第8話・11月

 ハロウィンも終わり、カレンダーがまた一枚減った。十一月。幻(げん)は日本に来て初めて、霜が降りているのを見た。

「イチゴサン?」

「違う、七五三」

 夕飯の食卓で真稚(まわか)にピシャリと訂正されて、幻は箸を片手に目をしばたたく。

「七・五・三歳の子供達が神社にお参りするんだよ」

「おー、I see! それでシチゴサン!」

 十月は神無月の神の不在であやかしごとが忙しかったが、十一月は七五三という行事で神社の方が忙しいらしい。

「悪いが、土日は手伝ってくれるかの? 友達に声をかけて、人手を集めてくれるとなお助かるんじゃが」

 社(やしろ)の祖父の珍しく真面目な頼みに、幻はドンと胸を叩く。

「OK! 宮本(みやもと)達に声をかけてみます」

「おお、頼もしいのう。よろしくなぁ」

「……ごちそうさま……」

 そそくさと食器を片付け始めた真稚に、ニッコリ笑って社が言った。

「今年こそは、真稚にも手伝ってもらうよ」

 ギクリと肩を揺らした真稚は、ギギギと音がしそうなほどぎこちなく振り返る。

「馬鹿を言うな……私に巫女が勤まるとでも思ってるのか!? やらないぞ私は!」

「わお、真稚巫女サンやるの? 見たい見たい!」

「やらないって言ってるだろ!」

 わあわあと言い合いを始めた子供達を、社の祖父が微笑ましげな目で見ていた。



 七五三の本番は本来十五日だそうだが、今年は平日なので、その日に一番近い週末が混むだろうという事だった。

 しかし、十一月最初の週末ですら、普段よりずっと多い参拝客で境内は賑わっていた。

「じいちゃん、ご祈祷!」

「こっちはお守りじゃ、頼む!」

「古いお札ってどうすればいいんですー!?」

 表からは決して見えないようにしているが、神社の舞台裏はなかなかの修羅場だ。

「朱印あがったぞ」

 真稚が普段より二割増の渋面で、朱印帳を差し出した。

 緋袴の巫女装束を着けた真稚は、筆耕ならやってもいいと落とし所を見つけ、人前には出ずにずっと筆を走らせている。予想以上の達筆だ。

 それでも、境内にひしめく人の気配だけでも気に障るようで、真稚は朝からずっと眉間にシワを寄せていた。苦笑気味の微笑で、真稚の頭をぽんと撫でた社が、朱印帳を幻に渡す。

「幻、待ってる方に渡してきて」

「10-4(了解)!」

 ビシッと敬礼を決めて社務所の待合所へ向かう幻は、真稚とは対照的にはしゃいだ様子だ。袴を、というか和服を着られた事が嬉しいらしい。白い袴の裾を翻して、朱印待ちの参拝客に朱印帳を渡しに行った。

「真稚……大丈夫?」

「今はまだ、な」

 真稚は自嘲的にフッと小さく笑った。

「来るんだろう、あの男」

「……七五三の本番には、まあ来るだろうね」

 真稚が床に目を落としたまま、キッパリと言った。

「その日、私は出かけるから」

「うん。そうしていいよ」

 ぽん、と頭を撫でて、社は祈祷の手伝いへ行った。真稚は撫でられた頭をそっとおさえて、下唇を噛んだ。

「あのー……真稚?」

「!」

 突如至近距離で聞こえた声に驚き、ガバッと顔を上げると、幻が目を丸くして立っていた。

「お前、今……」

 気配が全く感じられなかった。ごくりと生唾を飲み込んだ真稚の心中など知らず、幻は手にした朱印帳を真稚に差し出した。

「Are you OK? 疲れた? これ、お願いできるかな」

「……あ、ああ」

 真稚が朱印帳を受け取ると、幻はにっこり笑ってまたパタパタと表へ駆けていく。真稚は咄嗟にその着物の袖を掴んでいた。

「どうしたの、真稚?」

「…………」

「あ、もしかして袖にお菓子入れてたのバレた?」

「え」

 幻はキョトンとする真稚に、袖からキャンディを出して渡した。

「社にはナイショでお願いします。これ口止め料ね。じゃあ僕、外に戻るよ」

 唇の前で人差し指を立てウィンク。残された真稚は朱印帳とキャンディを手にしばらく呆然としていたが、ハッと我に帰った。

(嫌な予感がする……杞憂ならいいが)



 幻は緩む顔を無理に引き締めようとした結果、変な顔で表に戻る事になった。

(ふへ……何て言うか……こっちが照れるよねーああいうの)

