第7章 贋作者の発見 (後編)
「いつも遅い時間になり、申し訳ありません」
麗羅は渡利に頭を下げた。顔が赤くなっているのは、走ってきたからだと言い訳しておいた方がいいだろうか。
「お気遣いなく。依頼者の時間の方が優先です」
渡利はいつもどおり無感情な声だった。しかし麗羅が欲しているのは彼の視線であって声ではない。サングラスの奥の目を見ただけで、ドキドキした。感応しているわけでもないのに……
部屋へ入り、ソファーに向かい合って座る。書を見てもらう前に、麗羅は試そうと考えていたことがあった。彼への個人的な質問は、どの程度許されるのか?
「遅くなっても差し支えないのは、この近くにお住まいだからですか?」
「徒歩5分です」
「マンションですか」
「そう」
「お一人で?」
「それは鑑識と関係がある質問ですか?」
一番聞きたいことは、答えてもらえなかった。麗羅は落胆を押し隠しつつ「無駄話をして申し訳ありません」と言い、書をテーブルの上に置いた。
今日入手したばかりのものが二つ、以前発見したもの(即ち偽筆)が二つ。偽筆の方は昨日のうちに京都府警から請け出してきた。
「ご存じと思いますが、書は毛氈の上で書きます。そうすると紙の裏に、毛氈の毛の欠片が付くことがあるはずです。それが同じものか、比較していただきたいんです」
「警察に依頼しない理由は?」
「理由が必要なのですか?」
それを聞かれるとは思っていなかった。あらゆるものを無条件で鑑定してくれるところではなかったのか。
「気にしているのは、証拠品としての質の違いです。二つは見たことがある。偽筆でしょう。これは警察が押収した正式な証拠品。しかし他の二つは違う。その鑑識結果は、捜査に反映されない」
これには少なからず驚いた。麗羅が自分で証拠品を入手して、捜査に役立てようとしたことを見抜いているのだ!
「反映されないのは、なぜ……」
「警察が正式な手続きを得て押収したものではないから。言い換えると、現行犯として押さえた現物か、家宅捜索令状を取って押収したものでなければ、証拠品として扱われない」
麗羅は落胆した。そうすると私は、無駄なことをしてしまったのだろうか。しかし、他にどうすればよかったのか……
「私の依頼には意味がないということでしょうか?」
「予備調査としてなら意味がある」
「どういうことです?」
その問いかけに渡利は答えず、どこから取り出したか白い手袋をはめて、書を手に取った。今日入手した方は箱入りで、偽筆の方は(請け出したままの)ビニール袋に入っている。箱を開けて、丸められた書を少しだけ広げ、裏を見る。ビニール袋からは取り出さす、袋越しに紙の裏を眺める。
そして四つを二組に分けた。それぞれに書が一つと偽筆が一つ。
「これから書く鑑識結果を京都府警へ持って行って、科捜研で確認するよう、依頼して下さい。結果が同じになれば、京都府警が令状を取って、正式な証拠品を押収するでしょう。それから科捜研で再度鑑定。その後、逮捕状が出ます」
「あっ、そういうこと……」
麗羅はようやく理解した。鑑定結果をどうするか、はっきりした考えを持っていなかったが、それを麗羅が贋作者に証拠として突きつけたりしないよう、示唆してくれたのだ。
あくまでも警察による捜査の結果、贋作者が摘発されなければならない。しかし渡利の出す鑑定結果ではなく、正式な証拠品による、科捜研の正式な鑑識結果に基づかねばならないと。
渡利はデスクへ行って、鑑定書を書き始めた。麗羅はその姿を見ていた。
これまでの鑑定書は、「鑑定品は偽筆である可能性が極めて高い」という程度の短いものだった。今回は、書く姿を見ていると、長文のものになりそうだ。
そして今までは気付かなかったが、渡利が書いている姿は、とても美しい。手の動きが滑らかであることが一つ。しかし他の理由の説明は難しい。
書といえば、畳の上で正座して、筆を持って……というのが麗羅の想像する自然な姿。しかし、椅子に座ってペンを走らせる姿にも別種の美観がある。〝洋式の美〟ということになろうか。
そういえば外国の絵画でも、書き物をする姿を描いたものがあったのではないか……
いつの間にか取り留めない夢想に入りかけていたが、渡利がソファーへ戻ってきたことで、麗羅は我に返った。
「これを……京都府警に提出するのですね」
渡された鑑定書を見る。思ったとおり長文だった。羊毛の質だけではなく、染料の種別についても言及している。見ただけでそれがどうしてわかるのか……しかし麗羅は彼の鑑定を全て信じることにしている。彼の特殊な能力を持ってすれば、人の心まで見通せるのだから。
加えて、彼の文字の味わい深さはどうだろう。癖のない、書道の手本になりそうな楷書。いや、それをほんの少し崩している。横書きのための崩し方だ。
漢字の草書や行書は縦書きのための崩し方だが、横書きでもこれほどうまく崩せるとは……まるでアルファベットの筆記体のよう。麗羅でも真似したくなる。
ふと顔を上げると、渡利が見ていた。思わず胸がドキリとする。先ほどから身体が心地よく感じているのは、見られていたからだったのか。
