溶解セレナード

夢埜ハイジ

第1話

「藤恭(とうきょう)からやって来ました。巫士見千隼(ふしみちはや)です。これから宜しくお願いします」

 

 六月。この季節のじめじめした独特の空気感は、藤恭(とうきょう)も閑丘(しずおか)もあまり変わらないらしい。

 中学二年の中途半端な時期にやってきた転校生を、これからクラスメイトになるであろう彼らは好奇心を隠そうともせずにじろじろと見ている。その視線にあまり好ましくない感情がないことに少しだけ安心した。

 これから、ここで僕は生きていくのだ。

 悪く思われるより、よく思われる方がずっと良い。ここでの対応で中学卒業までの僕の二年間の質が変わってくるだろう。緊張で固まりそうになる表情を何とか無理矢理解きほぐす。愛想笑いは得意だ。ずっと、ずっとやってきたことだから。

 午前中の授業はあっという間に終わった。進度は藤恭(あちら)と大して変わらなかったので、勉強面において苦労することはなかった。

 昼休みになると僕の周りに人がわっと集まってきた。転校は初めての経験だったけれど、その光景は昔見た小説に出てきた転校生の主人公の図とよく似ていた。まさか自分があちら側になるなんて、あの頃は思いもしなかった。物語の中の転校生は新しい学校、新しい生活にワクワクしているように見えた。けれども、一見楽しそうに見えた彼も、実際は今の僕のように、不躾に質問してくる、まだ親しくもないクラスメイトに辟易したりしたんだろうか。

 なんて。物語の人物に感情移入なんてしても仕方ないけれど。

 愛想笑いには慣れたつもりだった。

 だけど、こんな質問攻めに遭うなんて想定外だ。

 へらへらとずっと笑っていればすぐ終わると思っていた一日は、予想よりもずっと長く感じて、HRの時間になる頃には随分と疲れてしまっていた。

 

 

 

 *

 

 

 

 僕がここに転校する直前、父さんは人生に疲れきっているように見えた。

 無理もないと思う。父さんは今までたった一人で僕をこの歳まで育ててきてくれたのだから。

 母さんは僕が小学生になる前に病気で死んでしまった。

 母さんが死んでしまってすぐの頃は、寂しくて、哀しくて、父さんも僕もずっと泣いていた。だけど、父さんは人前では絶対に泣かなかった。泣くのはいつも僕と父さんの二人になった時だけだった。

 父さんは僕が泣いているのを見ると余計に悲しくなるらしい。ごめん、ごめん、と泣いている僕に向かって父さんは何度も何度も謝っていた。

 母さんが死んでしまったのは父さんのせいじゃない。母さんは病気で死んだのだ。謝ることなんてなかった。そのくらいのこと、小さい僕にだって分かっていた。

 父さんが泣く度に、僕は母さんが死んでしまった時と同じくらいに悲しくなった。

 だからこそ、そんな時、僕は無理矢理笑うようにした。笑顔の僕を見て、父さんの心が少しでも癒されればいい。そう思ったのだ。

 おかげで今では随分と愛想笑いが上手くなってしまった。

 心から笑えることはないけれど、とりあえず平穏な日々は送れている。

 そんな最中の父の転勤の知らせだった。

 父は僕に、藤恭へ残るべきだ、と言った。

 父がそう言うのだから、僕はそうすべきだったのかもしれない。

 だけど、僕は恐ろしかったのだ。

 父を一人にしたら、父はどこで泣けばいいのだろう。

 母が亡くなってから何年も経って、父が昔のように僕の前でわんわんと泣くことは少なくなったけれど、表面的には見えない鈍い痛みのような哀しみは未だ僕達の間で続いている。

 父がまた哀しさに包まれたとき、もしも僕がいなかったら、父はもうどこでも泣けなくなってしまうんじゃないだろうか。

 涙にすらなりきれなかった哀しみが父の中でいっぱいになったとき、それは父を殺すだろう。

 そんなのは嫌だった。

 だから僕は父の転勤に着いていくことに決めた。

 元いた場所に未練はない。

 僕の苦しみは僕だけのもので、誰にも話したことはなかった。

 苦しみだけじゃない。本当の気持ちなんてあの場所で吐いたことなんて一度もなかった。いつもニコニコ笑って人に合わせてばかり。あの場所には何もない。藤恭に僕はもういないし、僕の中に藤恭はない。ない。ない。ない。

