第2章 ヨットの遭難 (後編)

 利津子が憶えていた内容を話すと、エリーゼは嬉しそうな笑顔になって両手を大きく広げた。

「ヴンダーバー! 素晴らしい記憶力です。私は事件の調査のため、1ヶ月後くらいに大阪へ来たのですが、その時ですら、事件のことを忘れかけている人ばかりでしたよ」

「どうして憶えていたんでしょうね。その頃はずっと家にいて、テレビのワイドショーばかり見てたからかもしれません」

「とにかく、そのエスメラルダ号事件に私も関わったのです」

「救助されたのが外国の女の人だったからですか。その人が、スペイン人?」

「そうです。海上ホアンチョーが救助して、本来ならオガサワラのショカツと一緒に事件を調査するはずだったのですが、オガサワラは人手不足を理由にして、警視庁へ移管してしまったのですね。すると警視庁は、海上ホアンチョーの東京海上ホアン部が江東区にあるからという理由で、近くにある東京湾岸署をショカツにしてしまったのです」

「あらあら! でも、警察が捜査することになったんですか。探偵事務所じゃなくて?」

「事件のことについては、警察と海上ホアンチョーが捜査するしかないですよ。私の出番はもっと後だったのです」

「金貨が出てきてから、っていうことですね」

「そうです。そこまでのことは、ざっとお話しするだけにしましょう。ああ、ヨットに乗っていた人たちの名前はあまり重要ではないので、仮の名前にしておくのがいいでしょうね。富豪の息子でヨットの所有者をボブ、その恋人をアリス、ボブの友人をデイヴ、その恋人で、生き残った女性をクララとしましょう。名前に深い意味はありません。頭文字がABCDで、暗号の教科書に使われるものなのですよ」

「あら、では、後で暗号が出てくるんですか?」

「そうです。楽しみにしていてください」


 乗員4人のうち3人が遭難したことについては、警察がクララに聞き取りを行ったが、彼女が気落ちしていてその時のことを忘れたがっているせいか、なかなか進まなかった。数週間かけてようやく全貌が見えてきた。

 航海の目的は、西回りの世界一周。所有者のボブにより、スペインのマスメディアに向けてそう発表されていた。ただし主に遊覧のためであり、早周りに挑戦するものではない。事実、カリブ海の辺りでは1ヶ月もあちこちの島を渡り歩いた。

 クララは、デイヴに誘われて乗った。世界一周には半年くらいかかる予定だったが、彼女は仕事に就いていなかったため、参加できた。デイヴは仕事を辞めて参加した。

 ボブとアリスは元々仕事に就いていない。ボブは富豪の息子で、常に世界中を遊び歩いているような放蕩者。アリスはモデルとして少しだけ働いたことがあるが、その時ボブに見初められて彼の恋人となり、以来ボブからもらう小遣いで生活していた。モデルをしていただけに、とても美人で、ボブ以外にも多くの男性から求愛されたことがあるらしい。

 クララはデイヴが参加した理由を、半年間遊んで暮らせるから(航海中の費用は全てボブが持つことになっていた)だと思っていたのだが、実は違った。航海の本当の目的はカリブ海での宝探しで、ボブはデイヴをブレーンとして呼んだのだった。デイヴはその儲け話に飛び付いたので、仕事を辞めたのだ。

 ボブは交際範囲が広いだけに、夢のような儲け話にいくつも関わっていたらしい。宝探しも、誰やら知らぬ怪しい人物から聞き込んできたようだ。

 そこにデイヴを引き入れたのは、「ボブが宝の地図か暗号を手に入れたので、それをデイヴに読み解いてもらおうとしたのではないか」とクララは証言した。

 デイヴは冒険小説や探偵小説のマニアで、謎解きに憧れる傾向があった。ボブはおそらく他の友人にも声をかけたろうが、誰も本気にせず、デイヴだけが乗り気になったのではないか?

 ただそれも、クララがたまたま耳にしたことから推測しただけで、宝の在り処を示すような地図は、警察が船内を捜索しても見つからなかった。

 しかし、ボブとデイヴがカリブ海で何かを見つけたのは間違いない、とクララは言った。カリブ海に着いてから連日、二人はあちこちの小島へ上陸しては探検をしていたようなのだが、ある日を境に、デイヴは船室に閉じこもりがちになり、ボブはアリスと酒を飲むばかりになった。そしてボブはデイヴに「まだか」という言葉を連発するようになった。デイヴはずっと苦悩しているようだった。

 しかしボブは4、5日経つと急に機嫌がよくなり、カリブ海を離れて西へ航海を続けると言った。デイヴも少し表情が明るくなった。パナマ運河を抜け、北上してアメリカのサンディエゴで補給。太平洋を横断してハワイでまた補給。さらに日本へ……

 ハワイを出た日付と日本までの距離から、東京辺りに入港するのがいつ頃になるかは計算できる。しかしちょうど予定日の頃、小笠原と本土の間には大型の台風が居座っていた。


「そうそう、ハワイから日本への航路では小笠原は通らないけれど、台風のせいで漂流したのではないかっていうことでしたね」

「そのとおりです。クララさんも、台風に遭遇したことは憶えていました。そして3人がいなくなったのは、その夜のことだったのですよ」

「確か、夜中にデッキで言い争いがあったのだとか……」

「よく憶えてますねえ、そのとおりです」


 ヨットは大型の双胴なので、船室は左右それぞれの胴に2部屋ずつ、そして二つの胴をつなぐ部分にはキッチンやリビングがあった。操舵室はその上。アリスとボブは右胴の一室を二人で使い、クララとデイヴは左胴の一室をやはり二人で使っていた。