 これまでにもあの二人の親密さは十分見てきた。今さらながら幻はある可能性にたどり着く。

「あの二人って恋人同士なのかな?」

「あの二人ってどの二人?」

「Ohhh!」

 いきなり後ろから声をかけられて、幻は跳び上がった。後ろにいたのは、巫女姿の小田(おだ)だった。

「おい千雪(ちゆき)、幻も! サボってんなよな」

 渋面の宮本が二人から微妙に視線を外して言う。どうやら、小田を直視しないようにしているようだ。

「通(とおる)はこういうのが好きなのねー覚えとくわ♪」

 緋袴を両手でつまんでフワリと回った小田に、宮本は唸り声のような声だけ残して仕事に戻る。後ろから見ても、その耳は真っ赤だ。

「で、幻君、さっきの話は?」

 小田が目をキラキラさせてがぶり寄る。幻はたじたじになりながらも、今さっき思い当たった可能性を二人に打ち明けてみた。

「は? 幻、お前……」

「何言ってるの……?」

 宮本と小田の目は、一瞬にして信じられないものを見る目に切り替わった。

「あの二人がデキてないわけねえだろ……?」

「……今更気付いたの?」

「え、ええ!? そうだったデスか……!」

 衝撃を受け大袈裟によろめく幻に、宮本と小田が笑う。

「どこまでいってるかは知らねえけどな」

「幻、今度聞いてみてよ~」

「OK、分かりマシた」

 神妙に頷く幻に、二人は焦った顔をした。

「え、マジで聞くの?」

「冗談だったのに」

「何だか楽しそうだね、何の話?」

 ものすごいタイミングで現れた社に、宮本がガタガタッと棚を揺らし、小田が小さく悲鳴をあげた。社は目をしばたたき、首を傾げる。

「社、ちょうどいい所に!」

「?」

「社って、真稚とどこマデ進んd」

「あー、幻! お守りの補充行くぞ、なっ!」

 宮本に口をふさがれ引きずられていく幻を、社は首を傾げたまま見送った。



「お守りまだ足りてたと思うけど……」

「何も持たずには戻れないだろ……」

「だけど置く場所が、……ん?」

 表に戻る途中、社務所の廊下を小さな人影がよぎった。赤い振袖を翻してパタパタと駆けていく軽い足音は、小さな子供のもの。

 社務所の奥は関係者以外立入禁止だというのに。

「宮本、先に行ってて。あの子を捕まえて行くから」

 幻はお守りを全て宮本に渡し、少女を追って駆け出した。

「……あの子って誰だ? 誰かいたか?」

 残された宮本は首をひねったが、幻はもう見えなくなっていた。

(確か、こっちへ来たと思ったけど)

 少女を追いかけて社務所の奥へ、奥へ。

 つきあたりの部屋の開いたドアの端に、翻った振袖が見えた。幻はやっと捕まえられるとホッとしながら、その部屋へ入った。

「え?」

 一歩足を踏み入れた途端、幻の足は止まった。

 ここは社務所の中で、室内のはずだ。だが、足袋ごしに足の裏に感じる石と砂の感触は、屋外の地面としか思えなかった。

 そして目の前に広がる景色も屋外にしか見えない。色付き始めた大きなイチョウの木。小さな手水舎。鵺栖神社の境内に間違いなかった。だが、同時に違和感も感じていた。

 イチョウの木の向こうに見える空は夕焼けと言うには毒々しいまでの赤。さっきまで、真稚がピリピリするくらいの賑わいを見せていた境内には、人影が全く見えない。赤い振袖の少女ただひとりを除いて。

 ここはきっと、あやかしの世界だ。そしてその異界で、幻が追いかけていた少女は、何か口ずさみながら、てん、てん、と地面にボールをついている。

(そうだあれは……『まりつき』だ。前にグランマが言ってた、日本の遊び)

 色とりどりの糸で飾られた鮮やかな鞠を、鞠つき唄に合わせて、てんてんとつく遊び。

 少女が唄う鞠つき唄が聴こえない。幻は引き寄せられるように、少女に近付いていった。

 とおりゃんせ、とおりゃんせ……。

 少女が口ずさんでいたのは、幻でも聞いたことのある有名なわらべうただった。こども特有の、舌ったらずな甘い声が、逆に不気味さをかもしだす。幻は耳を塞ぐ事もできずにその唄を聴いていた。

 てん、てん、と鞠をつく音が合いの手のように混ざる。


  とおりゃんせ とおりゃんせ

  ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ

  ちょっと通してくだしゃんせ

  ご用のない者とおしゃせぬ

  この子の七ツのお祝いに お札を納めに参ります

  行きはよいよい 帰りはこわい

  こわいながらもとおりゃんせ とおりゃんせ……


(七つのお祝い……この唄、七五三の唄なのかな?)

