「月がきれい」とかぐや姫は言った。

アラタ ユウ

三日月の章

第1話 拒絶と反発

 それは拒絶だった。誰が見ようとも、例え言語が通じない相手であってもそう感じたに違いない。今は無きベルリンの壁のように彼我を分断する、一つの感情に満ちた声。




『ごめんなさい』




 二度目。幻聴。


 一泊遅れ、うめき声とも取れる掠れ混じりの声が出る。喉奥がカラカラに乾いていたせいか、脳内の処理速度が遅い。


 そして、何故か胸が痛い。内側から長い爪でつままれるれるかのような、キュッとする痛み。まるで素手で心を鷲掴みにされているかのようだ。




『ごめんなさい』




 三度目。またもや幻聴。


 言葉の意味は理解できている。心もそれを理解している。が、僕の頭は一向にそれを受け入れない。否、受け入れたくない。


 頭の隅っこで、誰かが大声で叫んでいる。これは夢だと。


 バカみたいな妄想だけど、そう信じてしまいたくなる。夢であって欲しいと願っている。

 ……が、現実はそう上手くはいかない。目の前にいる彼女--濱里葵はまさとあおいは本物だし、僕が振られたことも事実だ。


「ごめん、アヤト……ほんとにごめん」


 感覚の無い口をなんとか開き、葵に言葉を返す。自分でも驚くほど機械的で無感情な声が出る。


「……どうして?」


 すると、葵は申し訳なさそうに表情を歪めた。最悪の事態を想像してしまって、自然と顔が引き攣る。


 --やめてくれ。


 悲痛な心の声が届くはずもなく、葵は言ってしまう。


「……好きな人が……いるの」

「っ……」



 一瞬。一瞬だけ、腹の底から葵を怒鳴りつけてやりたいと思った。細っこい肩を掴んで体を揺さぶり、お前の心を掴んだ奴は一体どこのどいつなんだと問い詰めたくなる。

 

 だけど、できない。僕は何よりも、葵が傷つくことを一番に恐れている。彼女が傷つくくらいなら僕が傷ついた方がマシと思うくらいには。


 だから、静かに唇を噛み締めるだけで我慢する。噛み切れてしまうかと思うくらい、強く。


 心の中では、経験したことのないほどの感情の嵐が巻き起こっていて、僕はひたすら耐えるしかなかった。


 十秒経って、一過性の感情だけが消えたところでもう一度口を開く。


「そうか。なら……仕方ないな」

「……ごめん」


 葵はまたそう言って、後ろで組んだ両手を前に持ってきた。僕はそれを意味もなく見つめて--そしてふと、口の中に広がる血の味に気づく。同時に、心に沁みるようなこの感情を理解した。


 --そうか、僕は悔しいんだ。そりゃそうだ。どこの馬の骨とも知れない男に、幼馴染の僕が負けたんだから。


 そこからは下り坂だった。


 --よっぽど魅力的な奴だったんだろう。きっと僕より顔が良くて、僕より背が高くて、僕より頭が良くて。そして、たぶん僕よりも葵に優しくできる人なんだ。


 --だから、十年以上初恋を拗らせてきた僕が負けても仕方がない。


 そう、仕方がないのだ。


 だからもう、何も考えたくない。


「……じゃ、言うこと言ったし、僕はもう戻ろうかな」


 会話の流れをぶった斬るように、あまりにも唐突に僕はそう言って、逃避するために教室から出ようとする。

 しかし、とっさに前に出た葵が僕のブレザーの裾を掴み、逃げ道を塞いだ。


「あ……あのね!」

「…………」


 諦めて目線で続きを促す。葵は悲しそうで嬉しそうな、よく分からない表情をしていた。


「嬉しかった。アヤトがそんな風に私を思っててくれて……」

「…………」


 その明るい焦茶の瞳を見つめる。ブレザーを握る手はいまだ緩められず、彼女の話がまだ終わっていないことが分かる。


「…………」

「…………」


 沈黙と見つめ合いが続いた後、葵はふっと息を吐き出した。

 まるで何かを決心したかのような、小さなため息。


 そして彼女はこちらを自信なさげに、しかし凛然と見つめ、一言ひとこと言葉を紡ぎ始める。


「あ、あのさ………あの時、小学生の時……」


 一瞬、こことは違う、しかしよく似た教室の光景がフラッシュバックする。

 その時点で、それ以上言わせてはいけないと本能が警鐘を鳴らす。


「私をさ……私、を……」


 葵の声が震える。当然だ。これから彼女が言おうとしていることは、彼女が恐れていたことそのものなのだから。


 結局、最後まで僕の体は動かなかった。


「……助けてくれて、ありがとね」


 肝心なことは何も言われなかった。しかし、プツン、と何かが切れる音がして、僕は葵が途轍も無く遠くに行ってしまうような錯覚を感じる。

 やっと体が動き出し、もう遅いとわかっていながらも、僕はなるべく落ち着いた声で聞き返す。


「……もう、無理なのか?」

 

 答えなど当にわかっている。ただ、葵と少しでも繋がっていたい一心で会話を続ける。


 しかし、それが仇となった。


 葵はしばらく黙考した後、決定的な言葉を口にした。


「私は……もう無理、だと思う」


 --ああ、その通りだろう。


 僕はあっさり納得してしまう。

 何故なら葵は、ずっとあの時の罪悪感に苛まれていたのだろうから。


 俯いて、奥歯を軋むほど噛み締める。自罰と後悔で死にそうだった。


 たかだか告白。好きと伝えるだけ。そう思っていた。


 だけど、人と人との関係を断ち切るのは、いつだって言葉であることを忘れていた。


 少し考えれば分かることだろう。『好き』なんていう重すぎる言葉は、負の方向へ行けば長年の信頼関係も容易く道断するなんてこと。そして、二つに割れた関係は、時の修正でも無い限り元には戻らないことも。


 つまるところ、僕たちの関係はこれでおしまいということだ。


 お終い。終局。二度と元には戻らないこと。


 そう考えた時、僕は反射的に思う。

 

 嫌だ、と。


 葵との関係がここで消えてしまうのは、絶対に嫌であると。


 あまりにも無責任な言葉だ。自分のせいでこんなことになってしまったのに、今更嫌だなんて。僕には願う事さえ許されていないのに。


 勝手に告白して、勝手に振られて、自ら関係を断ち切ったのだから。


 だから、せめてもの罪滅ぼしとして僕は決心する事にした。恐らくは一生、死ぬまで僕の中に残り続けるであろう、呪いのごとき決心を。


 心の中で何回かそれを反芻して、焼き付けるように記憶する。贔屓目に見ても可愛いと言える、葵の整った顔立ちを見つめた。


 意味が伝わらなくても良い。受け入れられなくても良い。そう思いながら、無理矢理に笑顔を作り、心中で繰り返した言葉を放った。


「僕は無理とは思わない」


 一瞬、葵がピクリと反応し、苦笑いを浮かべて何か言おうとする。それを遮るかのように僕は続けた。


「僕は昔からずっと……もちろん今も、この先も、葵の一番の味方だからな。これからも葵に何かあったら助けるさ」


 その時彼女が何を思ったのかは分からない。


 ただ、昔みたいに呆れたような顔をして、少しだけ嬉しそうに微笑んで言ったのだ。


 「ありがとう」と。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る