第13話 最高級ワインの謎
第1章 ワイン鑑定(開栓前)
「今度のパーティーには、例のロマネ・コンティも出すぞ」
“今度のパーティー”とは、裕助が社長として経営するレストラン『ヴェスタ』チェーンの新規事業である、ワインバー『バッカス』の1号店がオープンするのを記念したもの。時は2週間後、場所は
“例のロマネ・コンティ”とは、裕助が去年ニューヨークのワインオークションで競り落としてきた、1945年物の超高級品。値段は56万ドル。約6000万円(当時)。元々は来年の、裕助の還暦パーティーで開ける予定になっていた。早く飲みたくなったのかもしれない。しかし、新店のオープン記念で開けるのもそれはそれでふさわしいだろう。
ロマネ・コンティは梅田にある『ヴェスタ』本店のワイン
ニューヨークのオークションに輝紗は同行しなかった。そして裕助が持ち帰ったワインは、帰国後、店の蔵へ直行した。中には裕助の秘蔵品を置くための別室があり、裕助だけがその部屋の鍵を持っている。だから輝紗はロマネ・コンティを一目も見ていない。
しかしパーティーで供するワインの管理を輝紗が任されることになったので、今後はロマネ・コンティも輝紗が管理する。裕助から鍵を預かり、他のワインと共に、輝紗が使用する別室に移しておいた。もちろんそこも鍵をかけられるようになっている。
その上で、鑑定を誰に頼むか。
もちろん、飲んで鑑定するわけではない。あくまでも瓶を鑑定する。エチケット(ラベルのこと)が本物であるか。そしてコルク栓が開封されていないか。
開封されていないかは、輝紗でも見ればわかる。だから調べるのはエチケット。ところが輝紗には残念ながらその知識がない。ソムリエはワインに関する知識を持っているが、主に味に関することで、“エチケットの真贋”については別の鑑定家がいる。
念のため、知り合いで輝紗よりもベテランのソムリエ何人かに相談してみたが、誰もが「自信がない」という答え。それはそうだろう。“ロマネ・コンティ1945年”ともなれば、飲んだことがあるどころか見たことがある人すらほとんどいないに決まっている。
そこで関西随一のソムリエで、輝紗の師でもある
“鑑識”渡利亮は、約束したぴったりの時間に、『ヴェスタ』本店前に現れた。しかしその姿を見て輝紗は、大きな不安に陥った。なにしろ若い。30歳である輝紗よりも遥かに年少だろう。せいぜい23、4歳。真崎が推薦するくらいだから、年配で見るからに威厳のありそうな“職人”が来ると輝紗は思っていたのだ。
しかもポロシャツにチノパンという軽装。薄い色のサングラスはともかく、この身なりでは高級レストランなら普通に追い返されるだろう。
そもそも“鑑識事務所”とやらに電話した時から、輝紗はちょっと不安だった。高校生ではないかと思うような若い声の女性が、“鑑識”本人に取り次がずに予約を入れてしまったのだから。
高級なワインの鑑定は、持ち込みではなく現地で行うこと。それはまあよかった。しかし鑑識料は1本千円、プラス出張費千円という破格の安さ……
予約した後でフランスの真崎に電話を架けた。不審な点について訊き、「それでいい」と言われて納得したつもりだったのだが、やはりまだ不安だ。
とにかく輝紗は渡利を店裏手の従業員専用口に案内し、そこから地下のワイン蔵へ降りた。西洋風に“トンネル状”に作られていて、通路の両脇にワインを置く棚が並んでいる。ヨーロッパのワイン蔵で時々見かけるような、板を斜めに組んだ棚だ。
輝紗が管理するスペースはその奥にある。金網で仕切られ、ドアがあり、鍵がかけてある。1945年産のロマネ・コンティは、金網越しにかろうじて瓶の口が見える距離にあるが、エチケットは見えない。輝紗は鍵を開けて、渡利を招き入れた。そして棚から瓶を抜き取り、布で慎重に埃を払った後で渡利に手渡した。渡利は大ぶりの白いハンカチを手にして、瓶を受け取った。
輝紗は瓶の底に沈んだ
「ルディ・クルニアワンの偽造ワイン事件のときに、あなたは関連するいくつかのワインを鑑定されたそうですね」
真崎から聞いたことを確認してみる。渡利は「はい」と素っ気なく答えた。
ルディ・クルニアワンは2001年頃からワインのオークション会場に現れ、高額なワインを次々と落札していった謎の人物。コレクターとして名前が広がり、大富豪の息子と噂された。2006年からはルディのコレクションによるオークションが開催され、膨大な売り上げを得た。
ところが次第に、彼が出品するワインには
