼が開かれた時、揺れる炎の灯りを反射してその瞳が完全に姿を現した。

 その瞬間、ムウは心臓を矢で射抜かれたような衝撃に息をつめた。

 大きく見開かれたムウの目に思いもよらぬ瞳の色が映る。

(……蒼き瞳)

 戸惑いに揺れ動くムウの目を真っ直ぐ見つめながらアーシェラは更に続けた。

「その後、月詠みの男はたった一人生き残った琥珀族の娘を連れて、遠く離れた南の地へ向かったと言われています」

 ムウは呆然とアーシェラを見つめながら僅かに口をあけたが、そこから言葉は出てこなかった。

 警告のように伝承され続ける伝説の姿とあまりにもかけ離れたその物語に、どう反応していいのか分からなかったのだ。

 それに、突如現れた月詠みの男……なぜ我ら月詠みの一族にすら伝わっていないのだ。

 困惑と疑問が入り混じり、答えの出ぬ問いがぐるぐると頭の中で急速に渦を巻いていく。

 そして、何よりもムウが気になったのは、月詠みの最後の言葉だった。

 俺はこの一節を知っている。――ノジン村で見たあの朽ちた月と不協和音がムウの耳奥に蘇る。

 暫く逡巡する内にふと、ある思いが胸につき、同時に唖然とした。

(……偶然ではないのか)

 そう思った瞬間、全身がぞっと粟立ち急激に鼓動が早まるのを感じた。

 ムウは震える唇を湿しめすと、絞り出すように訊ねた。

「なぜ、伝説はこんなにも形を変えてしまったのでしょうか」

 アーシェラは小さく首を振った。

「分かりません。ただはっきりとしているのは、そこに誰かの思惑があるということです」

 ムウは落ち着こうと大きく息を吸った。

(止まっていた歯車が軋み始めた)

 自分はその一部なのだろうか……。分からなかった。この分からないということがムウにはとてつもなく恐ろしかった。

 それはまるで、対岸の見えぬ深い沼をゆっくりと沈み続けながら歩いているような恐怖にも似た感覚に近かった。

 進めば分かるものなのか、辿り着いたその先に何が待ち受けているのか、果たしてそれは本当に皇太子様の命を救うに値するものなのか、何もかもが不明瞭過ぎて、ムウは無意識にぐっと顔をしかめた。

「申し訳ございませんが……私たちがお助け出来るのはここまでです」

 申し訳なさそうに眉尻を下げながらそう紡がれたアーシェラの言葉を、ムウはぼんやりと聞いていた。



 風に当たろうと天幕の外へ出てみると、気持ちの良い夏の夜風が吹いていた。

 川辺に近づき穏やかな水の流れを暫くぼうっと眺めた。アーシェラの天幕以外はみな灯りが落とされていて、とても静かだ。

 川面に映る空の煌めきが水の流れに沿って揺れている。

 ムウは顔を上げ、雲一つない夏の夜空を見つめながら、悲しき運命を生きた彼らの物語に想いを馳せた。

 長い時を経て、誰かの思惑の為だけに捻じ曲げられてしまった彼らのせいを思うと、悲しさと悔しさにも似た何かが胸の内に広がっていくのを感じた。

(月を詠もう、詠まねばならぬはずだ)

 ムウは大小さまざまな石の転がる地面に腰を下ろすと、覚悟を決めたようにすっと背を伸ばした。

 そして、深い呼吸を何度も繰り返し、ぐっと腹に力を込めると静かに目を閉じた。

 内へ内へと意識を深く尖らせ、ゆっくりと己だけの世界へと落ちていく。

 やがて、濃厚な花の香りが鼻の奥に漂い始めると、大気はどろりと粘性を帯びてムウの前方から後方へと流れ去っていく。

 更に深く、下へ下へと沈んでいくと、遠くの方で澄んだ風鈴の音が一定の調子で鳴り始めた。

 それを合図に様々な月のたちが、波のように近づいては離れていく。

 寄せては返す心地の良い月の音色に身を預け、やがて、その最も奥にある絡まり合った音色を手繰り寄せた時、ムウはゆっくりと目をあけた。

 もう狼狽うろたえることはしなかった、心のどこかでそうだろうと思っていたからだ。

 ムウは月を見上げると、そっと問いかけるように心の内で呟いた。

(やはりまだ……知らねばならぬことがあるのだな)

 アーシェラから彼らの物語を聞いても〈もやの月〉は変わらぬ姿でそこにあった。

 その事実を知った時、掴みかけた細い糸が手の隙間からするりと零れ落ち、目の前でぷっつりと切れてしまったようなが頭に浮かんだ。

 途端、どっと疲れが押し寄せてきて全身が鉛のように重たくなったのを感じた。

「我らの祖先は、その才を欲したのだな」

 突如後ろから声がして、ムウは驚いたように振り返った。

 慌てて声の主を探すと、丁度エメオスと呼ばれていた男がこちらに近づいてくるところだった。

 洞窟の中で姿を見せた時とは違い、目は閉じられていなかった。

 夜空の下で月の光を吸収し淡く光るその蒼い瞳は、吸い込まれそうになるほど美しかった。

「我らを恨むか?」

 静かに投げかけられた問いに、ムウは瞬きをした。それと同時に、つっと鋭い痛みが胸に走った。

(馬鹿げている……なぜ我らはこうも遠い昔にきつく縛られているのだ)

 ムウは小さく首を振ると、ため息をいた。

「祖先の行いから学ぶことはあっても、遺恨いこん宿怨しゅくえんを継ぐことはあってはならないことです。なぜなら、それは終わりをみせない……これから生まれくる新しい世代にそのようなものを背負わし縛り付けてしまうのは、とても悲しいことだと思います」

 ムウは更に続けた。

「私は真実が知りたい、ただそれだけです。過去から続く因縁めいた思想の檻に囚われるつもりなど毛頭ありません。それに……それで救われる命もないでしょう」

 エメオスはしばらくじっとムウを見つめていたが、やがて、静かに言った。

「血は……突然変化することはない」

「……?」

「その一族から、突如交わっていない別の一族の血が現れることなど決してありはしない。我らの祖先が月詠みの男の血を欲したのもその為だ」

「……では」

 ムウは冷水を浴びせられたように身体がこわばり、その先の言葉が紡げなかった。

 エメオスはムウの言葉をとって小さく頷いた。

「ああ、琥珀族は今も生きているのだろう」

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