第17話 百数本の薔薇の謎

第1章 百数本の薔薇 (前編)

 近年、女性警察官の割合が増えている。

 それは大阪臨海署においても例外ではない。全体の1割が女性警察官。この割合は、全国平均よりも若干高い。全国平均は7パーセント程度。そして大阪府内のどの署と比べても高い。

 警察官の新規採用の約1割が女性とされているから、その比率どおりということになる。これは臨海署が新設されたことと関係あるかもしれない。もちろん、全員が新規採用だったはずはなく、府下のいろいろな署からのだが、その割合がたまたま新規採用と一致した、というに過ぎない。

 あるいは新規なのでモデルケースとされた、という可能性もある。いずれにせよ事実を知っている人は署内におらず、府警察本部の人事のなど、ほんの数名だろう。

 集められた警察官は、署の近くに住居を構える。そのうち、若い独身の警察官は寮に入るのが決まり。もちろん、男子寮と女子寮がある。しかしながら、臨海署に所属する女性警察官には、専用の寮がない。これは現在の臨海署が仮の建屋であることと関連があるだろう。いずれ隣の舞洲に、正式な建屋が作られる予定だ。

 しかし仮なら仮で、いっそ署内に(本館の隣にでも)作ってしまえば、ということにならなかったのは不思議だ。単に近くの寮の部屋が余っていた、というだけなのかもしれないけれど。

 それはともかく、臨海署の女性警察官の多くは、隣の住之江署の近くにある女子寮に入っている。若干名は、港署の近くの寮に。

 寮は基本的に「署から徒歩圏にあること」とされている。緊急時にすぐ署に来られるように、という意図。住之江の寮から臨海署までは約8キロ。歩いて歩けないことはない距離だ。

 もちろん、普段から歩いて通う人は皆無。ほぼ全員が住之江公園駅から新交通システム“ニュートラム”で通勤する。稀に、自転車で通勤を試みる体力自慢の女子がいないでもない、といったところ。埋め立て地であるから概ね平坦で、道筋も単純だし、無謀というほどでもない。


 自称“臨海署きっての美人警察官”田名瀬不二恵はその日、寮の自室で目を覚ました。公休でも朝寝はしないのだが、なぜかいつもの通常勤務の日より早起きを強いられた。7時に、友人から電話がかかってきたせいだ。

 別に、その日会う約束をしていたわけでもない。不二恵は眠い目をこすりながら電話に出て、「緊急で、ちょっと相談に乗って欲しいことがあって」という友人の言葉を聞き、友人としてではなく、警察としての相談やろうなあ、と思っただけだった。

「実は今朝、起きたら家の前に赤い薔薇の花がいっぱい撒いてあって」

 友人のその言葉で不二恵ははっきりと目が覚めた。何てロマンチック!

「えー、何それ! 彼氏が撒いてくれたん?」

「違うねん、そうやないから気持ち悪くて困ってんねん」

「あれ、千絵ちゃん、彼氏と別れたんやった?」

 千絵というのが不二恵の友人の名前。フルネームは井村千絵という。不二恵と同い年で、もちろん独身。不二恵は容姿で彼女に勝っていると思っているが、それは彼女に対しては秘密だ。ただし、彼氏がいない点は負け……

「え? それは今ちょっと関係ないねんけど」

「よかったー、別れたっていう話やったどうしようかと思ったわー」

「だから、それは今、関係ないねんって!」

 あくまでも彼氏との関係を心配する不二恵に対し、千絵は本来の心配事を説明した。要するに、このような“事件”は警察の範疇なのか?という質問。不審人物による仕業であれば、警察で捜査してもらえるのだろうか?と。

 私が生活安全課に勤務してるから、その課名に引きずられて相談先になったんやろなー、と不二恵は思いながら千絵の話を聞いていた。区役所の同じような名前の部署とよく間違われるのだ。

「えっとね、薔薇の花は綺麗やけど、知らん人が家の前に撒いたんやったら、それは不法投棄やから、区役所に相談してみて。毎日撒かれるとか、掃除でけへんくらいたくさんとか、変な脅迫状が付いてるとかの、悪質なケースやったら警察が捜査するけど、まずは行政に相談する方がいいから。ゴミの収集って、行政の担当やんか」

「そうなん、わかった。じゃあ、区役所へ電話してみる。私、これから出勤やから、お母さんにやっといてもらうわ」

「はーい、お仕事頑張ってねー。また休みが合うときに何か食べに行こー」

 友人が電話を切ったので、不二恵は安心して二度寝し、いつもより30分遅れの8時に起きた。朝食を摂り、その後一人楽しく部屋でテレビゲームで遊んでいると、9時頃にまた電話がかかってきた。

「あら、千絵ちゃん、どうしたん?」

 また井村千絵からだった。今度は会社かららしい。

「お母さんが区役所に電話したんやけど、警察に言ってって言われたらしいねん」

「ええー、そんなことないよ、区役所やって。千絵ちゃんのお母さんの説明がよくなかったんちゃうかなぁ」

 不二恵はもう一度警察と区役所の役割分担を説明した。そして、警察に電話するのなら、私のところやなくて住之江署へかけて、とも言った。千絵の家は住之江区にあり、寮から徒歩圏で、不二恵は彼女の家へ遊びに行ったこともある。