 何だか不思議な歌詞だったが、幻は単語を拾って解釈を試みる。この唄はここで終わりだと思い、幻は少女に声をかけようとしたが、少女の鞠つきはまだ終わらなかった。


  とおりゃんせ とおりゃんせ

  ここは冥府の細道じゃ 鬼神さまの細道じゃ

  ちょっと通してくだしゃんせ

  贄のない者とおしゃせぬ

  この子の七ツの弔いに 供養を頼みに参ります

  行きはよいよい 帰りはこわい

  こわいながらもとおりゃんせ とおりゃんせ……




「幻がいない?」

 宮本の報告を聞いて、社が素っ頓狂な声をあげた。

「お守りの補充にいった帰りに『あの子を捕まえてくる』って言って社務所の奥に。……俺には見えない『何か』が見えてるみたいでした」

 社は口元に手を当て、何か考えているようだ。しばらくして顔をあげた時には、いつもの苦笑まじりの微笑を浮かべていた。

「……そうか。祈祷が十七時までだから、その後俺達で探してみるよ」

「俺も手伝いましょうか?」

「ありがとう、でも俺達だけで大丈夫だよ。小田さんもいるし、二人で気をつけて帰ってね」

 小田はあやかしを『視聴き』しない。宮本はコクリと頷いた。

 宮本が持ち場に戻ってから、物陰から真稚が姿を見せる。

「またか、あいつは」

「待子さんが外れてから、いっそう引きずられやすくなってるみたいだね。類君が持ってきてくれた待子さんのロザリオで、何とかこちら側に引き留めてるようなものだ」

 社は少し困った顔でうーんと唸る。

「とにかく、もうすぐ十七時だ。参拝の方が帰ったらすぐ探そう」

「分かった」

 持ち場に戻る真稚を見送ってから、社は納められたお札やおもちゃの入った箱を持ち上げる。

「さて、俺も十七時までは働かないと」

 その箱の一番上には、色鮮やかな手鞠が入っていた。



 てん、てん、と少女は上手に鞠をついていたが、不意に手元が狂ったのかその手から鞠が離れた。足元にころころと転がってきた鞠を、幻はしゃがんで拾う。

 投げ返そうと顔をあげると、少女は一瞬で幻の目の前に立っていた。

「うわっ!?」

 驚いて見開いた翠の目に、赤い赤い振袖が映る。

 近くで見てようやく気付いた。赤い振袖ではない。白い経帷子が、赤く染まっているのだ。

 少女の紅をさしたあかい小さな唇が、大きく横に広がる。笑みを形作った唇からぼたぼたと溢れ出たのは、血の塊。

 幻が動けずにいると、少女はかわいらしい声で言う。

「かえして」

「え……」

「かえして、あたしのしんぞう」

 自分の手にしているものに、恐る恐る目を落とした。

 色鮮やかな手鞠だったものが、幻の手の中で脈打っている。幻の手の平にすっぽり納まるくらいの、生暖かく湿ったかたまり。

「あ、うわあああ!」

 思わず叫んだ幻の手から、少女はサッと心臓を奪っていった。 張り付いた笑顔でじいっと幻を見つめたまま、自分の心臓で鞠つきをしている。鞠は地面につくたびに、てん、てん、と弾んだ音を奏でていたが、小さな心臓は地面につくたび、べしゃ、べしゃ、とくぐもった音をたてた。

 幻は恐ろしくなって、少女の前から逃げ出した。

 どこへ逃げればいいのか。神社の境内から出られるのか、そもそも出ていいものなのか。あまり移動してしまうと、元の世界へ戻れない気がした。

 少女は追ってはこない。無心で鞠つきをしている。とおりゃんせのわらべうたが、さっきよりも更に不気味に聞こえる。

 幻は拝殿に駆け登り、中に入って戸を閉め、片隅に身を竦める。歯の根が合わずに、かちかちと音を立てた。

(何だあれ……何だあれ! 今まであんなあやかし、会ったことないよ!)

 今まで、あやかしをこれほど怖いと思った事があっただろうか。まだ手の平に小さな心臓の感触が残っている。

 木が軋む音がした。ぎし、ぎし。それは、拝殿の階段をゆっくりと昇ってくる音。翠の目をいっぱいに見開いて、幻は拝殿の戸を凝視していた。

 ぎし、ぎし……ぎっ。最上段まで昇ってきたらしい小さな影が、障子戸にうつりこむ。幻はいつしか、呼吸をするのを忘れていた。

 ばん! と障子戸が叩かれ、手形がついた。ひっ、と喉の奥で小さな悲鳴が漏れる。紅く小さなその手形は、ずずず、と下に引きずられ伸びた。すぐにその近くにばん! と新しい手形がつく。断続的に音が続き、瞬く間に拝殿の戸は紅い手形で埋め尽くされた。



「社、十七時だ」

 真稚が社務所の入口まで社を呼びに来た。社務所にはまだちらほらと人がいて、白銀の髪に緋い瞳をした巫女に驚きと好奇の目を向けた。

人嫌いの真稚にとっては決して気持ちのいいものではないが、今は幻の一大事。奥でじっとしているわけにもいかない。だが、参拝客の中にいた和服の男を見て、真稚はぎしっと固まった。

「お前、何て格好をしている」

「…………!」

 社務所には阿部(あべ)総代――真稚の父が来ていたのだ。

真稚の白い顔から更に血の気が引いた。社は阿部総代をチラリと見やってから、真稚に微笑みかける。

「真稚、すぐ行くから奥で待ってて」

 その声で金縛りが解けたように真稚は頷き、逃げるように奥へと駆け去った。

「社君、あれに宮仕事をさせるのは感心しないな。あれは延喜式祝詞に見られる『天ツ罪』の白人だ。本来ならば境内へ入ることも……いや、この町にいることすら許されない存在だというのに」

