邂逅するまで 9

 ひとつの店から微かな息遣いが聞こえた。その店は有名な喫茶店の割れたフロンドガラスを隔てた先。そこからは陰で覆われていて、カウンター席がうっすらと見える。明るい通路と違って完全な闇が店内を支配していた。


 ドイツの哲学者だったかしら。そんな名言を残していたのは。深淵を覗く時は気をつけろだっけ?全部は思い出せない。

 一般の女子高生が言葉の真意を理解ようだなんて考えもしないけれど「深淵を覗く」という感覚はこれに近いものかしら。


 吸い込まれそうな深淵と対峙する。すると、赤く光る球体が2つ、深淵に浮かんだ。

 それが目だと認識した時には赤目の生物がこちらへと向かってきた。あたしを狙う猛獣が深淵から出ようとしていた。


 浮かんだシルエットは手を伸ばして、あたしは逃げようと背を向ける。もうすでに遅かった。

 深淵の怪物はあたしの手首を掴み、その恐怖心はそのまま喉から悲鳴となって表に出た。それが拒絶だと直感したのか掴んだ手はさっと引いて、ひとつの沈黙が流れる。


 その時になって、あたしは深淵の怪物の正体を知る。あたしの手を掴んだのは鬼でも怪物でもなく人だった。

 黒く汚れたボロの浴衣をきた男。彼の赤い瞳はあたしの青い瞳を見つめ返していた。





 電車の中で食われて男は同じ場所で目を覚ます。

 あれは酷かった。息の根を止めず、ゆっくり、べちゃくちゃと男の意識を残したまま食べられた。

 どうせこれも忘れてしまうだろう。


 そう思い至り、男は立ち上ってバールを手にする。そしてまた空の穴を求めて歩き出す。


 いつまでこんなことを続けるのだろうか。一層のこと自我さえも捨ててしまおうか。思考を止めてしまおうか。


 何百回、何千回も繰り返した問答だ。これにも飽きてしまった。

 飽きた心はひとつの感情が死んだ証だ。いくつもの思考、思想が生まれて死んでいく。そうやって削られてすり減らされて男に残ったのはわずかな感情と「君に会う」という願望だけだった。この願望が自我を繋ぎ、切り離せないもどかしさが男を苦しめた。


 駅まで着くと周囲に警戒の糸を張り巡らながら改札へと進む。

 本来、多くの人が行き交うための場所なのにそこに立つのは男だけ。ただ広いだけの改札前は奇妙な虚ろを描く空間に思えた。


 改札前を通る際も注意が必要だった。あそこは身を隠せる場所がないのだ。天井を支える円柱はあるが、身を隠すには頼りがない。

 ゆっくりとした足取りで広間を通る。様々な所に注意を払う。向かうのは改札を抜け、ホームに上がる階段。その階段に何者かの影が差しこむ。階段を踏んで鳴らす音が無機質に反響する。


 何者かなんて決まっている。それは間違いなく鬼だろう。この世界には男と鬼しかいないのだから。

 幸い、商店通りからさほど離れていない。隠れる時間はまだある。

 急いで戻った男は一軒の店へと入る。光はほとんど届かない店内は暗闇に包まれており、隠れるのに丁度よかった。カウンターの後ろに隠れて明るい外の様子を伺う。


 何もなければそれでいいのだか、できれば姿を現してほしい。危険なものの行動を少しでも把握しておきたい。

 鬼しかいないと確信があった。地獄は男に孤独を押し付けていた。ほかの人間がいるはずがないのだ。絶対的な事実。それを覆したのは一人の女性だった。金髪と異国の服だろうか。奇妙な恰好をしている。


 女性は森に迷った少女の素振りで不安や好奇の瞳で周りを見渡す。

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