澄んだ空気の朝に

志央生

澄んだ空気の朝に

 朝の犬の散歩が私の日課である。朝の空気は澄んでいて、日中の空気とは違う。きっと車の出す排気ガスが少ないからだろうと私は思っている。「ほら、ポチ待って」

 私のリードを強く引っ張って走り出したのは、愛犬のポチだ。三歳になる男の子で、丸まった尻尾が特徴的でもあり、そこが愛らしいところでもある。

「ほら、もう少しゆっくり」

 リードを軽く引いて、ポチに言い聞かせる。とても聞き分けが良い子なので、すぐに走るのをやめて歩き出してくれる。

 散歩中は丸まった尻尾を振って、常に上機嫌だ。ただ、少し人見知りなところと弱気な部分があり、家族以外には近づかない。

「あら、かわいい子ね」

 歩いていると、私と同様に犬を連れた女性が近づいてくる。ポチの尻尾の振りが弱くなった。

「そうですか、ありがとうございます」

 すばやく会話を切り上げて、去ろうかと思い適当な言葉を返す。

「あら、尻尾がしょげちゃってる。もしかして、少し恥ずかしがり屋さんなのかしら」

 ポチの尻尾を見て、女性は会話を広げてきた。私もそれほど人と会話することは得意ではない。なるべくなら、人と関わらずにいたいほうだ。

「えぇ、まぁ。その、人見知りなところがあって」

「そうなのね、でもそういうのは放っておくとならないじゃない。なるべく、他の子とも交流させてあげると慣れてくるものなのよ。最初はうちの子もね」

 女性は自慢げに自分の犬の話を語り出す。視線をその犬に向けると、室内犬として人気の高い種類の犬だった。名前はたしかなんと言ったか。

 相変わらずポチは尻尾を下げたまま、どこかしょんぼりして歩いてる。楽しいはずの散歩が今は地獄と化している。

「でね、今度は犬仲間の人たちを紹介してあげるから」

 そう言い残して女性は去って行った。余計なお世話だ、と思いながらポチを見る。私と二人きりになって、ポチの尻尾も上に立っていた。

「走ろうか」

 その言葉を待っていたかのように、ポチはいきなり全力ダッシュをする。思わず、笑いが飛び出て、リードを離さないようにしっかりと握る。

 このまま走り続ければ、どこにでもいけるような気がした。息が切れ始め、ポチに止まるように指示を出す。それを聞いて、彼はおとなしく足を止める。上がった心拍数を落ち着かせるため、深呼吸を繰り返す、ポチはまだ走り足りないのか、尻尾を振っていた。

 額の汗を拭い、歩き出すと後ろから声を掛けられる。先ほどと同じように犬を連れた女性だった。だが、前よりも大きな犬を連れていた。顔つきは鋭く、体もポチよりも一回りほど大きい。そんな相手に彼は完全に萎縮し、尻尾を下げている。

「あら、かわいい子ね」

 そう言って不用意に女性はポチに腕を伸ばした。それに怯えた彼は威嚇するように吠える。それが引き金だった。

 自分の主人を威嚇したポチに対して、大きな犬は敵対心をむき出しにして大きな声で吠えたのだ。 その瞬間、いままでにない力でリードを引っ張られた。疲れていた私はリードの握りを甘くしていて、するりと抜けていってしまう。

 慌ててポチを追う私に、女性は「大変っ」と他人事のような声を出していた。

 詰め切れない距離を開けたまま、ポチは道路に飛び出した。朝方の道路の交通量は多くはない。だが、絶対にないわけではない。

 私は視界の中にポチとトラックを捉える。急に飛び出してきた犬に気づいたドライバーは、きっとブレーキを踏んだのだろう、アスファルトを擦るタイヤの音が響いた。

 完全にトラックが止まったとき、私の足は動かなかった。急ブレーキの音に野次馬が集まり、運転手も降りてくる。体中の血の気が去って行くのを感じながら、力なくその場に座り込む。

 すると、私のとなりに先ほど見た大きな犬がいた。その少し上を見ると、女性がいる。

 そして、これまた他人事のように「なんてこと」と言ったのが聞こえた。

                                     了

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澄んだ空気の朝に 志央生 @n-shion

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