「……その言葉の解釈には諸説あります。アルビノの事だとは断定できませんし、第一、現代の常識には当てはまりませんよ」

「……穢れは遠ざけるべきだ」

「あやかしだらけのこの町で、何を今更」

 会話が進むほど阿部総代の渋面は深くなるが、社の顔に張り付いたような笑みは全く変わらなかった。



 社が社務所の奥へ戻ると、真稚は部屋の隅で壁にぴったり背をつけて震えていた。

「何を……しに来たんだ、あの人は」

「お神酒を持って来てくれたんだ。あとは一番混みそうな来週末に来るって」

 そうか、と消え入るような声で呟いた真稚は、ようやく壁から離れて社の隣まで歩いて来た。

 微かに震える手が、社の浅葱色の袴を掴む。痛ましげに眉を寄せた社は、真稚の手に自分の手を重ねた。

「真稚、今日はもう休んで」

「何言ってる……幻を探さないと」

 言い募る真稚の手をそっとほどいて、きっぱりと言った。

「そんな状態の真稚を、あやかしごとには出せない。荘(そう)さんと羽田(はねだ)君を呼ぶから、真稚は休んで」

「でも」

「俺が心配なんだ。お願いだから聞き分けて」

 ぎゅ、と握った手に力をこめる。真稚はしばらく俯いていたが、分かった、と小さく呟くと、社の手を離して社務所を出ていった。

 社はその後ろ姿を心配げに見送り、不意に呟く。

「じいちゃん、いるんだろ」

 部屋には沈黙。社はつかつかとロッカーに歩み寄ると、雪駄を履いた足で思いっ切りそれを蹴った。きぃ、とロッカーの扉が開き、中からすごすごと社の祖父が出てきた。

「すまん、出るタイミング失っとった」

「……それはいいから。真稚を見ていて。引きずられないように」

「……おう、了解した。幻坊は頼んだぞぃ」



 社はすぐに荘と観(かん)に電話をかけたが、二人とも電話には出なかった。

 観の家は電話口に弟が出て、観は今仕事中だと教えてくれた。荘の家に至ってはコール音が鳴り続けるだけで誰も出ない。

 社は溜息をついて受話器を置いた。

 一人で行くしかないか。そうと決めたら準備は早い。

 宮本の話では、幻が消えたのは社務所の奥の、祈祷待ちの人が増えた時だけ開放する待合室だ。その部屋の周囲に札を貼っていき、あやかしが逃げないよう、またこちらへ出てこないよう『囲い込む』。

(まあ、周りと同じ札でも大丈夫とは思うけど……念のため一カ所だけ弱くしておくか)

 この札はあやかしにだけ作用する。人間なら普通にすり抜けられるのだが、『念のため』社は穴を作った。

 準備は万端調った。あやかしの気配を探り、幻の通った跡を辿って、社は幻を探しにあやかしの世へ足を踏み入れた。

 じゃり、と雪駄が踏み締めたのは砂の地面。見慣れたイチョウの樹に、鵺栖神社の拝殿。だがどこか違和感を感じるのは、空の色のせいだろうか。

(いや、違う)

 本当にささいな違いだが、イチョウの樹はこちらの世界のものより少し小さく見えた。拝殿の老朽化も若干甘いとかそんな違いはあった。

(これはもしかして……昔の鵺栖神社なのか?)

 実際に過去に飛んだのか、あやかしが作り上げた世界なのかは分からない。だがこのあやかしは確実に、過去の鵺栖神社を知っているか関わりのある存在だということになる。

 じいちゃんが来た方がよかったか、と社は溜息をつく。ここが祖父が知っている時代とは限らないが、それでも自分よりは過去の鵺栖神社を知っているはずだ。

「幻ー! 幻、どこにいるのー!?」

 社は声を張り上げて幻の名を呼んだ。

 どうか、まだ手遅れになっていませんように。そう強く祈りながら返事を待つ。しかし、いくら耳を澄ませても、返事はなかった。

 きょろ、と辺りを見回すが幻の姿もあやかしの姿も見えない。ただ、イチョウの樹の根元に極彩色の何かが見えた。近寄り拾い上げて、社は首を傾げる。

「……手鞠?」

 これと同じ鞠を、今日どこかで見た気がする。記憶を辿り、神社に納められた札やおもちゃをまとめた箱の中にこの鞠があったことを思い出した。

「ふうん」と社は物思わしげに呟く。このあやかしがどんなあやかしなのか判断するには、まだ材料が足りない。

 社は裏参道の鳥居へと足を向けた。もし境内から出られるのなら、丘の上のあの桜に『尋ねて』みようと思ったのだが。

「……これは無理だな」

 鳥居の前で、社は早々に境内から出ることを諦めた。

 鳥居の向こうは真っ暗で、時折目玉のような光が覗いたり、渦を巻いた何かが通り過ぎたりしている。その中へ入っていくのは余りに危険すぎた。

 しかし逆に言えば、幻もこの境内にいるということだ。社は境内を歩き回り、手がかりがないか探した。

「……これは?」

 拝殿へあがる階段に、小さな足跡がついている。幻のものではない。もっと小さな子供のあしだ。

 す、と視線をあげて、社は目を見開いた。拝殿の戸には、無数の赤い手形が捺されていた。

 ぞわ、と背筋に寒気を感じる。

 どうやらこのあやかしは、思っていたよりタチの悪いものかもしれない。社は拝殿の戸に手をかけ、一度深呼吸してからすぱんと一気に開け放った。

 ひゅん、と左耳のすぐ横を、弾丸のように風が通り過ぎた。思わず息を止めた社の前にいたのは、幻だった。

「わお、社!? Sorry、あやかしと間違えた!」

 慌てて拳を引いた幻は、次の瞬間翠の瞳を潤ませた。

「来てくれてありがとう……! もうダメかと思ったよ……」

 そのまま床へヘナヘナと座り込んだ所をみると、大分怖い思いをしたらしい。

「外にあやかしがいなかった? キモノの女の子の」

 幻の問いに社は首を振った。

「そうか……。どこか行っちゃったならいいんだけど」

 ぶる、と肩を震わせて、幻が呟く。

 拝殿に逃げ込んだ幻は、戸にべたべたとつけられていく手形に怯えていたが、結局あやかしは拝殿の中へは入ってこなかったという。

「神様のおうちだから? 神社スゴイね」

 無邪気に喜ぶ幻に、社は首を傾げた。

 他の神社はいざ知らず、鵺栖神社にはそんなご利益はない。鵺栖町はあやかしを集める町で、鵺栖神社はその土地神をまつる場所。弱いあやかしは弾かれるが、強いあやかしはむしろこの神社に引き寄せられる。

