第4章 図書室の床 (後編)

「図書室……やっぱりそうなのですね」

「おや、既に何か心当たりがあったのですか」

 雪美の呟きに、探偵が質問してきた。

「ええ、元々、何かあるなら図書室と思っていたのです。ご存じかどうか、このマンションには法令に違反した箇所があるという噂があって、それがこの住戸の中だというのです。ご覧いただいたとおり、図書室は特殊な構造ですから、違反があるとすればそこかと。ですが、建設会社は問題ないと言うし、図面を基に外部の建築士の先生に調べていただいても異常なしということでした」

「しかしこの暗号によれば、ご主人かハイダ先生は、図書室に何かあるとご存じだったということになりますね。2階の床下に」

「ええ、それで一昨日、ある鑑定士に来ていただいて調べてもらったところ、やはり図書室の2階の……主人は中2階と呼んでいましたが、その床は後から増築したものだろうとのことでした。図面には描かれているのですが、それ自体がオリジナルでないと……」

「特殊なカンテーシとおっしゃると、フドーサンカンテーシですか、それとも土地カオクチョーサシ?」

「いえ、そういう肩書きではないと思います。不動産や土地だけでなく、何でも鑑定されると。民間の科捜研のようなところで……」

 雪美の説明を探偵は笑顔で聞いていたが、急に驚いた表情になると、突然自分で自分を抱きしめた。寒いときにやるような仕草で、実際に身体を震わせているようだ。

「……どうされました?」

 雪美が訊くと、探偵は苦しげな表情のまま、唇の端を吊り上げた。無理に笑顔を作っているように見える。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。私は平気です。ただ、平静でいられないだけです。私は雪美様がおっしゃったカンテーシ様のことをよく存じ上げているのですよ。私の目標とする偉大な方なのです。その方と同じ結論に達したことが……もちろん方法は違っているのですが……嬉しくてたまらなくなったのです」

「はあ……」

 すると探偵は「嬉しさのあまり」苦悶していたというのか。「背中がぞくりとするような快感」? もちろん、雪美の気にするようなことではないに違いないが。

 探偵はしばらく二の腕の辺りを手でこすっていたが、ようやく普通の姿勢に戻って言った。

「アキ、ナイン、カンテーシ様は、図面がオリジナルでない、つまりマンションを建てたときの原版でないとおっしゃったのですね? しかし会社は原版だと主張するのでしょう?」

「そうです。それに、主人が引いた図面なんです」

「そうでしたか。ご主人を信用なさりたいお気持ちはよくわかりますが、カンテーシ様が違うとおっしゃるなら、それが正しいはずです。アマさまとご相談の上、警察に依頼して、建設会社を捜査するべきと思いますね。現にご主人は、詳しく調べられたら困ると考えて、暗号として残されたのでしょうから」

「はあ……」

 確かに探偵の言うとおりに違いないと雪美も思った。二つの調査結果が一致しているなら、それを信用するしかない。建設会社は、時に隠蔽をすることもある。すぐに天川法律事務所に電話し、今日の夕方5時から相談してもらえることになった。

 暗号の解読には成功したと考えられるので、雪美が調査料の残りを支払おうとしたら、探偵が「まだ全てが解決したわけではありません」と言う。

「何かがある場所がわかっただけで、実際にそこから何かが出てこなければ、解読は失敗と言ってよいのです。すぐに調べられるようなものではないでしょう? 実際、私も床の上を歩きましたが、その下が隠し戸棚とはとても思えませんでした。解体して調べるにも、時間が必要でしょう」

「そうですね。それにやはり天川先生に相談してからの方がよいかと」

「私もそう思います。そこでご相談なのですが、今日、私も同席させてくださいますか? ご主人が暗号を残した理由や、こんな面倒なことをして隠そうとしたものに、興味があるのです。調査が必要ならもちろんお手伝いしましょう」

「はあ……」

 確かに、暗号を解読するだけでは済まないような気が、雪美にもしてきた。経緯を調べるとなったら、天川弁護士からやはりエリーゼを紹介されるのではないだろうか。

 もう一度弁護士事務所に電話して、探偵の同席を了承してもらった。むしろ天川弁護士の方が乗り気のような声に聞こえた。


 夕方5時に雪美が法律事務所へ行くと、受付の前に探偵がいた。若い、高校生か大学生に見える受付嬢と、親しげに話している。

 ただ、受付嬢の方はそれほど楽しげでもない。雪美を見て探偵との会話を打ち切り、「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」と頭を下げた。

 事務室の奥へ行くと天川弁護士がおり、「遅い時間にご足労いただきまして」と言ったが、そこへ探偵が「アマさま~!」と大きな声を出しながら割り込んできて、天川にひしと抱き付いた。雪美は思わず目を見張った。

「ご無沙汰しておりますです~」

「おお、エリちゃん、久しぶりやなあ。あんた見るたびに綺麗になって」

「そうやって褒めていただけるのでとても嬉しいですよ~。先生もお元気そうで何よりでございます」

「ああ、元気元気。ところであんた、最近、渡利君とはうまいこといっとるんかいな」

「マイン・ゴット!」

 天川が渡利の名前を出した途端、探偵は飛び退くようにして天川から離れた。

「アマさま、そんな大それたことをおっしゃってはいけません。私はまだ修行中の身で、アキラ様に近付くことなど到底許されないのです」

 さっきまでの楽しそうな様子が嘘だったかのように、探偵は真面目な、半ば怯えたような表情になって言った。しかし天川は笑顔のままだ。

「そんなこと言わんと、はよう上の階に越してきぃな。テナント料は大サービスすんのに」

「それよりお仕事ですよ。マンション図書館の謎を解かねばなりません」

「マンション図書館! えらい組み合わせ方やなあ。ああ、坂森さん、失礼しました。この子、前に紹介したとおり我々とは知り合いで、ここへ来たらいっつもこないして愛想よう挨拶してくれますんや」