 ただ、デイヴが苦悩していた頃、夜にクララが船室で寝るときは、デイヴはリビングへ行って起きていたことがあるようだった。

 嵐に遭遇した日、クララは夜中に目が覚めた。上のデッキを、雨が激しく叩く音が聞こえていた。ベッドの隣に、デイヴはいなかった。ただ、その夜は一緒に寝たはずだった。またリビングへ行ったのかと思ったが、クララは妙な胸騒ぎがして、起き上がると、部屋を出た。

 リビングは明かりが消えていた。キッチンにも誰もいなかった。デイヴはボブたちの船室へ行ったのかとクララは思ったが、右胴の船室をドアの隙間から覗いても、中で灯りが点いている様子はなかった。そうなれば、デッキだ。激しい雨風が吹き荒れているというのに!

 しかし、嵐のせいでヨットに何か問題が発生して、そのために操舵室にいるのかもしれない。デイヴはヨットを操舵できないけれども、装置に何か故障があったのなら、ボブを手伝って修理しようとしているのではないか。デイヴは機械工ではないが、少なくともコンピューターに詳しいし、無線機の修理くらいならきっとできるだろう。

 クララは階段を上がった。操舵室に出るドアは閉まっていた。開ける前に、ドアに耳を近付けて様子を窺ったが、雨の音はすれど、人の声は聞こえなかった。ドアを開けると、やはり明かりは消えていた。もっとも、操舵室を明るくすると外が見えなくなるので、めったなことでは明かりを点けないのだが……

 それでももう他に探すところがないので、クララは操舵室に入った。そして後ろのオープンデッキを見た。そこにデイヴとボブがいた! それに、アリスもいるのではないだろうか? しかし、暗くてよく見えなかった。

 それにしても外は大雨に大風だというのに、なぜみんなそこにいるのだろう? しかもデイヴとボブは何かを言い争っているらしかった。声は全く聞こえないが、二人の身振り手振りでそう思えた。アリスはなぜ仲裁しないのだろう? 二人の間に、黙って立っているだけに見える。

 だがなぜかクララも、操舵室から見ていることしかできなかった。デッキに出ると、何か恐ろしいことが起こるような気がしたのか。

 しかし、クララが外へ出なくても、それは起こった。デイヴとボブは、ついにつかみ合いになった。どちらかがどちらかを、船縁から突き落とそうとしている! しかし、アリスはやはり何もしない。クララは足がすくんで動けなくなった。

 だがそれは長く続かなかった。大波でヨットが揺れた。クララはよろけて、操舵室の中で尻餅をついた。慌てて立ち上がり、外を見たが、そこにはもう誰もいなかった。

 あるいは、見間違いだったのだろうか? クララは慌てて外に出た。雨が一瞬にして身体中を濡らした。風が断続的に吹き付け、時折波しぶきが大きく上がって、甲板を濡らした。そしてやはり、そこには誰もいなかったのだ。怖くて、海を覗くこともできなかった。

 クララは慌てて操舵室に戻り、ドアを閉めた。そしてもう一度、リビング、キッチン、船室を捜した。もちろん、空いている船室も。物入れや保管庫の中も見た。しかし、どこにも、誰もいなかった。何度も何度も、同じところを捜した。捜し疲れて、どこで力尽きたのかも、憶えていない……


「そこまで詳しくは、ニュースになっていませんでしたよ。今、初めて聞きました。でもクララさんのそのお話、本当なんでしょうか。にわかには信じられませんね」

「そのとおりです。デイヴさんとボブさんが言い争っていたようだとのことですが、そんなことはリビングですればいいのです。クララさんの船室に声が聞こえるのを気にしたのかもしれませんが、それでも操舵室へ行けばいいでしょう。そして、そこにアリスさんもいて、何もしなかったというのがまた不自然です」

「確かにそうです」

「ただしクララさんも、証言に自信がない、とは言っていました。もしかしたら、夢だったかもしれないと。船室で寝ていて、洗いの音を聞いたり、リビングから漏れてくる口論の声を聞いたりして、そんな夢を見てしまったのかもしれないと」

「それはありそうですね」

「しかしヨットが発見されたとき、中にクララさんしかいなかったのは間違いないです。また、船のGPSデータを警察が調べた結果、台風が関東地方へ接近している日に、ヨットがチバ県の南東沖を進んでいたのも確実です。さらに」

「まだありましたか」

「ボブさんが、簡単な日記を付けていたのです。日付入りの手帳に、どこへ行ったか、何をしたかが、1行とか2行とかで簡単に書いてありました。日付変更線を越えた日に、1日進んだ、みたいなこともきちんと付けていて、それはGPSデータと照合できました。そして台風に遭遇した日で、それが途絶えていたのです」

「とにかく、その日に3人がいなくなったんですね」

「ただ、警察はもちろん、クララさんを疑いましたよ。3人を海に突き落としたのではないかとね。それも証拠がありませんので、疑いだけで終わりました。クララさんが一人だけ助かるつもりなら、救難信号を出すのを思い付くだろうけれど、それをしなかったから、というのも疑いを消す手伝いになりました」

「それで結局、真相は?」

「わかりませんでした。でもそんなことは、私には関係ないのですよ」

「ああ、そうですね。エリちゃんはスペイン金貨の謎を解くんでした。それは?」

「これからお話しします」


(続く)

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