第6章 花言葉 (前編)
「二人のうち、どちらがあのようなことをしそう、と真衣様は思われますか?」
真衣の質問に、エリーゼが質問で返した。真衣はうつむき加減で、上目遣いになって考え込んでいる。自分が疑われなくなったためか、視線は比較的柔らかかった。
「
「有香理さまは薬剤師で、病院に勤めてらっしゃいます。他の方に聞くと、大変お優しい性格ということでした」
「そうでしたか。医療関係の方がお優しいのは、わかる気がします。でも患者さんのわがままに、思わず手が出たり、あるいは男性と二人きりになると性格が変わるとか……」
「それは理解します。鳥毛様も性格が変わるのでしょう、二人きりになると」
「ええ、そういうところが確かにあります」
「さて、現場の状況を考えてみましょうか。鳥毛様は後頭部に傷があったということでした。ここです」
エリーゼは自分の後頭部を右手で触ってみせた。ちょうど耳の後ろあたり。頭蓋骨と首の境目で、いわゆる「延髄斬り」の狙い目である。
「そうでした」
「しかしそこを植木鉢で叩くのは難しいのではありませんか? すくなくとも、頭を下げている必要があるでしょう」
言いながらエリーゼは、下を向いて見せた。後頭部に手を当てながら。
「はい、そうでしょうね」
「私はそう考えたので、そのソファーは二人で座れるくらいの大きさで、鳥毛様はそこでうつ伏せになっているときに叩かれたのだろうと想像したのですよ。真衣様がご覧になったときは、そうだったのではありませんか?」
「……そうです。うつ伏せで、顔はテレビの方へ向いていたと思います」
「しかし、そんな姿勢でテレビを見たり、寝たりするでしょうか」
「しないでしょう。普通は、仰向けです。彼がお酒を飲みながらテレビを見ていて、そのまま寝てしまったことがあります」
「鳥毛様がソファーにうつ伏せで寝ていたのをご覧になったことがないのですね」
「ありません」
「ではソファーに二人で並んでお座りになったことは」
「あります。リビングにいるときは、たいてい並んで座ります」
「床に座ることはないのですね。ラグが敷いてあると伺いましたが」
「いつもはありません。彼の友人が来たときは、床に座ってテーブルに料理とか缶ビールとか置いて、ということはありますが」
「では並んで座っているときに、鳥毛様がもたれてきたことはありますか」
言いながら、エリーゼはソファーの上で身体を斜めに傾けた。そのソファーは一人用なので、隣のソファーに人が座っていても、もたれることはできないだろう。しかし、二人用なら……
「あります」
「そのままソファーに倒れてしまうことは?」
「倒れる?」
「私があまり使わない日本語なのですが、押し倒す、と言えばわかりますか?」
エリーゼは更に身体を傾けるだけでなく、両手で“抱き付く”仕草をして見せた。
「はい、あの……あります。特に彼が、酔っているときとか」
真衣は少しはにかみながら答えた。鳥毛と身体の関係を持っているはずだが、それを他人に披瀝するのは好まないのだろう。
「今回もそれと同じことがあったのですよ」
「今回も? 誰を……」
「二人のうち、どちらかです」
真衣は少し目を見開いたまま、絶句している。彼女は暴力を振るわれて出て行ったはずだが、いない間に誰かを呼ぶとしても、そういうことがあるとは思ってもみなかったらしい。
「それは……どちらが」
「それを言うのはもう少しだけお待ちください。その前に、考えていただきたいことがあるのです」
「何です?」
「押し倒された状態で、押し倒している人の後頭部を、植木鉢で打てるものでしょうか?」
「できませんか? こうやって……」
真衣は両手で植木鉢を持ち上げてから、落とすふりをした。しかしやった後で、「納得がいかない」という目つきになった。
「それで後頭部が切れるほどの怪我をさせることができるでしょうか」
「でも思いきり力を込めたら……無理でしょうか」
「腕の長さはこれだけしかないのですよ」
言いながらエリーゼは左腕を伸ばし、右手の親指と小指を曲げたり伸ばしたりしながら、長さを測るまねをして見せた。
「そして、後頭部までのキョリもあります。腕を伸ばしてから、打ち付けるまで、40センチメートルもないのではありませんか。それでは十分なダゲキを与えることができません」
エリーゼは両手で植木鉢を持つと、ソファーの上で身体をできるだけ横にして、植木鉢を虚空に差し上げてから、顔の前まで振り下ろした。植木鉢を使った重量挙げのようだ。
しかし鉢の移動した距離は、エリーゼがさっき言ったとおり、40センチほど。それではこぶができる程度だろう、というのは誰にもわかる。
「はあ……そうかもしれません」
「だから十分なダゲキリョクを得るには、こうするしかないのです」
エリーゼは立ち上がると、ソファーの後ろに回り込み、頭の高さからソファーの背のところまで、植木鉢を振り下ろした。なるほど、それなら十分な打撃力が得られるだろう……
