第3章 金庫と金貨 (前編)

 話が長くなったので、エリーゼがコーヒーを淹れ直してくれた。ついでにお茶請けのマカダミアナッツチョコも出てきた。利津子は次にここへ来るとき、何か差し入れを持って来ようと思った。一緒に食べられるお菓子がいいだろう。

「探偵事務所に依頼が来たんですよね。誰が依頼したんですか?」

「クララさんのご両親です。あまりお金持ちではないらしく、事故のことを知らせてからすぐに来日することができませんでした。その間、クララさんも話すらできない状態でしたけれどね。来たのは、2週間ほど経ってからです。」

「お話しできるようになるまで、ずっと日本にいるわけにもいかないでしょうからね」

「そのとおりです。だから1週間ほどでスペインへ帰ってしまいました。3ヶ月ほど後にクララさんが退院するとき、もう一度いらっしゃいました。事務所へ依頼にいらしたのは、1回目の、最後の日です」


 ちょうどその頃、警察も困っていた。船内の捜索のため、船室にある金庫を開けたかったのだが、ヨットの備品としてはかなり精密なダイヤル式金庫で、簡単に開けられそうになかったから。

 もちろん、時間をかければ開けられる。しかし壊して開ける方が早い。ただ、壊すとすれば、ヨットの所有者の許可が必要になる。犯罪が行われた証拠がない場合、そういう判断が下される。ところが所有者は行方不明だ!

 その場合、身内の者に許可を得ることになる。ボブの父であるスペインの富豪には、すぐ連絡が取れた。しかしこれがなかなかの分からず屋で、押し問答が続いた。ダイヤル式なら、破壊せずに開けられるだろうと言うのだ。それほどの締まり屋だから、富豪になったのかもしれない。

 ともかく富豪の言うとおりなので、警察はしぶしぶ、破壊せずに開けることに決めた。

 ところがさらにややこしいことがわかった。開けられない金庫がある船室は、クララとデイヴが使っていたのだ。ということは、彼らの許可も必要になる。中に、ヨットの備品でも所有者の物でもない、第三者の私物が入っていることが明らかだから。

 クララは、金庫を使っていたのはデイヴだと証言した。それは特に大きな問題ではない。二人で部屋を使っていたのなら、どちらかの許可が得られれば開けられる。しかし、クララはなぜか許可しなかった。開けて、中の物を見るのが怖いと言い出したのだった。デイヴとボブのケンカの原因となる物が入っていると想像したからだ。

 そこで警察は、クララの両親に説得を頼んだ。それは功を奏し、クララは了承したが、条件を付けてきた。「両親が選んだ、信用できるスペイン人に開けてもらうこと」。警察を信用していないということだが、このまま延々と説得を続けるわけにもいかない。両親は「信用できるスペイン人」を探すことにした。

 警察は、両親がスペイン大使館にでも行くと思っていたのだが、父親の方が「心当たりがある」と言って、人捜しを頼んできた。当然、警察は受けられない。非公式に、探偵事務所を紹介した。それが、エリーゼのいる事務所だった。


「エリちゃんのことを、スペイン人と思ってたんでしょうか?」

「そういうわけではありませんよ。しかし、当然のことながら、私が通訳としてお手伝いすることになりました。ところがお父上は事務所へ来て挨拶するなり『あなたに任せる!』と言うではありませんか。私はとても驚きました」

「まあ、そんなことが! 心当たりのスペイン人はどうなったんですか?」

「さっぱりわかりません。もしかしたらそんな人はいなかったのかもしれません。私はもちろん、ドイツ人であることを説明しました。しかしお父上は『あなたは綺麗なスペイン語を話す。きっと信用できるに違いない』と言うのです。もしかしたら、彼の家の近所に信用できるドイツ人でも住んでいたのではないかと想像するくらいしかないのですが、とにかく私に任せると言い張るのですよ」

「でも、クララさんが承知しないのでは?」

「私もそう考えましたし、指摘しましたよ。ご覧のとおり私はゲルマン系で、南ヨーロッパのラテン系にはとても見えませんからね。ところがお父上は、それについては問題ないと主張するのです。金庫を開けるときに、クララさんが立ち会うわけではないのですから、私がスペイン人でないことがバレるはずがないと。もしバレても、お父上が私のことをスペイン人だ信じていたと言い張ればいいと。スペイン人はそういう点でとても自由が利くのですよ」

「とにかく、お父さまがエリちゃんに頼むことに決めたから、それでいいということにしたんですね」

「そうです。それ以上余計なことに時間を使っている場合ではありませんでした。ただ私は調査員ではなく単なる通訳でしたから、今度は警察の許可が下りません。そこで探偵の通訳としてヨットへ付いていき、みんながよそ見をしている間に私が金庫を開ける、というおかしなことになったのです」

「まあ、本当におかしなこと! ところで、エリちゃんは金庫を開けられるんですか?」

「ダイヤル式金庫は少しだけ練習したことがあって、精度の低い、例えば数字が二つくらいずれていてもいいようなものであれば、開けられました。しかし説明書を見た限りではとても精巧な金庫で、数字をきちんと合わせないと開かないようなものでした。ダイヤルを回すと、ティッティッと音が鳴るものがありますね?」

