ずれ 6

 身を強張らせて棚の裏側にいる蝶男を睨む。あたしの意図を読み取った彼は慌てて取り繕う。

 「害を加えようとか考えていないよ。君を助けたいんだ」

 「ありきたりな言い訳ね」

 「本当さ、アドバイスだってある。空の穴に行きたいなら地下駐車場から行くといい」

 蝶男の話を疑いの眼差しで聞く。

 「地下は作りが雑だからすぐに着けるはずだよ」

 「言われたとおりに動くと思う?正体も見せない男のアドバイスを信じると?」

 何がおかしいのか。蝶男は含み笑いをしてさらにあたしを苛立たせた。

 「でも、ミステリ感があるほうがわくわくするだろう?」

 「笑えない」

 「他に行くべき道がないのは確かだろう?あの長い道のりを越えられるはずがない」

 蝶男は正しい。百年以上いるカンダタですら空の穴には着けていない。じゃあ、蝶男の助言を信じる?あたしは他人を信じるほど馬鹿じゃない。

 悩んで迷うあたしは口を閉ざす。あたしが黙ると代わりにハクが抑えていた憤怒を爆発させた。

 ハクは自前の鉤爪と牙で突進し、棚ごと蝶男を押し潰そうとする。

 実体を持たないハクでは押し潰すどころか棚にも触れられない。ハクの体は棚をすり抜けて消える。

 あたしはハクを追い駆けて向かいの棚へと回り込む。蝶男の顔を拝もうとライトを照らす。

そこにいるはずの蝶男はいなくなって、どこからかあの苛立つ声が聞こえてきた。

「君のお友達にもよろしく言っておいてくれ」

伝えるつもりのない伝言を残して黒蝶と男の言葉は闇の陰に溶けていった。

「何よ。あれ、あんたの知り合い?」

あれほどの憎悪をむき出しにしていたハクだったのにまた呆けた顔に戻って首を傾げる。この鳥頭は嫌悪も忘れてしまうようね。

地下駐車場、ね。

蝶男の助言を信じるわけでもないけれど、ひとつの案として頭の片隅に置いたのは彼の言う通りでこれよりの良案がなかったからだった。



暗い静寂の中でカンダタは睡魔の誘惑に負けそうになっていた。

怪我を負ったカンダタを置いて瑠璃はどこかへ行ってしまった。カウンターの陰に身を縮ませて彼女の帰りを待つ。

 彼の意識を頼りなく支えていたのは奇しくも鬼から貰った傷で痛む度に頭を叩いて眠気を少しの間遠ざける。

夢と痛みが対岸となってカンダタの意識は櫂も持たずに流れる波に任せて漂っていた。

 危うい状況だった。舟は夢の岸につこうとしていたのだ。頭ではわかっているが本能はいうことを聞いてくれない。

 「あんなに走ったのは久しぶり、だな」

 独り言でもいい。思い出した言葉を使って意識を繋げる。

 「へぇ、じゃあ、今までは?」

 瑠璃の声ではなかった。透き通った優しさのある声だった。いつからいたのかどこか聞こえるのか、女性はカンダタの独り言を返してきた。

 「必死だったよ」

 驚きはしたが、恐ろしくはなかった。声色が安定と温もりの色彩をしていたからだろう。その声に安らぎを得ていた。

 夢の岸に着いてしまったのだ。そうに違いない。夢ならば不思議な出来事はいくつもある。

 「諦め癖がついていたんだ。瑠璃に怒鳴られて気付いた。次があるって考えていたんだ」

 「次、ねぇ。行かなきゃいいのに」

 「それは、できない」

 「君の、待ち人?顔も忘れてるのに」

 黙ってしまう。全てを失った記憶。忘れてしまった罪悪感。それらがカンダタを黙らせた。声の主は続ける。

 「いないよ、そんな人。妄想だよ。空の穴には何もない」

 楽しげなぬくもりのある声色が棘のある台詞に変わった。これにはカンダタも苛立ちを覚える。

 「空の穴に行ったのか」

 「ないよ。でも、妄想か現実かの区別もつかないあなたよりは正論でしょう?」

 「なんだよ、それ」

 頭が深く沈む。瞼が重い。

 「起きていないと駄目だよ」

 「もう寝てるだろ。夢だって見てる」

 「夢じゃないよ」

 バアン、と破裂に似た音が耳を劈く。沈みかけた頭が起きる。目の前に瑠璃が立ち、筒状の物でカウンターを殴っていた。瑠璃が持っていたそれは先端から乳白色の光が発せられてその眩しさに目を瞑る。

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