第50話 終焉

 月詠みのころもがふわりと宙を舞った。――戦火に降り立った一人の狩人かりびとが、今狩りを始める。


 イファルは着地と同時に、力強く地面を蹴って駆けだした。

 月の光を宿した白刃はくじんが、馴染なじみの同胞を次々に切り裂いていく。

 喉笛から噴き上がった血は、雨の如く飛沫しぶきになって地に降り注ぎ、むせ返るほどの匂いを戦場にまき散らした。

 音も無くばたばたと倒れていく幾つもの亡骸が地面を黒く染め上げ、戦場を更に地獄絵図へと変えていく。

 放たれた矢の如く、瞬く間に戦場を駆け抜けるその突風は、同胞に声を上げる隙すらも与えなかった。

 イファルの周りだけがやけに静かだった。

――何も考えずともよい。身体が動くままに己の才をふるえばいい。

 どれほどの同胞を殺しただろうか、イファルはふと足を止めた。

 切り殺されていく琥珀族たちの悲鳴が、人が、家屋が焼ける匂いが渦巻く中で、イファルは目の前に現れたチソ族たちと静かに向かい合った。

 狩人かりびとの屋敷で見た壮年の男の姿はそこにはなかったが、彼らはイファルの姿を見るや一斉に飛び掛かってきた。

 しかし、あまりにも戦闘慣れしたイファルの動きに違和を覚えたのか、チソ族たちはすぐに動きを止めた。

 それを見て、イファルはすっと風よけの布を引き下げると静かに言った。

「お前たちの欲する月詠みの男はこの地を去った。残念だが、お前たちの望みはここでついえる」

 イファルが月詠みの男ではないと悟った後の彼らの動きは凄まじかった。

 戦闘民族のそれはイファルの急所を的確に狙い、確実に命を奪おうとする動きへと変わった。

 突き出され、宙をうなる幾つもの長槍が白い光となってイファルを襲う。

 身をねじってそれらを躱し、それでもけきれず切られた個所からは血が吹き出し、焼けるような痛みがイファルを襲った。

 しかし、動きを止めることはしなかった。

(一人ずつ確実に仕留めていけばよい)

 身体の動きとはうらはらに、冷静な頭は命のやり取りを前にしても決して揺らぐことはなかった。

 イファルは仕込んでおいた飛び道具を素早く敵に投げつけると、敵のふところめがけて飛び込んだ。

 敵はすんでのところで首をひねって飛び道具を躱したが、次の瞬間、イファルの突き出した剣がその首を貫いていた。

 素早く敵の腹を蹴り、剣を引き抜きながら身体を回転させて、襲ってきた長槍を弾き返す。

 その場からぱっと飛び退くと、再び距離を取りながら冷静に次の獲物を選んでいく。

 相手も手練てだれだ。流石に無傷と言うわけにはいかなかったが、攻撃を食らいながらも、イファルは一人、二人と確実に獲物を狩っていった。

 腕や頬、脇腹から血しぶきが飛ぼうとも、息が上がり心の臓が破裂しそうになろうとも構わなかった。

 そんなぎりぎりの戦いの中で、イファルは思い出していた。

 初めてユクに会った日を、気高き瞳に引き込まれたあの瞬間を、静かに庭を眺める後ろ姿を、天を見上げるその横顔を、そして、日の如く輝くあの笑顔を――。

 そうして、最後の一人が突っ伏すようにどさりと地面に倒れ込んだのを見届けると、イファルは力なく膝から崩れ落ちた。

 咄嗟に剣を突き立てて身体を支えようとしたが、震える手はもうその剣を握るだけの力すらも持っていなかった。

 ぐしゃりと顔から地面に倒れ込む。

 暫くして、頬を濡らす生温かい液体が、今もなお己から流れ続ける血であるということをようやく理解した。

 血だまりの中に横たわり掠れゆく意識の中で、イファルの脳裏に浮かんできたのは、小言をわめくナジウの顔とそれを可笑しそうに眺めるユクの顔だった。

(俺は守れただろうか……二つの種は無事、安息の地へと辿り着いただろうか……)

 最後の力を振り絞りぐっと身体を反転させると、腕を投げ出して天を見上げた。

(……きっと辿り着けたはずだ)

 イファルは満足気に小さく息を吐くと、静かに目を閉じた。



「お待ちください! 姫様!」

 ナジウの制止を振り払い、ユクは地面に倒れているイファルに駆け寄ると、その頭を強くかき抱いた。

 まだ温かい。だというのに、その人はもう息をしていなかった。

 震える手でそっと頬を撫でてみる。ぴくりとも動かぬ瞼がゆっくりと開くのを期待して。

 けれども、それは叶わぬ願いだった。

 ヒュッとおかしな音を立てて喉が鳴った。それでも震える手で何度も何度も頬を撫でた。

(なぜ、その顔を私のそばでしてくれなかったのですか)

 ぼたぼたと垂れ落ちる幾つもの涙が、その人の頬に付いた血を洗い流していく。

(なぜ、貴方は血だまりに中で……たった一人……微笑みながら死んでいるのですか)

 呼吸が上手く出来ず、心の臓が悲鳴を上げ始めた。

 耳奥で太鼓のように、どっ、どっ、と脈打つ大きな鼓動が己のせいを否が応でも知らせている。

(なぜ……なぜ、私は生きている! 肉親も、一族も、愛しき人すらも救えぬこの私がなぜ生かされているのだ!)