しかし既に多数のフェイクワインが出回ってしまったため、その全ての行方を特定することはもはや不可能となっていた。そしていまだに世界中のオークションでは、ヴィンテージワインを購入するときに、まずフェイクを疑うこと、という状況になってしまったのである。
特に注意する必要があるのが、1945年産のロマネ・コンティだ。第二次世界大戦の終戦の
ほぼ全てが既に消費されたか売買されたと見られており、オークションに出ることがまれになっていた。その中で、「絶対に信用できる」という来歴と保証人が付いた一本が出品され、裕助が競り落としたのだった。
「45年のロマネ・コンティの本物をご覧になったことは?」
「あります」
フェイクワインには主に二通りの作り方がある。
一つは、古い“本物の”ワイン瓶に、味や香りを適度に調合した安ワインを詰める方法。コルク栓や口の周りの封はそれっぽく偽造する。
もう一つは、調合ワインを古い形の瓶に入れ、本物そっくりに作ったエチケットを貼り付ける方法。
今回はエチケットの鑑定で、後者を見破ることが目的だ。
「灯りをもっと明るくしましょうか?」
蔵の中は天井からぶら下がったランプ風の電灯がいくつか灯っているだけ。もちろん、明るくするとワインが劣化するから。しかしこの暗さではラベルの文字を読むくらいしかできないはず……
「いや、これで十分です」
渡利は言ってからサングラスを額に上げ、手を全く動かさず、顔を動かしながらエチケットを睨むように見ていたが、30秒ほどで「本物です」と呟いた。
「あの……ルーペで見たりしなくていいのですか」
輝紗は思わず言ってしまった。偽造エチケットは新しい紙に印刷して、それをヤスリで削って毛羽立てたり、薬品で劣化させたりする。ルーペで見ればそういう細かいこともわかるはずなのだ。
インクの成分を科学的に調べて、本物と比較すれば確実だが、エチケットの一部を削り取る必要もあるし、そもそもそんな鑑定をするところは日本にはない。
「去年競り落とされたヴィンテージワインのラベルは全て憶えています。同一で間違いない」
「憶えているって……」
「ちゃんと写真に撮っている人がいて、その人から資料としてもらいました」
「…………」
あるいはオークショニアがそういう資料を提供してくれるのかもしれないが、「憶えている」というのはエチケットの状態を「画像として」憶えているのだろうか。それとも「どこにどれくらいの傷があって」というチェックリストだろうか。
彼の言葉を、本当に信用していいのか。
しかし今はこれしかできないのだ。“彼に対する真崎の信用”を信用するしかないだろう。
「わかりました。どうもありがとうございました」
「依頼された鑑識はエチケットだけでしたが、瓶についても本物で間違いない」
「そうですか」
「キャップシールとコルクも問題ない」
「それも……見るだけでわかるのでしょうか?」
輝紗が見てわかったのは、キャップシールが破られていなかったことだけ。
キャップシールとは瓶の口にかぶせられた、アルミやプラスチックの封のこと。古いワインでは錫箔を使うこともあり、年代を重ねるとぼろぼろになることが多い。
この瓶のキャップシールも錫箔の一部が破れてコルク栓が見えているが、栓を抜けるほどの穴にはなっていない。それにコルクも相当に古いはずで、一度抜いたらボロボロになって二度と使えなくなるし、新しいコルク栓と入れ替えると、注意して見ればわかってしまう。
つまりフェイクの“第一の方法”は使われていないと輝紗は考えていた。渡利はそれも保証してくれたことになる。
渡利は瓶を返してきた。鑑定終了ということだろう。輝紗はそれを受け取って、棚の元の位置に戻した。
蔵を出て、レストランの裏口のところまで来てから、渡利は「鑑識料と出張費で2千円」と無愛想に告げた。輝紗が払うと、引き換えに領収書が出てきた。但し書きは「1945 Domaine de la Romanée-Conti エチケット鑑識料として」。
渡利が店を出て行った後で、輝紗は一人ため息をついた。偽造ワインでないことは保証されたかに思えるが、なぜか不安なのだった。どこかに見落としがあるような気がする……
しかしそれを口にすると、“真崎の信用”を疑うことになってしまう。このままパーティー当日まで、一人で不安を抱えているしかないのだろうか。
しかも明日からは世界ソムリエコンクールに参加するため、1週間以上渡仏しなければならない。こんな心境のままで、ワインの味を鑑別することができるのだろうか……
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