第3話

 あれは、気の早い桜の花がちらほらと咲き始めた頃だった。私は暗くなった夜道を足早に駆け抜けていた。いつもはこんなに遅くなる事はないのだが、卒業式の準備委員会の役員になってからというもの、早く帰れなくなってしまったからだ。女の子だということもあって、どんなに遅くとも7時前には帰らせてもらえるのだが、今日は気がついたら8時をまわってしまっていた。8時28分の電車に乗って、家の近くの駅に着いたのが8時52分。駅から家までは15分ほどかかるから家に着くのに9時はまわってしまう。学校から家には電話しておいたが、「女の子がこんな遅くまで…」と怒られるのは目に見えている。家で渋い顔をして待っているだろう両親の顔と妖しく暗い夜道に、私の足は自然と速くなっていた。


 家に程近い公園の脇を通り過ぎようとしたときだった。何気なしに公園の街灯の下にあるベンチの方へ目を向けると、人影が目に付いた。ドキッとした私は気づかれないよう足早にその場を離れようとした。が、ふとそのシルエットに見覚えがあるような気がして立ち止まった。まだ肌寒い中、コートも着ずにただ月を眺めて立ちつくしている、妖しいくらい綺麗で白い横顔はまぎれもなくちいちゃんだった。

 見知った顔がいるという安堵感から、私はそれまで張り詰めていた緊張の糸を緩めた。こんな田舎、危ない事はないとわかってはいても、暗い夜道を一人で歩くというのはなんとも言えず恐怖感を覚えるものだ。ちいちゃんの家はうちと2件しか離れていない。帰るのであれば一緒に帰ろう。そう考えた私は、ちいちゃんに声をかけようと近づいた。


 でも、できなかった。私は見てしまったのだ。ちいちゃんの白い頬に光る涙を。


 ちいちゃんは公園で咲き始めた桜の花を見上げていた。月が白いちいちゃんの肌をほの青く染め、涙は光る星のように見えた。私はただじっと見つめているしかなかった。


 ふと、一筋の風がちいちゃんの長い髪を揺らした。風は髪を涙に濡れたほほに貼りつかせた。ちいちゃんは張りついた髪をのけようと髪をかき上げようとした。その瞬間、ちいちゃんは私に気づいたようだった。


「ちさちゃん」


 ちいちゃんは涙の後を隠す様子もなく私をそばへ呼び寄せ、そばにあったベンチに座らせた。


 私は何も聞けなかった。涙のわけも、こんな時間に一人で誰もいない公園にいることも。ただ、沈黙だけが二人の会話だった。


「ちさちゃん、私、高校卒業したら家を出ようと思うの」


 ふいにちいちゃんがそう話し始めた。私は黙ってちいちゃんの話を聞いた。


「田ノ浦の家には私の居場所なんてないし。さやこさんは私を疎んでいるし、父さんだってそう。ううん、父さんでもない。あいつは私を死んだ母さんと勘違いしてるだけ。だから、あんなこと・・・」


 ちいちゃんは青白く光る月を見上げた。ちいちゃんの肌も空の月のように青白かった。


「ちさちゃんに私が持っているもの、本とか、もらって欲しいんだ」


 ちいちゃんは私のほうににっこり微笑みながら振り向いた。


「ほら、ちさちゃんと私って趣味がよく似てるでしょ。家を出るときはできるだけ身軽になっておきたいし、捨てるくらいなら誰かにもらってもらうほうが本たちだって喜ぶと思うの。どうかな?」


 私はただ黙ってうなずいた。


「そう、ありがとう。今日、ちさちゃんに逢えてよかった」


 ふいにちいちゃんは立ち上がり、風でひらひら舞い落ちる桜の花びらを手のひらで受け取った。


「桜って女の人に似てると思わない?」


 謎かけのような言葉に私は戸惑った。桜と女の人のどこが似てるのだろう。ちいちゃんの言いたいことがさっぱりわからなかった。


「死んだ母さんね、桜が大好きだったんだ。どうして、死んじゃったんだろう」


 ちいちゃんの声は震えていた。


「ちいちゃん、何か、あったの?」


 泣いているんだと思った。そう聞くのが精一杯だった。

 でも、ちいちゃんは泣いてはいなかった。ちいちゃんは私の問いには答えず、桜の木の真下まで歩いて桜を見上げた。


「女の人は桜の華みたいね。死んだ母さんもよく言ってた。『女は華。咲いてなんぼ、散ってなんぼ』って」


 ちいちゃんの謎かけは子供の私には到底わかるはずもなかった。たった2つしか離れていないのに、ちいちゃんは私が知っているどんな大人よりも大人に見えた。


「どうせ散るなら、私は思い切りよく散ってしまいたい」


 そういった途端、一陣の風が桜の花びらを吹き散らした。まるで、ちいちゃんの言葉に桜が答えたかのようだった。

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