落陽

烏川 碩

序章

 その日、僕はまた一つ大人になったと確信した。


 僕が通う中学校はあまり大きな学校ではない。

 各学年に四十名弱のクラスが二つずつ。つまり全校生徒でニ四〇名足らず。

 そんな中学校において、ブラックのコーヒーを飲める人間が果たして何人いるだろうか(それも一年生の夏にして!)


 僕がブラックコーヒーを飲もうと思ったきっかけは、大好きな『007』シリーズの主人公であるジェームズ・ボンドの影響が大きい。僕は彼を敬愛してやまないのであった。

 僕の中学校は制服がブレザーなのでネクタイを締める。クラス内ではウィンザーノットと呼ばれる、結び目の大きな締め方が流行っているが、僕は決してウィンザーノットにはしない。ウィンザーノットのような結ぶのに時間がかかる締め方をしている人間は顕示欲が強く信用できない奴だとジェームズ・ボンドが言っていたからだ。

 また、僕の中学校は全員、何かしらの部活に所属しなければならない。僕は柔道部に所属している。その理由もまた、ジェームズ・ボンドが柔道などの、あらゆる格闘技に精通した男であったからだ。

 僕は柔道なんてやったことがなかったが、入部することに関して両親からは特に反対などはなかった。なんなら僕が「柔道部に入ろうと思う」って言ったら、喜んでいたようにも思える。きっと、昔からこれといってスポーツに打ち込んだ経験がなく、性格がやや弱気な僕が柔道という男らしい競技に自ら進んで興味を持ったことに成長を感じていたのだろう。

 そして、ジェームズ・ボンドはなんと言っても英国人でありながら紅茶ではなくコーヒーを飲む。彼はブルーマウンテンという銘柄の豆を、ケメックスというブランドのコーヒーメーカーで淹れて飲んでいる。

 僕の家にはケメックスのコーヒーメーカーなんてないし、ブルーマウンテンという豆もどうやって入手すればいいのか分からなかったが、とりあえず大差はないだろうと思い、家にあったドリップバックのコーヒーを飲んでみた。それが一年生の四月の終わり頃の話。

 初めて飲んだブラックコーヒーは理不尽に苦くて、不自然に酸っぱかった。きっと、コガネムシの内蔵を炒めたらこんな味がするに違いない。全く美味しいと思えなかったが、きっとこれが大人の味なのだろうと自分を納得させた。

 マグカップに並々と注がれたブラックのホットコーヒーを啜る自分に酔いしれる。僕はいま、大人だ。僕が普段はブラックコーヒーを嗜んでいるなんて知られたら、みんなはどう思うだろうか。きっと、熱烈に尊敬されるなんてことはないだろう。

 だがしかし、みんな心の中で、静かに特別視するはずだ。「あいつ、甘くないコーヒー飲めるのか。すごいな…」って。それでいい。いや、それがいいのだ。決して目立ちすぎはしないが、静かにみんなの心の中で特別な存在になる。それくらいの目立ち方が大人ってものだ。ああ、早くそれとなく僕がブラックコーヒーを飲んでいることがみんなに知れ渡る状況がやって来ないものか。

 始まったばかりの中学生活に期待感が募る一方だった。そんな四月のとある日曜日。

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