 僕は空っぽの人間だ。

 以上が僕がここ閑丘にやってきた事の顛末だった。振り返ってみて改めて反吐が出るなとそう思った。

 

 

 

 * 

 

 

 

「巫士見さん」

「…………」

「巫士見さん、起きてください」

 

 聞き慣れぬ誰かの声で目が覚める。

 どうやら僕はいつの間にか教室で寝てしまっていたらしい。

 放課後は学校の案内をするねと担任に言われていた。だから僕もすぐ帰らず教室で待っていたのだ。

 でも、目の前にいる僕を起こしてくれたらしい彼女はどこからどう見たって僕と約束した担任の先生には見えない。制服を着ている。

 僕が不思議に思っていることが彼女にも分かったらしい。さして表情を変えることもなく淡々と彼女は僕に話し始めた。

 

「……他の先生の頼まれ事を手伝っていたら、頼まれたんです。『私は忙しいから、代わりに転校生に学校を案内してやってくれ』って。……多分、私のことは分かりませんよね、その顔だと。同じクラスの望月星菜(もちづきせな)です。……別に覚えてくれなくていいです」

「…………なる、ほど」

 

 つまり彼女は体よく仕事を押し付けられたらしい。

 慣れていることらしく彼女にその事に対して不貞腐れてるような様子はない。あるままを、あるがままに。といった感じだ。

 僕だって大概イエスマンであるので言えたものではないけれど、断ればいいのに。そう思った。同情した。さっきからの無表情を見る限り、そんな同情は見当違いのもので大きなお世話なのかもしれないけど。

 見た目からして彼女は人に面倒事を押し付けられそうな大人しい雰囲気である。制服は馬鹿正直に校則通りに着こなし、腰くらいまではありそうな長髪は丁寧に三つ編みしている。今時珍しいくらいの真面目な少女だ。

 

「……望月さん、だっけ?」

「はい」

「……なんか、ごめんね。僕のせいで。面倒事増やしちゃって……」

「別に大丈夫です。やることないし、暇なのは本当ですから。……巫士見さんがあれこれ思う必要はないです」

 

 彼女はやはり表情を変えることなくそう言うだけだった。

 それから彼女は変わらぬテンポで、淡々と、けれどもこと細やかに僕に学校の案内をしてくれた。感情をあまり感じさせず、表情もずっと変わらなかったけれど、それでも彼女のことを冷たい人だとは思えなかった。

 多分感情表現が下手なだけで優しい人なんだろう。

 一通り案内が終了し、日が落ち始める頃には、僕の中で彼女はそんな感じの人として結論づけられた。

 彼女の無感情な態度が楽だった。

 気を使ったり、空気を読んだりするのが、彼女の前では全て無意味になる。

 それが僕にとってとても好ましく思えた。

 だから、これは自然と出た言葉だった。空気を読んだり、気を使ったんじゃない。僕の本心からの言葉だった。

 

「……えっと、望月さん、あのさ」

「はい」

「……何か、また頼まれたらさ……今度は僕も呼んでよ。僕も暇だし、一人でやるより、絶対二人でやった方が作業も早く終わるしさ……だから……」

 

 その時、勢いよく風が吹き、僕の言葉が遮られる。

 彼女の長い髪が風に靡いてまるで正体不明の生き物みたいに蠢き暴れまわり彼女の表情を隠してしまう。

 

 

「…………そうですか」

 

 

 かろうじて彼女のそんな言葉が聞き取れた。

 風が吹き終わる頃、やっと見えた彼女の表情はやはり無でしかなかった。

 彼女の綺麗に整えられていた三つ編みは風のせいか少し崩れていた。それを気にする様子は彼女にはなかったけれど。

 

「……え、えっと、じゃあね。今日は本当にありがとう。助かったよ」

「いえ、別に。また明日、巫士見さん」

「う、うん!また明日!」

 

 さっきの言い訳じみた自分の言葉がなんだか妙に小恥ずかしくて足早にその場を去る。

 肌にまとわりつく空気は朝と変わらずじめじめとしている。

 けれども気分は不思議と晴れやかになっていた。

 

 

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