第32話 木橋の老爺

 その森は終わりを知らぬように何処までも奥へと続いていた。

 道らしき道は途中で途切れ、代わりにいくつもの細い獣道が出来ていたが、今は獣の姿はおろか気配すらも感じられぬほど、がらんと静かな空間がそこには広がっていた。

 頭上では、背の高い木々たちが枝を広げ合い、緑の薄い天蓋てんがいを作り出している。

 首を折って頭上を仰ぎ見ると、緑の天蓋はムウの後方から前方へと波打つように膨らみながら流れていく。

 そのさわさわと流れる葉の動きで、森を吹きぬけていく風の形がよく分かった。

 揺れる隙間から差し込む日の光が地面をまばらに照らしながら、風と共に踊り去っていく。

 ムウはその光を追うようにして、ただひたすらに奥へと歩みを進めた。

 日が沈むと辺りは闇に包まれ、この季節でも薄っすらと肌寒かった。

 獣たちがゆっくりと目覚め出した気配や、夜行性の鳥が頭上を横切っていく音が聞こえ始めると、ムウは細切れに眠りにつきながら、時折、虫よけの薬草を焚火に放り込んで火を焚き続けた。


 森に足を踏み入れてから五日目の昼間にようやく森を抜けた。

 ぱっと強くなった日差しに一瞬目がくらんだが、突き抜ける青天井が目に飛び込んでくると、爽やかな解放感が全身を打った。

 ムウは目を細め、手で日差しを遮りながら、眼前を横断する幅の広い川を眺めた。日の光を浴びて煌めく水面とは違い、水底は濃暗色にかげり、その深さを表していた。

 向こう岸には更に森が続いており、ようやく森を抜けたと思っていたが、自分がまだ広大な森の中にいるのだとムウは悟った。

(何処かに向こう岸に渡れる橋があるはずだ)

 上流を目指しながら、暫く川沿いを辿っていると前方に大きな木橋が見えてきた。

 それは頑丈に造られたものではなく、向こう岸に渡りさえすればいいというような簡素で低い橋だった。長年雨風にさらされ続けた結果だろう、欄干にびっしりと苔が張り付いているのが遠目からでもよく分かった。

 近付いていくと、入り口付近にぽつんと建てられた小さな地蔵の横で、編み籠を脇に置いた老爺ろうやが休息を取っているのが目に入った。

 ムウは老爺に近づいて声を掛けた。

「お隣よろしいですか?」

 老爺は驚いたように顔を上げ、ムウの顔をじっと見つめていたが、やがて、ゆっくりと頷きながら口を開いた。

「おう、座れ、座れぇ、こげんな所に人がおるとは珍しいのう、何処から来なすったぁ?」

 歯がほとんど無いのか、もごもごとくぐもった話し方だったが、久しぶりに聞いた人の声にムウはほっと安堵を覚えた。

「最南端のアウタクル王国から来ました」

「ほうか、ほうか、えらい遠い所から来たなぁ。そんな異国の人がこの辺に何か用かぁ?」

 老爺は隣に腰かけたムウを不思議そうな目で見つめている。

「ええ、クヴ谷へ行く途中なんです」

 ムウが微笑みながら答えた瞬間、老爺はかっと目を開き、青ざめた表情でムウの両肩をばっと強く掴んだ。

「ならん! 行ってはならん! あそこには人ならざる者が棲んでおるぞ!」

 老爺はしきりに頭を振りながら、わなわなと唇を震わせて更に続けた。

「古い言い伝えだがな、あの谷は人食い共の巣だ。入った者は取って食われて二度と帰って来ねぇと言われておる。だから誰もあそこには近付かねぇ。お前さんあそこに何しに行く! あそこは禁足の地だぞ!」

 まくし立てるように一気に話す老爺に圧倒され、ムウは面食らったように老爺の顔を見つめた。

 その時、ふと、ヨヌアの言葉が頭に浮かんだ。

――よほど身を隠したい者たちのように感じます。

 ムウはぐっと眉根を寄せた。

 あまりにも徹底され過ぎている……各地で異なる情報をばら撒き、付近にはこうして畏怖いふの言い伝えまで根付いている。

 なぜそうまでして彼らは身を隠さなければならないのだろうか。一体何から身を隠しているのだろうか。

 ムウの頭の中で疑問だけが膨らんでいくばかりだった。

「悪いことは言わねぇ、すぐに引き返しな」

 老爺はムウの目を見つめながら、諭すように静かに言った。

 しかし、ムウは小さく首を振ると、そっと老爺の手を掴み自身の肩から引き剝がした。

「すみません、それでも私は行かねばならないのです。ご忠告ありがとうございました。気を付けて行って参ります」

 ムウはすっと立ち上がると、老爺に深々と頭を下げた。

 心配そうに見つめる老爺の視線を背に受けながら、ムウはゆっくりと橋を渡っていった。

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