第2話 無知で無垢な幼女

「……な……何とか……はぁ……逃げ切れた……かな……はぁ……」

 無表情のまま俺のことを見つめる幼女の前で、俺は地面にへたり込んで全身を激しく上下させていた。

 先程の塔が建っていた場所──完全に崩壊した遺跡のような場所を抜けた先に広がっている、光る岩がごろごろしている山道のような緩やかな斜面。岩や立ち枯れした木が突っ立っている以外にも何かの残骸らしき物体がちらほらと転がっていて、それらは追手の追跡から身を隠して逃れるのに重宝した。

 それにしても……この残骸、元は一体何だったんだろうな? 鋼鉄の鉄板に、明らかにギアとかモーターと思わしき機械っぽいパーツが組み込まれた箱……車とか飛行機とか、地球の乗り物を彷彿とさせる代物だ。ひょっとしてこの世界には地球と同じように機械が存在しているのだろうか。

 まあ、こうして身を隠すのに役立ってくれたのだから、何でもいいけどな。どうせ壊れた物体だし。

 深呼吸を何度も繰り返し、ようやく落ち着いた俺は、ゆっくりと顔を上げた。

 視線の先には、相変わらず変化のない表情で俺のことを見つめている幼女がいる──

 こいつの実際の歳が幾つなのかは分からないが、外見の割に随分大人びてるというか、ロボットみたいというか……全然人間らしさが感じられない。ようやく初歩的な人工知能AIが搭載されるようになった日本のロボットだって、多少は笑ったりするぞ。

「……あのさ……お前、俺がこうして疲れ果ててる様を見ても何とも思わないわけ?」

「?」

 幼女が小首を傾げた。

 一応、俺に話しかけられていることは理解はしているようだが……言葉の意味自体は分かってはいないようだ。

 ……ひょっとして、俺の言葉が通じていないとか?

 此処、異世界だし。その可能性はありうる。

 ……でも、こいつ、俺のことを「お父さん」って呼んでるし……少なくとも俺の方は、こいつの言葉は理解できているわけで。こいつの言葉は俺には通じているのに、その逆ができていないってのは考えづらいんだよな。

 一応確認してみるか。

「……お前、俺が言ってることは理解できる? お前、さっきから『お父さん』しか言ってないけど、それ以外の言葉は言えないの?」

「オトーサン」

「……ああ、うん……じゃなくてな。えっと……そう、名前。お前の名前は、何て言うんだ?」

 俺の名前は棗理杜だ、と自分の顔を指差しながら教えると、幼女はさっき傾けていた方とは反対側に首をこてんと傾けて、目をぱちくりさせて、言った。

「ナマエ、ナイ」

「ない? お前、名前ないって……親に付けてもらった名前だぞ? ないの?」

 幼女は沈黙した後、再度口を開く。

「ナイ」

 ……名前がないって……生まれてすぐに捨てられでもしたのか?

 日本でも、経済的な理由とかで育てられないからって産んだばっかりの赤ん坊を駅のロッカーとかゴミ箱とかに捨てちまう親が稀にいるらしいけど……

 異世界も色々と世知辛いんだな。

 ……ああ、だからか? こいつの言葉遣いが微妙に変というか、無機質なロボットみたく見えるのは。親の愛情を全然知らないままに育ったから、言葉の知識は元より人間らしい感情の出し方を知らないのかもしれない。

 ……それじゃあ、無理もないか。俺が目の前で疲れ果てていても、それに対して何もアクションしようとしないのは。知らないことをやれと言うのは無理難題ってもんだ。

 俺は体勢を胡坐をかいた座位に直して、真正面から幼女の顔をじっと見据えた。

「名前がないのは流石に困るな。……そういえば、俺の……というかお前のことを追い回してた連中は、お前のことを『ニル』って呼んでたっぽいけど……ニルって何なんだ?」

 普通に考えれば『ニル』がこいつの名前なんだろうが、個人の名前じゃなくて何かの俗称って可能性もあるしな。ファンタジーだと「××の巫女」とか「××の使徒」とか言ったりするだろ? 厨二病患者大好き、ダガーマークとかで囲って書きたがる称号みたいな名前。

