第6章 花言葉 (後編)

 結局、真衣は1万5千円だけ払って帰った。残り2万円は、警察によって事件が解決してから、ということにして。しかし解決するかどうかは、歩美にもわからない。警察はもはや捜査を進めていなくて、鳥毛の「記憶回復待ち」なのだ。

 ただ回復してもそれがどの程度信用されるかについては、エリーゼが言ったとおり、不明。だから捜査陣には、うやむやに済ませようという雰囲気がある。状況から「自業自得」という見方なので……

「残りの2万円は、私がお支払いしましょうか」

 歩美が言うと、エリーゼは澄ました顔で首を横に振った。

「必要ありません。依頼人が隠しごとをしている時点で、受けるべきではなかったのですよ。受けた後で気付いた私がウカツなのです」

「言葉のニュアンスの違いですか」

 エリーゼは無言で頷いた。「花がちぎられて、ばら撒かれていた」という言葉。よくそんなところに気付いたと、歩美は感心したくらいだ。あるいは外国人だからこそ、単語のニュアンスの違いを気にしたのだろうか。

「ちぎる」は漢字で「千切る」と書く。「小さく切る」というのが原義だろう。その意味は大きく分けて三つ。


  ① 手などで細かく断つ。細かく粉砕する。

  ② もぎとる。ねじ切る。引きちぎる。

  ③ はなはだしく…する、さかんに…するの意を表わす。例「褒めちぎる」。


 3番目の意味はこの事件とは関係ない。1番目と2番目だけ関係がある。つまり「花をちぎる」という言葉からは「花びらを細かく裂く」と「茎から花をもぎ取る」の2通りが考えられる。破片の大きさの違いだ。

 エリーゼが母語とするドイツ語では、この二つは違う言葉で表すのかもしれない。

「それより歩美様は、どうして私に協力しようと思われたのですか。現職の刑事ですのに」

「協力しようなんて、そんな。私はただ依頼者が来たときに偶然同席したり、被疑者のところへ独断で事情聴取に行こうとしただけですから」

 真衣がここを訪れるのは不二恵から聞いた。それに合わせて非番の日にだけで、刑事の身分は明かさなかったし、席を外して欲しいとも言われなかったし、コメントもしなかった。

 城島実果や大江有香理のところへは事情聴取に行ったのだが、それをエリーゼにただけ。歩美の事情聴取は断られたが、エリーゼの訪問は受け入れられ、歩美はそれをだけ。

 今日もエリーゼから聞かれたことに対して「そのとおり」と答えただけ。捜査内容を漏らしたつもりはない。

 代わりに、真衣の「自白」は証言として扱うことができない。警察として事情聴取したのではないから。むしろ「おとり捜査」と同然に扱われて、証拠能力がない。

「そうですか。では、事件の解決には、まだしばらくかかりそうなのですね」

「いえ、犯人が二人であることの証拠はあるんです。渡利鑑識にお願いして……」

「おや、何が出たのでしょう」

「花びらの表面に付いていた跡です。キッチングローブの模様が付いているものと、何も模様が付いていないものがありました。つまり手袋が2種類あったんです」

 最初から全ての破片を持って行くべきだった。たまたま選んだ5片のうち、4片に同じキッチングローブの跡があったため、見逃しかけたのだ。

 後で改めて全てを鑑識してもらい、2種類の手袋が使われたことが判明したのだった。

「一人が二つの手袋を使った可能性があるのではないですか?」

「いえ、指の大きさと、力の入れ方も、二人分あることがわかったんです」

「素晴らしい。さすがはアキラ様です。しかしその二人が有香理様と実果様であるという証拠はないのですね?」

「はい。キッチングローブは城島実果さんが使って、持って帰ってどこかで捨てたのでしょう。模様なしの手袋は大江有香理さんのプラスチック手袋だと思いますが、もちろん捨てたと思います。それを探し出して、指先から桔梗の成分が検出されて、内側から二人の指紋かDNAが検出できれば物証になりますが、見つかる見込みは限りなく薄いですね」

「しかもそれは桔梗をちぎったのが二人というだけでしかありませんから、どちらが被害者を叩いたのかはわかりませんね。服に花粉がより多く付いていた方、とも限りません。桔梗をちぎったときに付いた、と言い訳できますから」