「それにこの鉢は、ソファーの近くに置いてあったのではないでしょう? 例えば窓際とか」
「リビングの入り口の、サイドボードの上に置いてあります。たまに、ベランダに出したり窓際に置いたりして、日に当てることもありますが」
「では、誰かがソファーで鳥毛様に押し倒されているときに、別の誰かが入ってきて……」
エリーゼはもう一度、植木鉢を持ち上げてから振り下ろした。それで真衣の頭の中にも、現場の様子がはっきりと想像できただろう。
「……すると、実果さんか有香理さんかのどちらかが、海志くんに……その、何されているときに、もう一人が入ってきて? まさか……」
「でも、状況からはこのようにしか考えられないのですよ。それにもう一つだけ状況証拠があるのです」
「何です?」
「真衣様は桔梗の花言葉をご存じですか」
エリーゼは鉢をテーブルの上に戻し、ソファーに座りながら言った。
「さあ……調べたような気もしますが、忘れてしまいました」
「ではなぜ桔梗の種を買って育てようと思われたのです?」
「ホームセンターへ行ったときに、店員に勧められたんです。育てるのが簡単だからと」
「そうでしたか。私は本を買ってきましたよ。たいへん興味深いことに、本屋によって置き場所が違うのです」
エリーゼはまた立って、今度は壁際の本棚(スカスカで、数冊しか置かれていない)へ行き、薄っぺらい冊子を取って戻って来た。
「辞書の近くだったり、占い本の近くだったり、園芸書の近くだったりするのです。これを買った本屋では、園芸書の近くに置いてありました。さてこれによると桔梗の花言葉は『永遠の愛』『誠実』『清楚』『従順』です。とてもよい言葉ばかりですね」
「はあ」
「鳥毛様にふさわしい言葉だと思われますか?」
「…………」
恋人の留守に、前の彼女やその前の彼女を呼んで、ソファーの上で押し倒そうとする男には……ふさわしくないに決まっている。
「ということは、花をちぎってバラバラにしたのは……」
つまり「ふさわしい花ではないのだから、ちぎって捨ててしまう方がいい」と。
「私はそう考えますね。もちろん、打った後で考えたのでしょうけれど」
「そうかもしれませんが、結局、どっちがどっちなんですか?」
「私の想像では、押し倒されていたのは実果様で、鉢で頭を打ったのは有香理様ですね。もちろん、先に来た真衣様が押し倒されているところに、後から有香理様が来て、鳥毛様が気付かないうちに打ったのだと考えます」
「海司くんが思い出すのを待つだけですか」
「しかし一度は忘れてしまった記憶です。思い出したからといって、他に証拠がないのでは、警察が信用するとは限りませんよ。証言を裏付ける物的証拠が必要です。二人ともマンションの部屋に来たという証拠が。あるいは三人の証言が全く一致するかのどちらかでしょう。ですが、実果様と真衣様が本当のことを証言するかというと……」
「もちろん、言わないでしょう。今でも示し合わせた上で、証言しているのですから」
エリーゼが言うとおり、記憶を取り戻したということの証明はできないのだ。元々記憶は、事件の証言においては混乱しやすいものとして扱われ、裁判だと「被害者の記憶は
「もう一つ困ったことがあります」
「何ですか?」
「この推理を真衣様や警察に信用してもらえないということは、私が事件を解決したことにならないのですよ。つまり残りの料金がもらえません。私がそれをいただくのは、事件が解決したときと誰もが認めるときだけなのです」
「確かに、それはお困りでしょうね」
「ですからもう一つ、回答を示します。こちらの方がむしろ受け入れてもらえるのではないかと思いますね」
「どんなのでしょうか」
「鳥毛様は実果様と真衣様に電話しましたが、お二人ともいらっしゃいませんでした。それで鳥毛様は真衣様に電話して呼び返そうとしたのですが、前の夜に怒ったことを憶えていたので、少しでもご機嫌を取ろうとして、桔梗の世話をしようとしたのです」
「……海志くんらしくないですが、それで?」
「植木鉢をサイドボードからソファーの近くへ持って来たのですが、うっかりラグの端につまづいて、転んでしまいました」
「つまづくのは、たまにあります。ラグの下に滑り止めを敷いていないので、料理や飲み物をこぼしたりして」
「鳥毛様はソファーにうつ伏せになって倒れましたが、持っていた鉢はつまずいた拍子に放り投げてしまいました。それが落ちてきて後頭部に当たってしまい……」
エリーゼはそこで言葉を切った。真衣は呆然としている。まるでテレビ番組のコントのようだからだろう。ややあってから、言葉を継いだ。
「……どれくらい起こる可能性があるのでしょうか」
「他の可能性がなければ、これを採用するしかないと思いますね」
(続く)
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