「わかった。もう一回お母さんに区役所に電話してもらって、あかんかったら警察にも電話してもらうわ。でも、警察でこんな事件って捜査してくれるん?」

「捜査せえへんと思うけどなあ。薔薇が撒かれてた以外、何にも被害なかったんやろ? それに薔薇って綺麗やし」

「綺麗でも突然やからびっくりするやん」

「もしかしたら千絵ちゃんのことを密かに愛してる男の人が撒いたんかもしれへん」

「薔薇だけ撒かれても気持ち悪いだけやわ。ラブレターが付いてたんやったらまだいいけど」

「付いてへんかったん?」

「付いてへんかったって」

「なんでやろ。忘れてたんかなぁ」

「とにかく、警察ってこういうのは捜査してくれへんの?」

「一応聞いてみたらええけど、せえへんと思うわ」

「じゃあ、こういうの調べてくれる探偵っておらへん?」

 探偵のことを警察に聞くのも変だが、世の中の一部の人は警察と探偵は協力関係にあると勘違いしている場合もある。ドラマや小説やアニメの影響だろう。それら創作の中の警察は、探偵が捜査に介入することを簡単に許し、あまつさえ頼ったりする。

 実のところ、警察は単に探偵の営業に許可を出す立場であって、警察から探偵に捜査を依頼することはほぼあり得ない。

 ただし、ある事件について探偵が何らかの情報を得ていると考えられる場合は、警察が情報提供を要請することもあるだろう。もちろんそれは探偵の営業としてではなく、一般市民としての捜査協力だ。だから警察は依頼料を払ったりしない。

 探偵が「業務上の秘密」などと称してお金を取ろうとするなら、免許の停止をちらつかせるか、公務執行妨害で……ということになろうか。とにかく警察は探偵よりも圧倒的に強い立場にある。

「探偵? うーん、おることはおるけど、お金かかるよ」

「いくらなん?」

「4万円くらいかなー」

「もうちょっと安くならへんの?」

「私の立場ではそれより安くならへんねん」

 頭の中にあるのは当然、咲洲にいるあの探偵。不二恵の階級が上がって巡査部長になれば3万円にしてもらえるのだけれど、当分先のことだろう。

「どこに連絡したらええの?」

「私から連絡しとこか? 千絵ちゃんの家へ行ったら、お母さんが状況説明してくれる、っていうことにしといてくれるんやったら、探偵さんに行ってもらうけど」

 もちろん不二恵は、友人である千絵に対して知り合いの探偵を紹介している、という認識であって、警察として依頼しようというつもりは毛頭ない。

「じゃあ、お母さんと相談してみるわ」

「後で電話してねー」

「お金立て替えてくれる?」

「それは千絵ちゃんが払ってくれんと困るわー」

 電話はそれでいったんやりとりが終わったが、少し後にもう一度千絵から不二恵に電話がかかってきて、探偵に依頼したい、ということになり、10時頃に不二恵は“湾岸探偵事務所”へ向かったのだった。警察官としてではなく、友人の代理人として行くのだから、そこには何も問題はない……のだろうか?


「なるほど、状況はわかりました。百万本の薔薇ならぬ、100本の薔薇ですか」

 不二恵の説明を聞いた後で、エリーゼは言った。詳細は千絵の家で、ということになっているので、ここでは概略説明だけ。それでも不二恵はコーヒーをちびちび飲みながら話すので、けっこう時間がかかった。ここのコーヒーは署のものよりもおいしく、お代わりしたくなるほどなのだ。

「そういえばそんな歌ありましたねー。サビのとこしか憶えてないけど。誰が歌ったんやったっけ。加藤登紀子さん? うちのお祖母ばあちゃんが料理作るときによう歌ってたなー」

「それはそれとして、これは警察からの依頼ではないのですね?」

「はい、私はただの紹介者です。割引ないのって千恵ちゃんに訊かれて、ないって言うのはつらかったけど」

「それはいいですが、フジコちゃんも一緒に行くのですか?」

「フジコじゃなくて不二恵です。はい、もちろん一緒に行きますよ。そうしないと千絵ちゃんのお母さんがきっとびっくりすると思うんで」

「私は愛用の単車で行こうと思っていたのですが、フジエちゃんと一緒ならニュートラムで行った方がよさそうですね」

 エリーゼはホンダの大型バイクを所持しており、近隣の移動に利用している。ちなみに“単車”などという、ほとんど死語になりかかっている言葉を好んで使っている。なお、バイクには独自の“ペットネーム”が付けられているのだが、他人には通用しないため、エリーゼが口にすることはめったにない。

「あ、そっちの心配するん。うーん、そうやね、千絵ちゃんの家の前には単車停められへんと思うわ。ガレージも家にはなくて、少し離れたところに借りてるはずやし」

「わかりました。たまには歩くのもよい運動でしょう」

 エリーゼは立ち上がるとドアの横の帽子掛けから紺色の中折れ帽を取り、大きな姿見の前で被って入念に微調整を施した。出掛ける前の儀式のようなものだ。不二恵は後ろからそれを見る。

「ハットかっこええなー。私も一つ買おうかなー」

「フジエちゃんは警察官の帽子の方が似合うと思いますよ」

「女性用のハイバックのやつ? そうやなあ、あれも可愛いから好きやねんけどなあ。でも今日は制服やないし、帽子だけ警察用にしても意味ないし」

「制服姿で一般家庭を訪問したら、近所の噂になってしまいますよ。さて、私の帽子の方はグートです。行きましょうか」

 飲み終わった後のコーヒーカップは、不二恵がさっと洗っておいた。ただで飲ませてもらったのだから、これくらいのことはする。


(続く)

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