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 とにかく暗かった。暗いというより重い。闇という実態の無いものでもこれだけ集まれば重さもあるのか、というくらいこの町の夜の闇は濃い。


 わたしは小屋から漏れる心許ない黄ばんだ光を背に受けて、じっと暗さから浮かび上がる町を見ようとした。でも自分が光の中にいるうちは何も見えない。一歩、また一歩と踏み出し、小屋からの光が届かない場所まで来ると、町はゆっくりとその姿を見せてくれた。


 見渡す限り畑だ。ポツンポツンとある民家はかなりの間隔を開けて寂しそうに建っていて、窓の向こうの家主はどれも寝たようで明かりが点いている家は見当たらなかった。その家々を繋ぐ畑を横断した道は塗装されているものの、車一台がやっと通れるくらいの細さだった。今わたしが歩いている、駅から大通りに繋がるこの道はメイン通りと言えるかもしれない。

 そんなことを考えながら歩いていると、やっと大通りにぶつかった。なるほど、片側一車線だがきちんと中央に白線があり、狭いながらも歩道があった。この道をずっと行くと雑居ビルがあるらしいが、大きなカーブが山の向こうに消えていてその先が見えない。


 その時、ふわりと潮の香りがした。


 わたしは思い出した。駅員が見せてくれた地図によると、この大通りと平行にもう一本道が書かれていた。その道は海岸をなぞっていた。


「始発までこの町から出られないし、少しぶらぶらするか」


 わたしは海岸沿いの道を探すことに決めた。時間はたっぷりあるし、何しろ夜の海なんて初めてだ。歩道脇は木々が生い茂っているので、とりあえずこのまま進むことにした。


「と、その前に・・・」


 わたしは携帯をポケットから取り出した。何件かの着信履歴があり、わたしが家を出て少し経った頃に届いたメッセージも一通あった。

 全て母親からだった。わたしは着信履歴をすべて削除し、メッセージも開かないまま電話帳をタップする。

 『おばあちゃん』と書かれた項目の電話マークをタップすると、すぐに応答があった。


「恵美ちゃん?」


 母方の祖母の声。きっとずっと電話の前で待っていたんだろう。その姿を想像すると申し訳なさでぐっと涙が込み上げてきた。


「ごめん。電車で寝過ごしちゃってそっちまで行けなかった」


 寝過ごしたなんて嘘。家を出て各駅切符を買ったときにはもう、今日おばあちゃん家に着かないことは知っていた。

 わたしを心配してくれる人がいる。ただそれを確認する為だけに、おばあちゃんをこんな時間まで不安にさせてしまった。


「まぁそうだったの」

「ごめんね・・・」


 本当にわたしって、だめだなぁ・・・。


「明日そっちに着くから。ホテルももう取ったから、安心してね」


 おばあちゃんに漫画喫茶って言っても分からないだろうからそう伝え、電話を切った。時間を確認すると22時半になるところだった。

 こんな時間まで起こしてしまってごめんね。ボロボロと零れる涙を拭うこともしないで、わたしは電池残量がひとつになった携帯の電源を切り、コートのポケットに入れた。

 おもむろに振り返ると一面真っ暗だった。駅の電気も消えていた。

 闇は更に重さを増した。

 

 この町の唯一の出口である駅の電気が消え、わたしは一生ここに閉じ込められたような不思議な感覚に陥った。

 帰れない。つまり、帰らなくていい。

 ホッとした。

 と、同時にそこまで追い詰められている自分に気づいてかわいそうになった。


 家に帰ると高校三年生の冬休みという現実が迫ってくる。双子の妹も友人も進学や就職を決めているのに、わたしだけ立ち止まったまま。

 友人に不安を打ち明けたこともある。彼女たちは「大丈夫だよ」「まだ間に合うよ」と笑った。それを聞く度、わたしはますます突き放された。

 遠くに、遠くに、遠くに――。

 彼女たちから自ら離れる為に、わたしは家を出たんだ。


「結局家出じゃん」


 思わず口から出てしまった言葉は冬の風に乗って消えてしまった。きっとそれは見えなくなってもわたしを追いかけてくるんだろう。

 ふーっと伸びをして空を見上げると、自分の白い息の向こうに満点の星が見えた。


「すっごい、きれー」


 そのまま上を向いて歩いていると、木々が急に無くなった。左側数メートルだけ開け、砂が散らばった道がある。くねくねとしていて先は見えないが、きっとこの先に海岸沿いのもう一本の道があるに違いない。

 足を踏み入れると、途端に背後から照らされた。久ぶりに見る明るいライトに振り返ることも出来ず、目を細めた。


「どこにいくの」


 聞き覚えのある声。これは、あの駅員?

 両手で影を作りながら振り返るとやっぱりそうだった。


「あ、ごめん。眩しいよね」

 駅員は自転車のハンドルを切り、わたしから灯りを外した。

「ここは変質者もめったに出ないけど万が一のことがあるから街灯のある大通りの方がいいよ。それに漫画喫茶もこの通り沿いだし」


 駅員は黒いジャンパーを着て、色褪せたジーンズを下げすぎず上げすぎず、絶妙な位置で履いていた。シルエットはとてもかっこいいが表情を見ると幼く見えた。制服を着ていた方がまだ社会人に見える。

 わたしがこんな評価をしているとは知らず、駅員は尚も「そっちは遠回りだから」と大通りへ誘導しようとする。


「わたしには始発まで時間があるんだからいいの。それに夜の海なんて見たことないし」

「暗くて何も分かりはしないよ」

「音を聞くだけでもいい」


 譲らないわたしの腕を掴み、駅員は言った。


「この町の海には行かない方がいい。漫画喫茶まで送るからもう行こう」


 あまりに真剣に言うので、わたしは何も言えなくなった。そしてちらりと自転車を見る。荷台の無い古臭い自転車だった。


「わたし立ち乗り苦手なの」

「じゃあサドルに座って。俺が立ち漕ぎするから」

「なにそれ、足はどうするのよ」

「適当にぶらぶらして。タイヤに巻き込まれないように」


 わたしは結局キャリーケースを自転車の前かごにむりやり乗せ(少しかごか曲がった)、サドルに座った。駅員の腰に手を添えると、彼は立ち漕ぎを始めた。冷たい風がさーっと頬を擦る。彼の腰は上下に揺れてバランスを取るのが難しかったが、すぐに慣れた。 


「これって残業?」

「そう。手当つかないけど」

「ふうん、いつもやってるの? こうやって大通りから外れた客を拾うこと」

「今日が初めてだよ。家出少女も、夜の海に興味持つ女も」


 二回目の家出少女という言葉に、今度は何も返さなかった。駅員は言う。


「海なら明日行けばいい、明るいうちに。夜の海だけは・・・そっとしておいて欲しいんだ」


 海を、そっとしておく?


「どういうことなの」


 駅員は少し間を置いて「とにかく夜の海は危険だ」とだけ言った。そのあまりの暗い声色に、わたしは「分かった」と言うしかなかった。

 

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