この世間に流れてどうしようもない

るらああん

この世間に流れてどうしようもない

 その女はケシ畑で背中から喉を撃たれて殺された。

 逮捕されたのは十五歳にも満たない露西亜少女だった。


「名前は?」

 イアンは尋問部屋で少女に根気よく問い詰める。

 ようやっと少女は重たい口を開き、「アーラ」と自らの名前らしきものを述べた。

「アーラ……ふむ、アーラ。素敵な名前だ」

 無論、イアンはそれが偽名であると疑っていたが……ひとまず、この場においてはアーラという名を持つことになる。

「パスポートを見なかったの?」

「君の口から、君自身の責任の上で言ってもらうことに意義がある」

 アーラは「そう」と素っ気なく吐き捨て、再び沈黙の霧に紛れてしまった。

 断頭台のような秒針の音色によく似た――手元のペンをノックする音が近づいては微かに遠のき、五回ほどそいつを繰り返した時。

「なぜ殺人を? どんな動機でも構わないが」

 調書を指しながらアーラは問う。

「君の言葉で聞かせて欲しい。同情に足るものかはともかく、民の血税で支払われた始末代と引き換えに君が渡すべき対価だ……損切りばかりの取引ではない」

 アーラは不敵に微笑み、殺人の経緯を消え入る声で話し始める……。


 アーラは極寒の地、ロシアの外界から隔離されたスパイの養成学校より逃亡した、元生徒である。スパイとは言えども洗練された国家機関の一員ではなく、マフィア組織の構成員を仕立て上げるためだけに作られた劣悪極まる調教施設の虜囚であった。どちらも公然の秘密という点において大差ないが。

 全てのきっかけとなったその日、不倫な学問の奴隷たる彼女らを襲うは、一見何の変哲もない風邪の症状に過ぎなかった。

「ただの風邪、すぐに治る」

 友は顔を苦痛に歪めながらも気丈に振舞う。その額は排熱する小銃のように火照っていたが、過酷な授業は予定通り開始される。

「本日の講義を開始する」

 その日の講義内容は色仕掛け、平たく言えばセックスだった。理性の箍を外させる最も効果的にして効率的な手段である。風邪の症状を患った友と、男根主義の教官が生徒たちを前に裸体でまぐわう。教官が男性器を挿入するたび、友はわざとらしく大きな声であえいでみせる。

 すると教官は挿入したままで友の頬をぶち、不遜な態度で告げるのだ。

「演技のらしさは興を削がせるぞ」と。

 言葉に反して、膣から抜かれた男性器は天をも突く勢いで勃起したままだったが。友は弱々しく出かけた声を飲み込んで抹殺し、威勢のよい声で自らをも偽って返事をする。

「心得ました、教官!」

 生徒たちが一斉に復唱すると、教室に背の高い、痩せぎすの女が入ってきた。女が教官に「欠員発生、生徒を一人借りる」と耳打ちし、教官はアーラを指して頷く。女はその動作に了解を得て、彼女を連れ教室の外へ出ようとする。

 聞かずとも悟っていた。

 これから私は、任務に駆り出される。

 背中越しに暫しの別れとなる友の息災を祈り、追い縋る視線には気付かぬふりを。

 成績優秀たるアーラには、いざとなれば実務さえも難なくこなす実力があった。

 今がそのときだ。

 作戦会議室にてアーラはボスから任務を受け渡される。

「北の奴らに商品を奪われ、身内が重傷を負った。その欠員にアーラ、お前を派遣する。品を奪還し落とし前をつけろ」

 走る棺桶に揺らされて隣町の支部へ。死体候補の輸送先は葬式会場ほど華やかでもない、閑散としたビルの一室。灰の町でもよく眺められる。

 やがて、軍事組織の横流しであろうマカロフ拳銃が、新たな友としてアーラの元へやってくる。

 鋼鉄の冷やかさは、人を殺める時にだけ死に際の生き物らしい温もりを得られる。

 果たしてそれは友と――相棒と呼べようか?