「そうなんです。だから被害者の記憶が戻らない限り、被害届を取り下げてもらうということにするしかなさそうです」

「しかし戻ったところで、私の推理が正しければ、有香理様のセートーボーエイになるのではないですか。あるいはキンキューヒナンというのでしたか」

「正当防衛で正しいですよ。自分ではなく、他人の権利を守るための行為ですね」

 鳥毛が実果を押し倒し、そこに同意がなければ“暴行”となる。それを目撃者である有香理が止めようとするのは、正当防衛として認められる。

 もちろん、植木鉢で殴って、血が出て気絶するような怪我を負わせるのは“過剰防衛”に当たる可能性もある。しかも怪我させた相手を放置するのは遺棄罪に相当するだろう。

 ただし、鳥毛はDVの常習者であり、これまで相手に加えてきた暴行の数々を考慮するならば、“暴行未遂”と“障害及び遺棄”を相殺して手打ち、というのが相当ではないだろうか。それを判断するのは警察ではないけれども。

「ところで、依頼者の隠しごとがわかった時点で、どうして依頼をキャンセルしなかったんですか? エリーゼさんのルールでは、そういうことになっていると伺ったんですが」

「どうして私のことをエリちゃんと呼んで下さらないのですか」

「いえ、何となく」

「もっと遊びに来て下さって、仲良くなればエリちゃんと呼んで下さいますかね」

「いえ、本来はここへ遊びに来るのも上司から止められてるんですが」

「刑事課の方はそうやって考え方が固いので困ってしまいます」

「森村さんもなるべくやめた方がいいと」

「アン様は飲み会にはよく付き合って下さるのですがねえ」

「これからは隠れて遊びに来ますから、キャンセルしなかった理由を教えて下さいよ」

 関係ないことをエリーゼが持ち出したのは、言いたくないからだと思われたので、歩美はつい折れてしまった。エリーゼは澄ました顔で話し出す。

「私は最近、TVドラマの『刑事コロンボ』をよく見ているのですよ」

「ああ、BSで定期的に再放送している。えっ、ここってBSが受信できるんですか?」

「何をおっしゃいますか。自宅に決まっているではないですか。録画して見るのです」

「そうですよね。びっくりしました。失礼しました。それで?」

「いくつかのエピソードで、犯人だけしか知らないことをうっかり言わせるとか、やらせるとかして、自白に導くというのがあったはずです。私もそれをやってみたかったのですよ」

「ああ、なるほど。今回はそれが、『桔梗がちぎられて……』ですか」

「そうです。それには第三者の証言が必要なので、歩美様にお越しいただいたのですよ。そして『あなた、前に彼女が言ったことを憶えてますね?』と言ってみたかったのです」

「言いませんでしたね」

「それに近い状況にはなりましたよ。十分満足しました。ですから料金が半分しかもらえなくても構わないのです」

 確かにエリーゼの表情は、晴れ晴れとしている。彼女の外連好きが満たされたということだろう。

「本当は犯人に対してやりたかったとか」

「もちろん、そうです。しかし今回の場合、私は犯人に同情していますから、敢えてしないつもりなのです。真衣様にやったのは、嘘をついていた罰としてです」

「理解しました」


 帰る直前、歩美はもう一つ聞きたいことを、思い付いた。

「御剣真衣さんに提示した、もう一つの回答のことですけど」

「何か不備がありましたか?」

 エリーゼ得意気な顔で聞いてくる。本来の推理より、あの想像の方を気に入っているのかもしれない。あるいはクリスティの『オリエント急行の殺人』で、ポワロが提示した「もう一つの回答」を意識してのことか。

「放り投げた植木鉢が、頭に当たったのに、どうしてテーブルの上に乗ってたんでしょう?」

「頭に当たって弾んで、テーブルの上に偶然乗ったというのでは許してもらえませんか」

「さすがに偶然が過ぎると思います」

「では、こういうのはいかがですか」

 エリーゼは顔の前で人差し指を立てた。このポーズも何かのTVドラマの真似のような気がする。

「鳥毛様が起きたとき、床に落ちていた植木鉢を、無意識のうちに拾い上げてテーブルに置いた。しかし起きたばかりで寝ぼけていたのと、その後いろいろと混乱があったので、自分で拾ったのを忘れてしまった。最初からテーブルの上にあったと思い込んだのです。よくあることだと思いますが?」

「そうですね。それならありそうです。寝ぼけて目覚ましを止めたの忘れたとか」

「警察の結論もそれにしてしまってはどうですか」

「いえ、被害者の記憶回復待ちが続いて、お宮入りになるのが私の希望です」

「そうですか。長い道のりですね。その頃には私もここにいないかもしれません」

 傷害事件の公訴時効は10年、民事時効は3年だ。エリーゼの引っ越しは、それほど先ではないと、歩美は聞いているのだが。

「どこへ行くんですか。それともドイツに帰る?」

「それは相手次第なのです」

「じゃあ、渡利さんに聞けばわかるんですか」

「マイン・ゴット! アキラ様がそんなこと、お答えになるわけありません!」

 そう言いつつもエリーゼの表情は、とても嬉しそうに、歩美には見えた。


(終わり)

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