 鵺栖神社は言ってみれば、神社自体が『囮』なのだ。

 世界をひとつ作り出し、そこに幻を引き込める程のあやかしなら、本殿はともかく拝殿など侵入はたやすいだろう。だが、あやかしはそれをしなかった。あるいはできなかった。

 社が腕を組み、うーん、と唸り声をあげた。

「鵺栖神社に縁がある、手鞠を持った着物の女の子……。何か他に手がかりはないかなあ」

「そういえば、唄をうたってたよ。何だっけ、信号の音楽の」

「『通りゃんせ』かい?」

「それだ! あとは……『心臓を返して』って言われたんだ」

「ふうん、そうか……」

 そんな童話があったなあ、と社はぼんやり考えるが、思い出せる気もしないのでやめた。真稚なら暗誦付きですぐに答えてくれるだろうに。

「僕、『通りゃんせ』の二番の歌詞なんて初めて聴いたよ。怖い唄だね……」

「二番?」

 首を傾げた社に、こんな感じだったよ、と幻が唄ってみせた。社も初めて聴いたが、なかなかホラー的な歌詞だ。

「通りゃんせって不思議な唄だね」

「あれは未だに色んな説があって、どういう意味なのか分からないらしいよ。でも、鞠つき唄にするっていう話は聞いたことがなかったな」

「そうなの?」

 普通鞠つき唄にしない唄で鞠をついていたのなら、きっとそこには何か意味があるはず。

 幻の中では、あやかしという存在は既に『わけの分からないもの』という認識ではなくなっている。社はその思考の変化を、歓迎半分警戒半分で見ていた。

そういうあやかしが全てではない。だが、そういうあやかしがいないわけではないのだ。

「あのあやかしは、僕の心臓が欲しいのかなあ」

「…………。まあ、話を聞く限りではそういう事になるのかな」

 社がそう答えるまでの一瞬の間が少し気になったが、他に思い付いた事の方に幻の思考は傾く。

「もしかして、あのあやかしって……心臓病で死んだ子供のあやかしとか!」

 幻が自信たっぷりに言ったが、社は首を振った。

 それならば『返して』と言うのはおかしい。

「せめてここがいつの時代の鵺栖神社なのか分かればなあ」

「え? 分かるよそれなら」

「え?」

 二人は顔を見合わせ、目をしばたたいた。

 幻が拝殿の一角の柱を指差す。そこには日めくり式のカレンダー……否、暦がかかっている。年号は大正の晩年。もうすぐ昭和に移ろうかという頃だ。

「…………!」

 社は大きく目を見開き、暦を凝視する。大正のこの時代の、鵺栖神社に縁のある少女。それはたった一人しかいない。

「待子(まちこ)さんだ……!」

「え? ……あのあやかしがグランマ?」

「いや違う。待子さんがちゃんと彼岸へ行ったのを幻も見たでしょ? ……あのあやかしは、待子さんの姿を写し取ったんだ。この神社に染み付いた過去から」

 何故、と尋ねようとしたが、その前に自分で答えを見つけた。

「僕を油断させるために?」

 社は頷く。

「そういえば……僕、『まりつき』のことはグランマの古い写真を見てるときにグランマから教えてもらったんだった」

「写真? ……幻はあの姿の待子さんを見たことがあったの?」

「うん、ある……! なんで今まで忘れてたんだろう? 確かにあの子はグランマだ。子供の頃のグランマだよ」

 納得して頷く幻を、社はじっと見つめていた。褐色の瞳の奥で、ちらちらと赤い灯が揺れる。

「あれ? じゃあ心臓っていうのはなんだろう? グランマは別に心臓を悪くしたりはしてなかったよ」

「……今、待子さんの身体はこの町の方々に散らばっている状態だ。その事を言っているんじゃないかな。待子さんの姿は土地の記憶から吸い上げた……かもしれないけど、おそらく発言は全て幻の心から吸い上げてる」

