ずれ 19
そういえば、カンダタがあれほどひどいと騒いでいたのに血沼は水の青臭さがするだけで耐えられないものじゃない。商品棚からわざわざ持ち出したマスクはあたしには不要だった。
カンダタに渡したものがここにあるとするならカンダタもここを通り、出口に向かったってことよね。
「何よ。あたしより薄情者じゃない。探していたあたしが馬鹿みたい」
あたしが愚痴を漏らしても、安心はしていた。得体の知れない化け物がいるビックリ箱の中を歩くよりも少ない知識でもある程度、知識のある地上がまだ安らげる。
あたしは地上へ向かって歩道を歩き、T字路の真ん中に立つ。その左折の通路、地上の階段に黒い死骸が転がっている。カンダタじゃない。あれは鬼。
また死骸?でも、さっきのと様子が違う。
駐車場にいたのは黒い包帯に巻かれて外傷もなかった。地下歩道の階段で投げ出されて捨てられた鬼は何て言ったらいいのか、ひどい有様だった。
腕は引き抜かされて、首の皮が剥がされ、胸からはあばら骨が抜き出ている。
「これ、噛み跡よね」
無残な死骸を観察してみると霊長類特有の歯並びをした跡がある。あの咆哮の主?それとも。
あたしは階段を登る。カンダタは地下から出ている。戻る必要もない。咆哮の主も知る必要もない。
光が強くなった地上にでると、地下歩道の出入り口の片隅に黒く丸まる人がいた。やっと見つけた。
カンダタは大きな自信を失ったサラリーマンみたいに小さくなって、自我を手放した精神疾患者に似た諦めの息遣いで、弱々しいものだった。
発狂、しないでよね。
祈りながらカンダタに近づいたのはあの鬼の傷跡が不明のままであり、あたしのもう一つの推測が当たってしまうのが恐ろしかった。
「探したのよ」
悟られないよう話しかける。
「あぁ、ごめ、ん」
寝ていたような声色ね。両腕を膝に置いて顔をうずませる。うたた寝していてもおかしくない。
「呑気に寝ててもいいのよ。あたしは先に行くわ」
「起きる、よ」
自傷も奇声もない。通常のカンダタ。あの出来事の後では異常に思える正常さ。発狂した覚えがないのかしら。
勘ぐっていたあたしは平静でいられた。カンダタがいつも通りの反応をしていたから少しだけ疑心が和らいでいた。
それが崩れたのは彼が顔を上げてしまったから。
あたしは身を守るように彼の前から身を退く。驚きと警戒で見開いた瞳は危険物から目を離さないよう凝視する。
カンダタの顔、主に口周りにべっとりとした血がねばりながらも口から顎まで滴っていた。
あたしの急変した態度はカンダタに疑問を持たせるには十分だった。彼は立ち上がり、どうしたのかと聞いてくるけれど、それはあたしの台詞よ。
「顔、すごい汚いわよ」
遠回しに答える。刺激を与えない答え。あたしもいつも通りを貫きたかったけれど、震えた声はぎこちない仕草をしていた。
あたしからの指摘を受けたカンダタは自身の顔に触れる。右手の親指がない。
「転ん、だ時かな」
そんなわけがない。転んだとしても顔に、特に口周りだけつくのは不自然よ。カンダタがあの残骸を食ったのは明らかね。ほかにもカンダタの風貌にはおかしな点があった。
不摂生な爪に赤い塊が詰まり、指先はそれに似た色で染まっている。首には何度も引掻いたみたいな赤い筋が何十本も首元から顎下まで続いている。傷は増えているというのに自分で引き抜いた腕の傷がない。
この事象について問い詰めてやりたい。
混乱した心を宥めてポケットのハンカチをカンダタへと差し出す。
見た目はどうであれ、今のカンダタは正常みたいね。あたしに噛みついてはこない、はず。なら、あたしも正常を装うべきだわ。
「これで拭けばいいわ。はぐれた後、色々大変だったみたいね。その、見た感じだと」
「そんな、気がする」
カンダタの返答は地に足がつかず、ふわふわとした口調だった。
「俺は、こんでここに?」
「地下であったこと覚えていないの?」
ふわふわとした言動はそこから来ていた。
謎の傷、ここにいる理由、起きた出来事。カンダタの記憶は曖昧となっていた。だからこそパニック状態になりそうなのに、カンダタは平静としていた。
「どこで、何が?」
「あんたが狂ったのよ。地下で」
カンダタが受け取れない事実だ。それでも、あたしはそれを選ぶ。
「あんたが蝶に囲まれて自分の腕の皮を剥いだり、肉を千切ったり、したのよ」
「そんなはずない。腕に、傷もない」
カンダタが見せた両腕は綺麗で、青く浮き出る脈動が正常に動く。
確かにこの目で見た。蝶がカンダタを中心で飛び交わし、その中で自身の腕を爪で裂いて捌くように、躊躇いもなく自律神経を抜いていた。だからと言ってそれを証明できるものはない。カンダタの腕も直ってしまっている。
「なら、その首のは?どうしたっていうのよ。あと、親指もなくなってるじゃない」
路線を変えてみた。自傷行為が信じられなくても自分の頭がおかしくあっているのは認めてもらいたい。
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