第3話 あなたに足りないもの
音沢 おと
第3話 あなたに足りないもの
音沢 おと
真っ白なオフィスに、キーボードを叩く音だけが響く。
十人ほどのワイシャツ姿の社員たちが、パソコン画面に向かっていた。
部長の米倉は立ち上がり、課長の田川に小さく合図をし、隣の応接室に促した。
「で、これはなんですか?」
田川は、米倉に訊く。
机には、「仕事に喜びを! 覇気向上ソフト TK最新型」と書かれたパンフレットがあった。
「これをうちの会社に導入しようと思うのだが」
米倉は、ほれ、と田川のほうに、パンフレットを近づける。田川は手に取って捲り、裏表紙も確認した。
「なんだか、聞いたことのないソフト会社のものですね。もっとも、私はあまり詳しくはありませんが。で、どうして導入するんですか?」
米倉は少し顔を顰める。
「最近、うちの社員の仕事効率が悪い。問題点は何だと思うかね?」
「うーん。元々、うちは金融の下請けですし、単調で退屈な仕事が多いですからね。あ、失礼しました」
田川は少し恐縮したように、ぺこりと頭を下げた。
「いいんだ。俺だって、退屈だとは理解している。だから、いわば覇気が足りないんだろうな。そもそも、IT系からの転職退職者が多いし、契約社員ばかりだからな」
「まあ、就業時間中だけ、入力して、定時でさっさと引き上げる。割り切った社員が多いですからね」
田川は、自分の言葉に頷きながら、パンフレットを見返した。
「ところで、このTKって、何の略でしょうか?」
「達成感の略らしい」
米倉の言葉に、田川は「ベタですね」と呟く。
「ほら、経理ソフトの勘定奉行っていうやつあるだろ。ああいう、ベタなのが意外にいいんだ」
苦笑する田川に、米倉がぽつりと訊いた。
「なあ、田川。お前は仕事にやりがいあるか?」
田川は一瞬、米倉の顔を見てから、「それは、もう」と言葉を濁した。
「そうか。俺は生命保険会社からの出向者だろ。だから、ここにいるSEたちとは、どうも頭の作りが違うみたいでな」
「いえいえ、部長。私も、人事畑でずっときましたから、彼らみたいには、とても」
二人は一瞬、目が合い、言葉を止める。
応接室のエアコンの音が聞こえた。
米倉は訊ねた。
「なあ、お前、正直、この仕事に喜びを感じたことはあるか? ここに出向してきて」
空調がかたん、と鳴った。
米倉は、自分の問いに自ら続けた。
「俺は、ないんだよ」
壁時計は六時を指していた。
米倉の席の後ろは窓だった。
午後は、陽射しが差し込まないため、カーテンが開けてある。
冬は夜が早い。ビルの灯りがきらめいていた。
社員たちは、パソコンの電源を切り、帰り支度を始めた。
米倉は立ち上がり、声を上げた。
「帰る前に、少しだけ聞いてくれ」
コートに手を通す社員、鞄に手を掛けた社員たちが、振り返った。
ただ、彼らの表情は硬い。
「うちの社員の福利厚生のために、新しいソフトを導入した。明日から、各自利用してもらうので、よろしく。じゃあ、お疲れ様」
米倉の言葉が終わると、社員たちは頭を下げて、足早にオフィスを出て行った。
残ったのは、白い机の上にある閉じられたパソコンだけだ。社員の数だけ、並んでいる。
田川は、米倉の席に近づいた。
「福利厚生、ですか?」
「ああ言う方が、受け入れやすいだろ。覇気が出て、仕事の効率が上がればいいんだが。このソフト、利用することによって、喜びが生まれ、達成感を得る、と説明書に書いてあるんだ」
「説明書、とは、やけにアナログですね」
田川はくすりと笑う。
「いやいや、経営側には、機械が苦手なやつも多いからな。古風に作られているらしい。悪いけれど、田川、今のうちにこのソフト、インストールしておいてくれないか」
米倉の言葉に、田川は、はあと頷く。
田川は、ソフトをちらりと見て、パソコンに入れた。
カチリと音がした。
田川がキーボードを叩く。何度か操作をして、眉をひそめた。
「あの、なんだか嫌な感じがします。動きません」
翌朝十時。
米倉と田川は、パソコンの前で、苦戦していた。オフィスには、社員たちのキーボードの音が響いている。
米倉が田川に言う。
「なあ、これはどういうことだ?」
田川は気難しい表情を浮かべて、答える。
「こうしたら、動くはずなんですが」
「まったく、フリーズしてるぞ。俺がやってみる」
米倉が交代で椅子に座り、キーを叩く。うーん、と唸り、ハンカチを出して額の汗をぬぐった。その向こうでは、社員たちが、黙々と入力を続けている。
窓の外は暗く、灯りが輝いている。
六時になり、社員たちはパソコンの電源を切り、帰り支度をしていた。