「……で、どうしたら元の世界に戻れるの?」

 幻が眉尻を下げて言ったが、社も返事は出来なかった。

「それに、あやかしはどこに行ったんだろう」

「そうだね、……っ!?」

 恐る恐る拝殿の入口へ向かう幻の背中に、べったりと赤い手形。社はゴクリと生唾を飲み込んだ。

「……幻。ひとつ聞いていいかな?」

「なに、社?」

「待子さんのロザリオ、今持ってる?」

 幻が社に背を向けたまま、ぴたりと動きをとめる。くくっと肩越しに振り返った幻の瞳は、暗く濁っていた。

「持ってないよ。グランパのロザリオは持ってたけど、ほら」

 幻は袂に一度手を入れ、ロザリオを取り出す。ロザリオは糸が切れたのか、バラバラになっていた。

「さっき、突然壊れちゃったんだ」

 袖から掴みだしたロザリオの残骸を、そのまま手の平から落とす。拝殿の板敷きの床に当たって、パラパラと音をたてた。

 あの暗く昏い瞳。以前『堕ちかけた』時と同じだ。

「幼い待子さんの姿をしたあやかしは、消えてなんかいなかったんだね。ずっと俺の目の前にいたんだ」

 社は褐色の瞳の奥にちらちらと赤い炎を燃やしながら、幻の暗い目を真っ直ぐ見つめた。

「あやかしは今、幻の中にいる」

 幻は暗い目のままで、首を傾げる。

「社、何言ってるの? 僕があやかしに操られてるとでも言うの?」

「……操られてはいないよ。幻は強いから、そんじょそこらのあやかしに操られるような事はないと思う」

 社の褐色の瞳は、無表情に幻を捕らえつづけた。暗く濁った幻の目が、きゅうと細められる。

「それならやっぱり違……」

「ただ、覚えておいて」

 幻の言葉を断つように遮った声は、普段の柔らかい口調が嘘のように厳しい。

「幻は今、あやかしととても同化しやすい状態なんだ。そうなると……すごく厄介だ」

「同化……? それって、社と同じようなものになるって事?」

 社は二年前、真稚を助ける為にあやかしを自分の中に『取り込み』、人間でありあやかしでもある不思議な存在になった。

「まあそうだね。よく似ているとは思うよ」

 社は幻の質問に頷きを返す。

「じゃあいいじゃない。前にも言ったけど、僕は社があやかしでも人間でも気にしない。社は社でしょ?」

「……ありがとう。確かにそうだね、幻があやかしに対する偏見を捨てて、そこまで言えるようになったのは嬉しいよ。……だけど残念な事に俺のケースと幻のケースでは、一つだけ大きな違いがある」

 無風だったこの世界で、ざわ、とイチョウの木葉が揺れた。

「俺は俺のまま、あやかしと同化できたけど、幻はあやかしと同化すれば幻じゃなくなってしまうんだ」

 幻は無表情で暗い目を社に向けている。

「通りゃんせの二番の歌詞、冥府の細道は贄がないと通さないと唄っているね。もしあやかしと同化したら幻は、自分自身を贄にして冥府の細道を拓く事になる」

「社の言ってる事はわかったけど、それって……憶測にすぎないんじゃないかなあ?」

「……神社を飛び出してお寺で世話になっていた時も、幻は同化しかけていた。あの時は……俺の告白が幻の心を弱らせて、あやかしを呼び込んでしまったんだ」

 社は一瞬だけ目を伏せたが、またすぐに幻を見据える。

「あの時の幻は、幻じゃなかった。俺の知ってる幻は、戸惑ったり迷ったり落ち込んだりもするけど、その感情に人を巻き込んだり、人にぶつけたりはしない男だ。あの時の君は君じゃなかった。断言してもいい」

 幻は無表情で、買い被りだよと呟く。

「買い被りなんかじゃない」

 凛とした声が強い口調で幻を射る。

「無数の分岐を超えてここに在って、那由多の可能性を未来に持っている君は、『存在している』ただそれだけでとても尊いんだ」

「だけど社……」

 その声は震えて、涙声のようだった。顔を上げた幻の瞳は、片目がうっすらと翠に戻っている。

「『僕』を必要としてる人なんて、いるの?」

 その問いに胸をつかれた。

『誰が「私」など必要とする』

 過去の記憶が音声を伴って鮮やかによみがえる。

 あの時と同じように、社は間髪入れずに叫ぶように答えた。

「必要だよ!」

 幻の、左右で色の違う目が丸く見開かれた。社は声がかすれるほど、声の限りに叫んだ。

「俺があやかしだと知っても幻は戻って来てくれた! 俺には君が必要なんだ、俺の側にいてくれ!」

 炎のちらつく褐色の瞳が、涙で潤んでいた。

 幻はその瞳を見つめてぱちぱちと瞬きをする。最後にゆっくり目をあけると、澄んだ翠の虹彩に、社の姿が映り込んでいた。

「……僕、類(るい)と社の会話を聞いたんだ。類は僕を殺したいと思ってるの?」

 幻の告白に、社が刃で刺されたような顔をしてぶんぶんと首を振る。

「類君もとても悩んでいたんだ。君を助けたいのに、助ける方法が見つからなくて」

「……助からないなら、僕は消えてしまった方がいいの?」

「そんな事にはさせない。俺も真稚も、じいちゃんも荘さんも羽田君も他にもたくさん協力してもらってる。だから……諦めないでほしい」



 居間でちゃぶ台に突っ伏している真稚は、年季の入った柱時計が、幾度目かの時報を鳴らすのを聞いた。

「嬢ちゃん、そろそろ寝たらどうじゃ? あいつらが帰ってきたら爺が起こしてやるでの」

 真稚は黙って首を振る。社の祖父は困ったように笑って、お茶を入れに台所へ向かった。

 自分も幻を助けに行きたかった。社の助けになりたかった。いつだって薄弱な精神がその邪魔をする。

(いや……もっと正確に言うなら、あの男が……)