 幼女は俺の質問に再び口を閉ざして、やはり全く表情を動かさないまま、答えた。

「ワカラナイ」

「……そっか」

 ……こりゃ、こいつから情報を得るのは期待できそうにないな。

 現時点で分かっているのは、此処は異世界で、こいつのことを血眼になって探し回って手に入れたがっている連中がいること。これだけだ。

 この世界のことを知るには、とにかく何処でもいいから人の集落を探してそこで話を聞くしかない。

 こいつをこのまま此処に放置するのは流石に良心が咎めるから一緒に連れて行くとして。人前でこいつのことを『ニル』と呼んだらまた襲われるかもしれないから、何か別の名前で呼んだ方がいいだろう。

 こいつにちゃんとした本名があるのだとしても、どうせ生涯一緒にいるわけじゃないんだ。一緒にいる間だけだったら、愛称ってことで別の呼び方をしたって問題はないはずだ。

「なら……そうだな」

 さて……それなら、どんな名前を付けてやるか。

 俺は幼女の容姿を観察する。

 髪の長さは肩に掛かるくらい。ふんわりと丸く膨らんでいるような髪型で……こういうのをボブカットって言うんだったっけ? 表面は雪みたいに真っ白なのに、日が当たらない内側の髪は微妙に紫がかった色をしている。

 瞳は金と紫が混ざったような不思議な色をしていて、肌は色白。手足は細く、全体的に丸みを帯びた体つき。まぁ幼児らしい体型って感じだな。

 着ているものは何の飾り気もない真っ白なワンピース一枚だけ。さっき追手から逃げる時にこいつを抱き上げて気付いたことなんだけど、こいつ、パンツ穿いてないんだよ……そのお陰でこいつが女の子だってことが分かったわけなんだけど、自分がノーパンなことに対して何も感じてないのかな、こいつ。

 異世界に住む人間らしい姿、って感じの容姿だけど、典型的な異世界人のイメージそのまんますぎて逆に特徴らしい特徴がない。

 女の子……白……紫……うーん……

「…………よし」

 数分くらい唸って考えた末に。

 俺は、頭に浮かんだひとつの名前を口にした。


「それじゃあ、今からお前の名前は『アメリ』だ。分かるか? アメリ、だぞ」


 アメトリン、って宝石を知ってるだろうか。アメジストとシトリンが混ざった、紫と黄色の二色が混在する石だ。

 こいつの瞳の色が、アメトリンに似てるんだよ。何となくだけど。外周は金なんだけど、中心に向かうにつれて紫に変わっていくグラデーションの目。異世界人だとこういう色の目って当たり前にあるものなのかどうなのかは知らないけど、この目は純粋に綺麗だって思ったんだよな。

 だから、アメトリンに因んだ文字を取って、女の子らしい語呂で『アメリ』。結構可愛いだろ?

「これから、お前のことはアメリって呼ぶからな。名前を呼んだら返事くらいはしてくれよ」

「……アメリ」

 アメリは自分の名前を呟いて、自分の顔を指差した。

 それから、その指先を俺の方へと向けて。

「……オトーサン」

「いや、だから、さっき教えただろ。俺は『オトーサン』じゃなくて……『リト』だ。リト。あぁ、ナツメでもいいけど。とにかく、お父さんじゃないから、な」

「オトーサン」

「だから……はぁ、もういいや……しばらくはそれでいいから、ちゃんと俺の名前も覚えてくれよ」



 かくして。人間としての常識どころか言葉すらろくに知らない幼女を連れて、俺は人の集落を探して右も左も分からない異世界の地を旅することになったのだった。

 持ち物は着衣ひとつ。武器なし、魔法はさっき試したけど煙すら立たなかったから多分使えない。

 世に初めてTVゲームが登場した頃。当時のアクションゲームには、敵に接触されるどころか転んだだけで即死するような代物があったらしい。まさにそれを現実にしたかのような前途多難すぎる俺の異世界生活の幕開けだった。

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