 弾薬の重量に縛られたまま、始まる監視作業。

 午前6時17分――部屋の中からスコープ越しに取引現場を捉える。

 午前8時56分――カフェでカップ片手に隠語へ耳を傾ける。

 午前9時34分――一覧表を基に隠語を読み解く。

 午後1時11分――取引現場の倉庫に四名で構成された強襲部隊を派遣。

 引かされた籤は外れ。

 強襲メンバーを尾行していた女が携帯電話で合図を送る。

「入ったぞ」

 狙撃手がドラグノフ狙撃銃の照準を合わせる。

 四人の狙撃手は四通りの方角から一斉に狙撃を行う。

 寸分の狂いもなく叩き込まれた弾丸が血の雨を降らす。

 完全な鎮圧を認識した尾行人がひっそりと入り口に立っている。

 尾行人は図体の大きい死体の服装をナイフで直線に切り裂き、その胸元に痩せ狐の焼き印を見つける。

「当たりだ、わが姉妹よ」

 次はアーラたちの元へ強襲隊の送られる番となった。

 不穏な予感は、既にアーラの元へある。が、そいつは北の奴らに起因したものとは少々異なっていた。

 数時間前、耳に挟んだ連絡員の通話内容が胸中に黴の根を張り巡らす。

「症状は?」

「熱、倦怠感……咳に鼻水……喉も痛ぇ」

「風邪なんだろ。ほっとけすぐに治る」

「だから違うんだ」

「心配性なんだよ」

 後に判明する結果だが、やはりただの風邪ではなかった。あの忌々しき新型コロナウイルスの症状であったのだ。

「全滅? ただの風邪で?」

 連絡員が入り口の前で新たな通達に唖然としていると、通話口から激しい咳の音が聞こえてくる。

 蹴破られたドアから咳きこむようなスチェッキン・マシンピストルの銃声が轟く。

 連絡員の頭部が散る。

 咄嗟にアーラは倒したテーブルに身を潜め、マカロフ拳銃を強く握りしめる。

 室内で待機していた人数は三人。北の奴らの人数も丁度三人。

 既に一人を失った。

 北の奴らの突撃隊長――最初に銃声を鳴らした女郎――を前方に据え、後方に一人を、出口に一人を配置した、油断のない編成で来る。

 通路側面左手側のバスルームから姿勢を低くした室長が転がり出て、鋸で突撃隊長の脛を切りつける。突撃隊長は尻もちをつくも、後方を警戒していたバックアップの野郎が振り返って、室長の胸から腰にかけて掃射を浴びせる。

 すかさずアーラはテーブルから上半身を乗り出して拳銃の引き金を弾く。

 初弾――突撃隊長の右の脇腹を貫通。

 二弾目――突撃隊長の左の脇腹を貫通。

 二人の注意が引きつけられ、アーラは体当たりでテーブルと共に前進する。ブラインドショットで威圧しつつ飛来する弾丸をテーブルで弾き返し強烈なタックルを二人に食らわせる。衝撃に怯むや否や、身を乗り出してバックアップの腹と胸を撃つ。再びテーブルに隠れ、入り口で待機していた男と虫の息で後退する突撃隊長の応射をやり過ごす。突撃隊長の頭を射抜き隠れる。男の銃弾が飛来するも、彼は咳きこんで銃の制御を失う。アーラは拾い上げたマシンピストルを掃射した。

 鎮圧を終え町に出て、連絡員の使っていた携帯のロックを解除し学校の元へ幾度も連絡を入れる。通話に応じる者はいなかった。

 不穏な予感が的中したのだ。想定される感染源に友の孤影、速やかな処分の下される断末魔。最早帰るべき居場所はない。

 病の根は咳の種を顕現する。

 ここも、じきに沈むのだろうか。

 死は坐さず待たぬのならば――明日なき逃亡を決意した。

 偽造パスポートを左の掌に、マカロフ拳銃は右の拳に。

 雪の轍を踏み固め、漂流する町並みは排気煙の大気の底から。

 さりとて意味はないが、無性に肩へ重くのしかかる。

 食料を盗んだ。輸送船の貨物に紛れ込み、知らないどこかへ運ばれる。船酔いを堪え暗がりの中で齧る酸い液、咀嚼した果実の汁故か、喉の奥から這い上がる後悔の念故か。

 正体を悟る前に船は到着した。思索の暇なく、アーラは船を脱出する。

 得体の知らぬ暗がりほどよい。異郷揺蕩い泡に乗った海月は放浪の果て、絶好の隠れ蓑を引き当てる。ネオン街の暗がりで、アーラに手を差し伸べる老淑女がいたのだ。

「行くあてが、ないのかね」

 彼女こそ事件の被害者、リン・ミートウその人である。彼女は中華系マフィア尖洲会の幹部であり、部下を使い捨てぬ人格者でもあった。

 一方で、リンには孤児の収集癖があり、気に入った寄る辺なき子供を拾い上げては飼育していた。その一匹に加わることに、アーラ自身も異存はなかった。

「連れて行って」

 今、生存適応は全てに先決する。

 ファンシーな部屋に通され、薄い衣装を着せられる。

 観賞魚のために用意された水槽と鰭だ。アーラは他の魚たちと同じく、甘い鉢の中で優しい主人に媚びた。

 さて、子供は愛玩用のみならず、簡単な人手不足ならば十二分以上の解消ができる人材でもある。彼女たちはある日、田舎のケシ畑へ連れて行かれた。

 与えられた仕事は雑草駆除で、単純さ故に人手が足りぬ面倒な作業であった。

 子供たちはリンの喜ぶ顔に餓え、盛る太陽の下、励む。

 本人も子守歌を歌うように見守っている。

 風上、陳列されたブリキ缶の特に老朽化したものに詰められたアヘンが、楽しげな風につられて微細な欠損部位から舞い上がる。リンは気付かぬうちに吸い込んだ。呼吸するたびに得られる安堵の中毒を甘受し、過剰供給を怪しまず、赤い花畑を空想上の故郷に思い重ね――精神は呆けた。

 統率塔が機能放棄し、子供たちは加減を忘れて無粋な草を根元から抜き取る。体に怠さを覚え、動作は鈍る。阻止する者はいなかった。

 倦怠感は拡散し一人またひとりと頭痛、発熱の症状が現れる。リンも例外にあらず、遂に彼女は咳の音を鳴らす。

 忌々しい咳の音!

 アーラは真っ先に、かつて友であったものの輪郭を思い浮かべる。

 見渡せば他の面々もそうだ。異様な速度で集団感染する風邪と似た症状。これこそが、古巣を襲った病であったのではないか? 風上には同様の症状をアヘン中毒者の顔で示すリンの肉体があった。ならば感染源は――。

 ケシ畑を抜けてリンの背後に立ち、マカロフの照準を合わせる。

 リンの体は忘れたはずの罪に縛られる。かつてケシが屠った、蝋燭の焔。

 そうだ、絶たねばならぬ。

 

「だから殺したの。病の源を絶つために」

 イアンはある可能性を問う。

「……熱中症、それと夏風邪って知ってるか」

 冬国育ちの少女は眠たげに首を振る。

 

 2020年7月30日――目眩のする、暑い夏の出来事であった。

   

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