 ぱん、と自分で自分の頬を叩き、真稚は今頭に浮かびかけた暗い考えを追い出した。油断すれば、次にあやかしに引き込まれるのは自分だ。

(無事に待つことすら出来ないような足手まといには、成り下がりたくない)

 乱れた心を鎮めて、帰ってきた二人をきちんと出迎える。今の真稚の使命はそれだ。

「嬢ちゃん、頬に手形ついとるぞ」

 戻ってきた社の祖父が、真稚の前に湯呑みを置きながら目を丸くする。真稚は冷えた手を温めるように湯呑みを手で包んだ。

「いいんだ。二人が戻って来るまでには消え……」

 その言葉を遮るように、社務所の方でがらがらがしゃーん、と派手な音がした。

 真稚は頬を押さえて、「どういうタイミングだよ……」と呟き、音のしたほうへ向かった。


「おかえり、二人とも」

 仁王立ちで二人を見下ろす真稚に、幻と社は床に転がったまま「ただいま」と呟いた。

 不意に意識が遠のいたと思ったら、次の瞬間には幻は社と共に社務所の中で倒れていた。最初に幻が消えた部屋だ。

「真稚、頬が赤くない?」

「社うるさい。二人とも無事か?」

「No problemだよー。……ちょっと身体に力入らないけど」

 社はすぐに身を起こしていたが、幻は何故か未だに起き上がれない。あやかしの世界と行き来した反動だろうか。

「俺が運ぶよ。悪いんだけど真稚、ちょっと部屋を片付けててくれる? 幻を運んだらすぐ戻るから」

 戻ってきた時にぶつかったのか、部屋に置いてあったお守りやお札の箱が倒れてぐちゃぐちゃになっている。真稚は溜息をついて頷いた。

 社は幻をひょいと担ぐと、幻の部屋へ向かった。

「ねー社? 結局あのあやかしは何だったのかなあ。全然元の世界に戻れないし、女の子は血まみれで迫って来るしすっごく怖かったのに、帰れる時はものすごくあっさり帰れちゃったよね?」