 ユクは震える手で顔を覆った。

 爪が頬に食い込み、次第に皮膚を削っていく。ゆっくりと引き下ろされる爪を追うようにして滲み伝う血は、まるで赤い涙のようだった。

 瞬間、ユクは天を仰いで泣き叫んだ。

 白銀はくぎんに輝く月の光だけが金色こんじきの髪を照らしている。

 全てが終わった静かな戦場で、娘の慟哭だけが長い間響き続けた。――天照あまてらす太陽神たいようしんに愛された琥珀族の歴史が、天に返った瞬間であった。


 ああ、天が泣いている。

 ナジウは押しつぶされそうになる胸を抑えユクに駆け寄ると、力いっぱい抱きしめた。

 我を忘れて泣き叫ぶユクを、ぎりぎりと歯を噛み締めながら力の限り抱きしめた。

 戻るべきではなかった。こうなることは分かっていたはずなのに……どうしても止めることが出来なかった。

 ナジウの後悔はユクの悲痛な慟哭と混ざり合い、未だ燃え続ける琥珀族の地へと静かに消えていく。

 その時、ざっと地面を踏む音がしてナジウは顔を上げた。

 血にまみれた壮年の男が一人、こちらに近づいてくるところだった。

 一瞬、琥珀族の生き残りかと思ったが、ナジウはその瞳の色に見覚えがなかった。

 あおい瞳の男は周りに倒れている亡骸をゆっくりと見回すと冷めた目でナジウを見下ろしながら言った。

「我が同胞たちをほふったのは貴様か」

 瞬間、長槍が目にも止まらぬ速さで上に上がった。

 動けなかった。振り下ろされる長槍を前に瞬きすらも出来ず、ナジウはその光景を呆然と眺めていた。

――けられぬ。

 そう思った瞬間、目の前でのかち合う甲高い音が響いた。

 はっと我に返り、突如現れた一本の刃を辿るようにして顔をあげると、見知らぬ女がそこにいた。

 黒いころもを纏った痩躯そうくの女の顔は、どことなくを彷彿とさせる顔立ちをしていた。

 女は素早く長槍を弾き返すと、男に向かって無機質な声で言った。

「グホン様は任務完了の命を下されました。速やかにこの場から撤退願います」

 男は解せぬ様子で片眉を上げた。

狩人かりびとの女よ、約束をたがえるな。我らチソ族がこの戦に加わる条件は、そこに横たわっている月詠みの男だったはずだ」

 男はそう言うと、すっとイファルの亡骸を指差した。

「なん、だと……」

 震え声で呟いたナジウをちらと一瞥し、男は再び女に問うた。

「琥珀族を殲滅させる代わりに月詠みの男を差し出す、それが条件だったはずだ。それがどうだ、なぜ我らの獲物がそこで死んでいる? これでは月詠みの血と交われぬ。我らが欲した月詠みの才はどうなる」

(ああ……)

 ナジウの頬に静かに涙が伝った。

 火山が噴火するように腹の底から一気に膨れ上がった怒りを辛うじて抑え込んだのは、きつく噛み締めた唇から流れた血の味だった。

(そうか……お前は……俺をも守っていたのだな)

 全てを理解したナジウは心の内でそう呟くと、濡れる瞳でゆっくりと天を見上げた。

 煌々と輝く満月をそのまなこに宿し、すうっと大きく息を吸って吐いた。

「動くな」

 その瞬間、周りにある全てのものの動きが止まった。

 男はその異様な気配に目をむき、一気に後方へと飛び退いた。

 多くの殺しを経験したイルですらも、その得も言われぬ気配に全身が粟立ち、反射的に身構えた。

 ナジウは飛び退しさった男を睨み付けると、静かに口を開いた。

「お前たちに月からのご宣託せんたくをやろう。月は俺にこう告げたぞ。――ほどけた糸が再び交わる時、両糸結ばれ一つのやいばと成る」

 続けて、ナジウは不敵に口の端を歪めてみせた。

「さあ、やいばとは何だろうなあ。誰を刺し、何を切る……決して忘れるな。よこしまな影に手を伸ばし、天より光を引きずり下した大罪を。そのために多くの尊き命を奪った大罪を……努々ゆめゆめ忘れるな」

 そのあとも異様な気配はその場から消えることは無かった。

 ナジウはゆっくりと立ち上がると、呆然と佇む男とイルを残し、泣き続けるユクをかかえてその場から静かに去っていった。


 こうして、終焉を迎えた琥珀族の地に残ったものは、満足そうに微笑む男の亡骸がただ一つ。

 その片方の耳に授けられた金色こんじきの耳飾りだけが、月の光を反射して、いつまでも、いつまでも煌めいていた。

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