「はあ……」

 天川は60歳くらいで、貫禄もあり、気難しいと言うほどではないが威厳のある容姿なので、探偵に対する愛想のよさは意外に感じられた。しかし周りにいる弁護士や事務員は、一連の顛末を誰一人気にしていないようなので、見慣れた光景ではあるのだろう。

 デスクの後ろの小会議室へ招き入れられ、テーブルを囲む。一人、若手の男性事務員が入ってきたが、天川が「書記係ですわ」と言う。

 まずは天川からの報告。引き継ぎの状況だ。要するに、灰田弁護士が坂森社長からに受けていたと思われる依頼は何だったか。

「灰田はどうやら図書館巡りをしておったようです。本の寄贈の相談やったようで」

「宅の図書室からですか」

「そのようです。どこに何を寄贈するかという作りかけの目録がありました。ただ、一覧は別紙参照となっておるのに、別紙の一部が見つからんのです。パソコンのファイルも消してしまって、プリントアウトした紙だけがどこかへ保管してあるのかと」

「それがあの暗号……」

「おそらく。それで、図書室に何やありそうということでしたが、詳しく聞かせてくれはりますか」

 天川に言われ、雪美は図面と実物の照合を渡利鑑識に頼んだことや、暗号を探偵に解いてもらったことを説明した。天川は「さすが渡利君やな」とか「さすがエリちゃんやな」と感心しながら聞いている。

「ようわかりました。図面については、渡利君の計算式を役所へ提出して、確認してもらいます。警察が坂森建設を捜査してくれるか難しいところですが、渡利鑑識のネームバリューで何とかしてくれますやろ」

「あの……鑑識って、そんなにすごいところなんですか?」

「前に申し上げたとおり、警察は科捜研並みに信用してますんで」

「はあ……」

「図書室の中2階の床を解体するかどうかは、図面が見つかってからにした方がよろしいでしょうなあ。バラしてしもうたら差異がわからんようになってしまう。しかしエリちゃん、あんたは実物見てるんやろ。どない思った?」

「アマさま、それについてはユカリありませんとも。暗号の意味がわかった後で、雪美様にお知らせする前に、私は床のことを詳細に観察しておいたのです」

「ユカリ? いやちゃうわ、エリちゃん。それ、や。“抜け”という言葉の変形」

「ホップラ! 憶えたばかりの言葉を嬉しがって使うものではないですね。ゾーヴィゾー、私の観察によれば、床は十分な厚みがあるので、空洞を作ってそこに本や書類を入れることは可能と思いますね」

「なるほど、デスクの抽斗ひきだしみたいな感じで」

「そのとおりです。ただ引っ張っても開きませんでしたので、シュラウベンで固定しているかもしれません」

「シュラウベン? ああ、ネジか。そういうところも渡利君が見てくれたらよかったんやけどなあ」

「依頼すれば見て下さったでしょうが、そうでなければ何もおっしゃらないと思いますね」

「まあ彼の場合はそうやな。しかし彼でのうても、内装工事業者に見てもらったらわかるやろ。開けられそうなら作業も頼まんといかんし。坂森さん、業者の手配をお願いできますか。役所と警察は私どもで手続きします」

「わかりました」

「アマさま、雪美様、私に一つ依頼していただきたいことがあります」

 エリーゼが、例の型どおりの笑顔を作りながら言う。

「それを言うために付いて来たんやろな。言うてみ」

「坂森のご主人がよく利用していたコショ店を調べるのです」

「古書店か。なるほど隠し抽斗に古書を入れてるかもしれんから、目録を見て、心当たりがないか尋ねるんやな」

「そういうことです。葉を隠すなら森の中、本を隠すなら図書館の中です」

「エリちゃん、ドイツ語では“葉を隠す”て言うんやろうけど、日本語では“木を隠す”やで」

「ホップラ! ご親切に指摘していただき、ありがとうございますです」

 とにかく、雪美は古書目録を作ってもらっている古書店を探偵に紹介した。咲洲ではなく難波にある店で、『一二三夜ひふみや古書堂』という。店主は雪美も顔なじみで、主人と同い年くらいの老人だ。

「目録は今週末にはできあがると連絡がありましたので、宅へ持って来てもらうことにしていましたが、こちらの事務所で皆さんにも見てもらう方がよろしいでしょうか?」

「エリちゃん、どうや?」

「いいえ、雪美様のところで結構だと思いますよ。ただ、私が調べていることは、店主様には秘密にしておいてくださいますか」

「わかりました」

 話を通しておいた方が色々と尋ねやすいと思うのだが、彼女には彼女なりの考えがあるのだろう。

「難波か。昔は難波の古書店に、法律書をよう買いに行ったなあ。今、なんばパークスがあるところには大阪球場があって、その中に店がようけ並んどった。球場が解体されたときに、南海の駅の東側のビルへ移転したはずやけど、今もあるんやろか」

「ではそれも見てくることにいたしましょう。法律書以外の本は買わなかったのですか? 例えばビニールに包まれている写真の多い雑誌とか」

「はっはっは、エリちゃん、それは言われへんわ。けど、いくら欲しくても万引きはしてへんで」

 三回りくらいも年齢が違いそうなのに、天川と探偵は実に楽しそうに話している。

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