「すいません、長々と鑑定書に見入ってしまって」
「いや、内容をこの場で確認するのは必要なことです。後から修正してくれと言われてもお互いに困る」
「そんな、修正なんて、私には鑑定の知識もないのに……ああ、そうか、私が鑑定を依頼した内容が全て書かれているかを、確認しなければならないのですね? 不足がないかとか……」
「そうです」
「それなら、これで充分です。鑑定料は……」
「2千円です」
「4点だから4千円ではないのですか?」
「偽筆は比較基準なので鑑定対象外。比較対象が2点だから2千円」
「そういうことですか。わかりました」
あらかじめ用意した封筒には、二千円札が2枚入れてあった。1枚を抜き取り、封筒を差し出す。渡利からは領収書が返ってきた。但し書きは「墨書付着物比較鑑識料として」。
考えてみると、これまで発見した偽書に対する鑑定書は、全部警察に渡してしまった。しかしそれも渡利の直筆で書かれている。惜しいことをした、と麗羅は思った。警察に頼んで、返してもらうことはできるだろうか。
それに今日のこの鑑定書も、警察には渡したくない。コピーを手元に残すのは嫌だ。直筆がいい。警察にはコピーを渡して……
「えっ、あっ、ありがとうございました。では、これで……」
またいつの間にか夢想状態に入っていたことに気付き、我に返ると、麗羅は腰を上げた。そういえば今日の滞在時間は長かった。偽書の臨書のときの、5時間半に次ぐ長さ。それでもわずか15分ほどに過ぎないが……
「お気を付けて。京都府警には、こちらからも連絡しておきます」
「あっ、ありがとうございます……あの、科捜研の結果が出たら、こちらへ報告を……」
「必要ありません。そのうち、自然に伝わってきます」
贋作者が逮捕されたら、ニュースになるだろう、ということに違いない。あるいは臨海署の刑事から聞くとか。
そうではなくて、麗羅がここに来る名目を作りたいだけなのだ。これからも、偽筆が発見されたときだけしか、来てはいけないのだろうか。
しかし麗羅は、おとなしく引き下がることにした。偽書が見つからないのが自然なことであって、それに慣れなければいけないのだ。いくら彼が麗羅の完璧な理解者だからといって、精神的に頼り切りになるわけにはいかない。冬美も心配してくれていた。
事務所を出て、アヴェンダドールに乗り込む。運転しながら、心地よい興奮が続いているを、麗羅は感じていた。気分が悪かったのが、すっかり治ってしまった。彼と会うと、身体の中で何か特殊な化学物質が分泌されて、心が高揚するのだろうか。
アドレナリン? いや違う。高揚だけでなく、陶酔感がある。脳内麻薬……何と言っただろう、βエンドルフィンだったか。名前など、どうでもいい。とにかく気持ちいい。
家に帰り、夕食とシャワーの間以外、麗羅は鑑定書を眺めて過ごした。このまま抱いて寝たい気がする。汚してはいけないので、桐箱に入れることにした。興奮で寝られないかと思ったが、不調で身体が弱っていたせいか、すぐに眠りに落ちた。だが翌朝の目覚めは最高だった! 桐箱は胸に抱いたままだった。
午前中の創作も捗り、ここ数ヶ月間できなかった傑作を物した。今年の代表作になるかもしれないと思えるような。
午後から京都府警へ行き、鑑定書のコピーを垂井刑事に渡して、捜査に役立ててくれるよう頼んだ。垂井は原紙かコピーかなど全く気にしていない様子。それから、今までの鑑定書を返して欲しいと頼むと、すんなり返してくれた。コレクションが一気に増えた気分だ!
夜のデートにも気分よく臨んだ。鳳には「何かいいことがあったようですね」と見抜かれてしまったが、「傑作が書けたからです」と返しておいた。その元になる「いいこと」を言う必要はないだろう。デートには満足してくれたようだし。
数日後、贋作事件が解決したと京都府警から連絡が入った。斎所、三田、撫養と、偽筆売買に関わった骨董屋数人が逮捕されたと。斎所が二人に贋作を指示し、売買の手引きをしたのだが、麗羅の人気と実力を嫉妬してのことだったそうだ。
一門の名に関わるため、三人の名が報道されないよう配慮して欲しいと、麗羅は垂井に頼んだ。しかし斎所は書家を引退、三田と撫養も書道を離れることになるだろう。
以後、麗羅の生活は、すっかり安定した。朝の創作は常に調子がいいし、気に入った作ができるペースも速まっているのを実感している。偽筆はあといくつか発見されるかもしれないが、そうたいした数ではないはず……
だが、発見されたら渡利のところへ行ける。早く行きたいと思うのはなぜだろう? 私は次にいつ、聖地へ巡礼できるだろう?
いや、それまでにもう一段階、上達していたい、と麗羅は望んだ。彼に専属の鑑定人を続けてもらいたいが、羽生麗羅がいつまでも同じ筆致でいるとも思われたくない。新たな境地を開き、それを憶えてもらいたい。
もう一度、彼の前で書をしたためる機会を持てたなら、それはどれほどの……
(終わり)
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