米倉と田川は、あーでもない、こーでもないと、パソコンをいじっている。
「一日がかりとは、ひどいな。このソフト、壊れているんじゃないのか」
米倉のいらだった声に、社員たちは、ちらりと視線を送ったが、帰り支度をつづけた。
年長の社員、水野がじっと見つめていたが、米倉のところに近づいてきた。
「あの」
水野は声を掛けた。
「うまく動かないんですか?」
帰り始めた社員たちが、入口前で振り返った。
水野は控えめな声で言った。
「私、以前、プログラミングをしていましたので、結構、詳しいのですが」
入口にいた、一番若手の森が立ち止まった。それを水野が呼んだ。
「森くん、君も得意だったよね?」
森は突然声を掛けられて、驚きの表情を浮かべた。そして、勢いで頷いた。
「あ、僕で出来ることなら」
森は水野の元にやってきた。
帰りかけた他の社員たちも、足を止めた。コートを羽織るのをやめ、近づいてきた。
米倉と田川は、顔を見合わせた。
パソコンの周りには、社員たちが集まった。
なんだなんだ、と好奇の目が輝き始めた。
水野が「少し、いいですか」と、キーボードを叩く。だが、どう操作しても、パソコンの画面は固まったままだった。
「水野さん、あの、僕が」
遠慮していた森が、水野と交代する。
「どうかね。朝からずっと、いや、昨日からやっているんだが、俺たちにはできなくってな」
米倉は照れ笑いをし、ハンカチで額を拭く。冬でも、米倉は汗をかく。隣で田川が不安げな顔をしている。
「あの、部長。私のソフトの入れ方が悪かったんでしょうか」
田川は固まった画面を苦い顔で見詰めていた。
水野が田川を見て、言った。
「もう、困っているなら、早く言って下さいよ。我々、元々、得意分野なんですから」
水野は笑みを浮かべた。目じりに皺が出来た。
社員たちが見ている真ん中で、森が熱心に操作していた。
森は、あー、と言いながら、キーを叩く。今まで、森が一度たりとも仕事中に声を上げたのを聞いたことがなかったと、米倉は思った。
「ですけど、これはどうしちゃったんでしょうねー。結構、厄介ですね」
森の言葉に、周りで見ていただけの社員が、口々に指示を始めた。
「これは、あれじゃないのか」
「こうしたら」
「いや、俺が以前やってみた方法で」
社員たちが声を上げる。
水野も思い出したように言う。
「いやあ、若い頃、何度もコンピュータの不調で、会社に遅くまで残ったもんですよ。終電もあったな」
懐かしそうに笑う。
他の社員たちも負けずと、言い始める。
「俺も、徹夜したことがある」
「あ、俺も、貫徹したした。眠くって、皆でドリンク剤、買いに行ってさ。でも、あれって、安いやつは効かない。三百円以上のやつじゃないとな。俺の経験では」
「千円っての、買ったこともありますよ」
「うわっ、一体、成分、何が入ってるんだー」
社員たちから笑いが起こった。
空気が変わっていく。
柔らかく、温かなものへ。
米倉と田川は、その様子に飲まれている。
水野が、森に声を掛ける。
「どうだ? 代わろうか?」
そのとき、森が「あっ!」と声を上げた。
みんなが、森を見る。そして、画面を見つめる。
固まっていたパソコンが動き始めた。
みんなが声を上げる。
「できたか?」
一斉に、画面を覗き込む。
森が「おお、やったぞ」と声を強めた。
パソコンには別の画面が表示された。
米倉と田川が拍手をしていた。
「さすがだ。君たちは、私たちが一日以上かけてこんなにも苦戦していたものを」
米倉の声が弾んでいる。
「助かったよー、ありがとう」
田川も顔を上気させている。
米倉は興奮気味に言う。
「よかった。コンピュータは、苦手な者には魔物だからな、魔物。アナログ人間には令和を生きる術がない」
水野が笑いながら答える。
「大げさですよ。仕事は、チームワークで出来ますから」
米倉と田川は、目を見開き、顔を見合わせる。
周りでは、社員たちが楽しげに笑っていた。
森は表情を緩めながら言った。
「久しぶりに、ちょっと楽しかったな。家でゲームする予定だったけど」
他の社員も話し出す。
「俺もHulu観る予定だったけど。海外ドラマ」
「そういえば、結局、何をインストールして、調子が悪かったんですか?」
その言葉に、水野が操作をする。
クリックして、次ページに進む。
開かれた画面には、「達成! おめでとうございます!」と大きく表示されていた。
了
第3話 あなたに足りないもの 音沢 おと @otosawa7
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