「……そうだね、何だったんだろうねえ」

 ……本当は、あのあやかしが何なのか社にはわかっている。だが、疲れを全身に滲ませてぐにゃりとしている幻に、今伝えるつもりはなかった。



「自作自演?」

 真稚が赤い目を瞬かせて、眉をひそめた。

「いや、それは聞こえが悪いよ……。ただ、あのあやかしは幻が生み出したって言ったんだ」

 同じじゃないか、と呟いた真稚が、散らばったお守り袋を拾い集める。

「類君と俺の会話を聞いていたらしい。類君は、幻が完全に堕ちる前に人として殺してやるのが一番だと思ってるみたいでね」

「そんな会話を聞かれたのか?」

 振り向いた真稚は、呆れ半分怒り半分の顔で社を睨む。

「……自分の家族と友達が、自分を殺す云々なんて話をしているのを聞いたら、自分の居場所を見失うのは当たり前だ。堕ちてしまってもおかしくない」

「……悪かったよ」

「正体を話した時の事といい、お前迂闊過ぎないか」

「悪かったってば!」

 一つ溜息をつき、真稚は止めていた手を再度動かす。

「それで、どうやって『戻した』?」

 社はものすごく言いにくそうに、ボソボソと呟いた。

「……真稚の時と同じ」

「……あのプロポーズもどきか」

「別にそんなつもりじゃないんだけど……」

 苦笑して肩を落とす社に、真稚は極々微かに口の端を上げた。

「お前って、意外と寂しがりだものな」

「……否定はしない。俺の正体を知っても側にいてくれる人は貴重だ。すごく大事だよ。幻も真稚も」

 神社に納められた札や玩具の箱もひっくり返り、辺りに散らばっていた。

 それを拾い集めていた社は、手鞠を拾い上げ、眉根を寄せた。

「……これか」

 向こうの世界で、イチョウの木の根元に転がっていたものと同じものだった。

 社がカッターで手鞠を割ると、中からは金色の糸がバサリとこぼれ落ちる。否、糸ではない。髪の毛だ。

「……今度は髪か。だいぶ集まったな」

 真稚が社の手元を見て、複雑そうな表情をする。

 バラバラになった身体が集まるのは喜ばしい事だ。だが、全て揃ったその時に幻に伝えなければいけない真実を思うと、喜んでもいられなかった。

「この町の至る所に身体を隠したのは、お前が取り込んだあやかしなんだろう? どこに隠したかとか分からないのか」

「分かったら苦労しないよ……。もう完全に同化……というか吸収しちゃったからなあ」

 髪を半紙に包みながら溜息をついた社は、これどうしよう、と困った声で呟いた。

「こないだ真稚が自分の目と引換に取り戻した目も、幻には返しようがないしなあ」

「待子さんの目とは、色が違うからな」

「肢体だったら羽田君に頼んでお骨にして渡せるけど……目や髪じゃ、燃やしたら灰しか残らないもんなあ……」

「……いい、また私が預かる。目と一緒にしておけばいいだろう」

「そうだね。頼むよ」

 真稚が差し出した手の平の上に紙包みを置こうとして、社が不意に手を止めた。

「どうした?」

 真稚が訝しげに首を傾げる。

「真稚の方も、もう大丈夫なの?」

 社が言いにくそうに尋ねた問いに、真稚は赤い目を微かに眇める。夕方の、父親との事を言っているのだろう。

「……平気だ。何とも思ってない。お前らの心配で、あの人と会った事なんか今まで忘れてたよ」

「そうか」

「でもお前のせいでまた思い出した」

「う」

 社がバツの悪い顔で黙り込んだので、喉の奥で小さく笑い声をあげた。

「冗談だ。……さて、だいたい片付いたな。私はもう寝るぞ。散々待たされたからな」

「うん、ごめんね真稚」

「……謝られる筋合いはない。言葉を間違えてないか?」

 力がこもっているからこそ冷たく聴こえる声に、社はふわりと苦笑を返す。

「そうだった。ありがとう真稚、の間違いだね」

「よし」

 満足そうに頷いた真稚が部屋を出ていった。

 入れ違いに入ってきたのは社の祖父だ。

「社、ちといいかの?」

「うん。どうしたの?」

「……真稚の嬢ちゃんを狙って来とったあやかしの事なんじゃが」

 社がピクリと眉を跳ね上げた。

「ありゃ神じゃぞ。嬢ちゃん、たいそうタチの悪いモンに目をつけられたの」

「……神?」

 社が目を丸くした。次いで小さく舌打ちする。

 真稚が、自分の左目と二つの目を交換した、その相手。真稚の目が見えなくなってしまった事の方に気を取られて、その相手を聞くのを今まで忘れていた。

「神ってどこの」

「いや、ちゃんとした神格を持った神ではなさそうじゃ。打ち捨てられたか忘れ去られたかした神じゃろ」

「まつろわぬ神か……」

 そう呟き、社は考え込む姿勢になる。しかし、社の祖父がぱん、と手を鳴らすと、ビクッと肩を震わせ我に返った。

「今日はもう休めい。七五三やら阿部総代のことやら幻坊のことやらで疲れとるじゃろ」

「……俺は大丈夫だよじいちゃん。分かってるでしょ?」

 俺は人間じゃないんだから。

 孫が言外に自嘲を込めてそう言ったことに気付いて、社の祖父はこれみよがしにため息をつく。そして社の額に、びしっとデコピンをお見舞いした。

「わししか聞いとらんから許してやるがの、そう拗ねた口を利くでない。……お前は疲れとる、今日は休め。聞こえたかの?」

 口角を引き上げ笑う社の祖父の顔は、怒りを滲ませてさえいる。社は自分の失言に気付いて目を伏せ、大人しく頷くしかなかった。



 通りゃんせ、通りゃんせ……


「最近、その歌よく歌ってるな」

「わお、僕歌ってた?」

 宮本にそう言われて、初めて幻は自分が歌を口ずさんでいたことに気付いた。

「何か昔の歌って暗いよなー。暗闇でそれエンドレスで歌われたら、俺泣くかも」

「歌詞も不思議だしね」

「なー」

 宮本も幻につられたのか、聞き慣れたメロディを鼻歌で口ずさむ。

「これさ、通れって言ってる奴は誰なのかな」

「え?」

 言葉の意味が分からず聞き返す。宮本は特に深い考えがあるわけではなく、思い付きをただ口にしただけのようだ。

「この歌の登場人物って、まず子連れで『札を納めに行くから通してくれ』って言ってる奴だろ。あと『通さない』って言ってる奴。こっちは門番か何かだろうけど……」

 幻はゴクリと生唾を飲み込んだ。

「ホントだ……『通りゃんせ』って言ってるのは誰なんだ?」

「あと、子供連れてお参りに来てるのに『ここはどこの道?』って聞くのも変だよな。行き慣れた神社に行くのに道迷ったのかよって」

 見慣れた神社なのに様子の違う世界。そこへ誘う声。

(それはまるでこないだの……)

 その時、赤い着物が目の端に映った様な気がして、幻は足をとめた。

「どしたー、幻?」

「……ううん、何でもない」



「真稚ー! やっぱりここにいた」

 桜の樹上から見下ろすと、下で幻が手を振っていた。真稚は幹にもたれたまま、眠そうな目をして言う。

「私は今日は休みだ。神社は手伝わない」

「知ってるよ。順番に昼休憩なんだ。ランチしようよ」

 社が朝作り溜めしていたおにぎりと、おかずの入ったタッパーを持ち上げて見せると、真稚はすたっと降りてきた。

 七五三本番の週末である今日明日は、普段の閑散っぷりが嘘のような賑わいだ。朝から社と社の祖父は、息をつくヒマもなく動き回っている。そして、真稚の父――阿部総代も、氏子を何人か連れて手伝いに来ている。

 おかかおにぎりをかじりながら、真稚は神社の方を見下ろしている。

「この町って、こんなに子供がいたんだな」

「真稚は街に出ないもんね。子供沢山でカワイイよ」

「……そうか」

 そうだな、とは言わなかった真稚の横顔からは、どんな事を思っているのか感情が窺えない。

「ねえ真稚」

「何だ」

「真稚と社って、どこまで進んでる?」

 真稚がピタリと咀嚼をやめた。

「……………………お前が何を聞きたいのか分からんけど、下世話な方面じゃないんだろうな」

 長い沈黙のあと、真稚はこめかみを押さえながら口を開く。

「安心しろ。私と社は何もない。……もうどうにもならない」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る