瑠璃、幼少期 20

ドアノブの乱雑に回してもドアは開かない。正攻法で行けないのなら、手に持ったサバイバルナイフで年季の入った古い木目のドアを叩く。

「滅茶苦茶よ!金があっても意味がない!前科持ちの女に誰も寄り付かない!」

木目のドアが刃物に叩かれたせいで木屑が飛び散る。

「あんたさえいなければ!」

叫びながらナイフを振るう。怒号と強烈なノックに耳を塞ぐ。トイレにあたしの悲鳴が響く。こんなに喧しいのに雨音はあたしの体内に浸水し、冷たい温度が耳に残る。

「何が愛してるだ!ふざけんな!」

母の怒号は止まらない。

「安っやすい言葉信じるくせに!なんで言う通りにいかないのよ!」

あたしと母を隔てるドアに穴が空く。一点に集中して叩いて空いた穴から母の血走った青い目が見えた

「あんたさえいなければ!あんたさえ!」

形振り構わず、憎悪にかられた身振りで叩く。激しいノックにあたしは縮こまり、便器にしがみつく。

母ではない、と心の中で訴える。いつも褒めてくれる母ではない、笑いかけてくれる母ではない。

母の血走った目、興奮と駆られた瞳。どこまでも深い青い色はあたしがよく知っている目だった。

「子供なんか産むんじゃなかった!」

金切り声の叫びがあたしを刺す。

その時、トタンの階段を踏み鳴らした。誰も来ないはずのボロアパートに人が集まり、しかもあたしたちの部屋に近づいているようだった。

警察だ。

瞬時に判断したのは母であり、あれほど溢れて暴れていた激情が一気に青褪めた。

サバイバルナイフを放り捨て、玄関とは反対の今の方へと走り出す。

「警察だ!開けろ!」

けたたましいノックと責めたてる怒声がトイレに籠るあたしにまで聞こえた。

玄関前に刑事が立っている。ボロアパートの周囲にも警官やパトカーが囲んでいるだろう。

すでに母の逃げ道は塞がれていた。その事実は母もわかっていたけれど、責めたてる刑事に背を向けずにはいられない。切迫された思考は狭い部屋から脱出することだけを考えていた。そして、脱出口は1つしかなかった。

居間の窓を開く。久々に吸った外の空気。冷たい雨が頬を打つ。母は身が縮まる程の気温にも構わずに窓の格子に手をかける。

2階の窓から跳び、ブロック塀の外に降りる。それが切迫した母の目論見だった。

雨で濡れた格子を足場にしてしまったせいで素足は赤錆の上で滑り、バランスを崩した体勢は頭が下になった。

その頭はブロック塀の角と衝突する。年季が入っているとはいえ、コンクリートの硬さは変わらない。

ブロック塀は母の前頭骨を砕き、脳漿と血液が溢れて地面に染み込んだ。

脅威が去ってもあたしは未だに耳を塞いで身体を震わせていた。涙は枯れていた。感情も同じだ。

理解を超えた状況だった。10歳の少女は感情も捨てて、無の空間に心を閉じ込める。

婦警がトイレからあたしを保護しても、優しい声かけにも放心状態で簡単な相打ちもできなかった。

アパートの階段を降りる。あたしは婦警の手に引かれて、引かれるままに歩いていた。視界の隅に横たわった人物が出て、足を止める。

母だったものが地面に転がっている。救急車のサイレンが聞こえてこないと言う事は、そこにあるのは人ではなく、抜け殻と言うことだろう。

裂いた皮膚から頭蓋骨と脳みそが見える。脳漿と血液が混ざったそれは外気に触れると温度が下がり、雨水が合わさり、遺体の周りで赤い水溜りが広がっていく。

秋の雨は冷たくて痛い。あたしを打つ雨も痛いはずなのに何も感じない。

きっと、母の前頭骨から流れる体液と一緒なんだ。母は身体から体液を流して、あたしは感情を流す。

雨に流れた感情は二度とあたしの元には戻らない。道路の排水溝に流れて汚い下水と混ざり合う。母への執着も愛情も全部、汚い下水になる。

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