「ダイヤル式っていうと、右に3回まわして25に合わせて、次に左に2回まわして50に合わせて、っていうあれですね。カチカチって音が鳴るのは、銀行の貸金庫で使ってますね」

「あの音は日本語でカチカチというのですか」

「そうですよ。今まで誰も教えてくれませんでしたか?」

「私がその音を口にしたことがなかったですからね。とにかく、そういう精巧な金庫でしたから、組み合わせの数字を総当たりでやると、開けるのに何日もかかってしまいます。ただ、金庫を使う人が自分で数字を決められるので、デイヴが使いそうな数字をいろいろと考えれば、その一つで開くだろうと思いました。それは見事に的中したのですが、どんな数字だったと思いますか? 2桁の数字が三つの組み合わせです」

「数字が三つですか。うーん、私なら自分の誕生日にしますね。最初の2桁を西暦にするか年号にするかはちょっと迷いますけど」

「ヴンダーバー! やはりリッちゃんは素晴らしいですね。そうです、誕生日でした。人が最も忘れにくい数字といえば、やはり誕生日なのです。銀行の暗証番号でも、一番多いのが誕生日ですからね。それはいけないと銀行は注意しますけれど」

「褒められて嬉しいですけど、それだと警察も一度くらい試したんじゃないですか?」

「試したと思いますよ、許可を得る前に、こっそりとね。それで開いたら、最初から開いていたということにするつもりだったでしょう。だからデイヴではない、他の人の誕生日です」

「とすると、恋人のクララさんのですか。それともご両親のとか、ご兄弟がいらっしゃるならその人たちとか」

「そのどれでもありませんでした。ですが、他にも関係者がいますね」

「じゃあ、アリスさんかボブさんの誕生日ですか?」

「ヤー、そうです、アリスさんの誕生日でした」

「そうだったんですか! どうしてでしょう?」

「クララさんが語った事故の状況を思い出してください。デイヴさんとボブさんが争っていて、アリスさんが間にいたのでしたね。この場合、どんなことが争いの原因だったと考えられますか?」

「男の人が二人に女の人が一人ですから、女の人を取り合っていたというのが考えられますね。あら、でも、デイヴさんにはクララさんという恋人がいますし」

「しかし、それだけを除けば、状況は女性の取り合いですよ。とにかく私はそれで、デイヴさんはアリスさんの誕生日を組み合わせ数字に使ったかもしれないと考えたのです。ただし順序は、ヨーロッパの一般的な日付の書き方に従った、日・月・年でした」

「とにかく、それですぐに金庫が開けられたんですね」

「はい。ですが、それ自体は大したことでもなかったのです。時間をかければ開けられるのを、短縮しただけですから。もっと難しい問題は、金庫の中身でした」

「それがこの金貨ですか?」

 利津子はテーブルから金貨を取り上げて、もう一度眺めた。

「金貨と、たくさんの書類でした。書類はどうやら暗号の解き方を考えた結果のようでした。しかしそれをざっと見たところ、結局解けなかったようなのですね。あるいは事件の日には解き方がわかったけれど、それは頭の中で憶えておいたか、別の紙に書いてポケットに入れていたか」

「なるほど。とにかく金庫の中身は、事件の原因を推理するための証拠品にはならなかったっていうことですか」

「そのとおりです。最終的に警察は、事件の原因は不明と判断しました。おそらく誰か一人がデッキに出て、海に落ちて溺れたところを他の二人が助けようとして、一緒に溺れてしまったのだろう、クララさんだけは寝ていてそれに気付かなかったのだろう、という非公式な見解を調査書に書いたようです」

「クララさんの証言以外に何もなければ、そうするしかなかったんですね」

「そうです。その後、ヨットは富豪に返却されました。その他の船内の遺留品は、3人の遺族とクララさんにそれぞれ返却されました。しかし、金庫の中身はデイヴさんの遺族ではなく、クララさんに渡されました。私が金庫を開けたとき、デイヴさんの遺族はスペインへ帰った後だったからでしょう。クララさんは、それを見ると悲しいことを思い出すからと言って、ご両親に預けることにしました。そしてご両親が2度目の来日の、帰国する直前に、私にまた調査を依頼してきたのです。金貨には暗号が隠されているようなので、それを解いて欲しい、という依頼です。ただ、探偵事務所は通さず、私に直接連絡して来られたのですけれど」

「エリちゃんはよほど信用されていたんでしょうね」

「私がすぐに金庫を開けたのを知ったからでしょうね。私は依頼を受けて、解けたら必ずご両親とクララさんへ報告することを約束しました。ところで、金貨はこれ1枚ではなかったのです。全部で30枚、合計130エスクードあったのですよ。金庫から見つかったとき、私が両手ですくえるほどの大きさの革袋に入っていました。報告したときに、これだけを記念にもらったのです」


(続く)

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