第2章 追跡 (後編)

 カールスルーエに移動しても同じようなことが起こった。ダイスはほとんど毎日、違う種類の会社へ行った。毎日違う仕事をしているようだった。朝行った方向と、全然反対の方向からホテルに戻ってくることもあった。いくつも掛け持ちしているようだ。

 彼の仕事は一体何なのだろう? エリーゼの頭は混乱していたが、一方で新聞や雑誌を読むのはそれなりに面白くなってきた。「文章を読むこと」に慣れてきたからだろう。ただし、内容を全部把握しているわけではない。

 バーデン・バーデンへ移動した次の朝に、またダイスに訊いてみた。一体何の仕事をしてるのか?

「お前、毎日跡をつけて来てるのにわかってないのか」

 やっぱり気付かれていた。しかし、その上で見逃してくれているというのもわかった。

「毎日違うことしてる……」

「そうだ。昨日はカジノで何をしていたと思う。不正が起こりそうなテーブルの選出と監視カメラの調整だ。今日も同じことをするが、明日は美術館で絵の真贋の鑑定、明後日は劇場で音響の調整だ」

「やっぱり全然違う仕事なんだ。どうしてそんなことができるの」

「五感を使うのが仕事だ。目と、耳と、鼻と、舌と、手先を使う。普通の人間よりも全ての感覚が鋭敏なんだ。真贋の判定もすれば差異の検出もする。その場にある二つを比べることもあれば1年前の物との差分も出す。だから記憶も使わなきゃならない」

「すごい……けど、私、そんな仕事、手伝えない。そんな知覚力ないよ」

「お前にそんなことは期待していない。別のことをしてもらう。今日は久しぶりに仕事をやろう。カジノで掏摸スリをやってみろ」

「カジノで!?」

 バーデン・バーデンにはドイツでも有数の歴史のあるカジノがあって、というのは昨日来たときに初めて知った。中がどうなっているのかは想像も付かないけれど。

「警備システムの穴の指摘だ。カジノには掏摸が来ることを予告しておく。ただし、どんな人間が来るのかは教えない。それでカジノ側が掏摸を摘発できるかどうかが試験だ。捕まっても心配はいらない。俺がちゃんと説明して解放してやる。盗んだ物も持ち主に返す。来る時間はお前の好きにしていい。り取った後でそのまま帰るなよ。18歳以上に見える格好をしてこい。化粧も忘れるな」

 それから「支度金」として200ユーロもらった。これで服と靴と化粧を買うのだろう。化粧なんてしたこともないが、化粧品店に行ってどうにか形を付けてもらって、夕方になってからカジノへ行った。オープンの2時に行っても客が少ないと思ったからだ。中は、昔、童話で読んだお城のパーティーを思わせる華やかさと賑やかさだった。

 標的はどうしよう。以前みたいに財布だけではなく、その他の金目の物なら何でもいいことにしようか。そして以前のようにあからさまにぶつかる手は効かない。賭けに夢中になっている隙にり取るのがいいだろう。儲けが目的でないとはいえ、何人を標的にすればいいのかもわからないけれど……

 警備員は、制服だけでなしに、私服もいるように見えた。監視カメラの位置も計算に入れなければならない。しかし、最初の標的は成功した。後ろからスーツの内ポケットに手を入れて盗ったのは初めてだった! 中身は確認しなかった。

 少し時間を置いて2人目、そして3人目も成功した。しかし、2時間ほど経って5人目から盗ろうとしているときに私服の警備員に声をかけられた。

 バックヤードの警備員室に連れて行かれて、しばらく待っていたら「帰っていい」と言われた。盗んだ物はもちろん全部返したが、代わりに「報酬」を受け取った! 250ユーロ。エリーゼの人生で初めての、「まともな稼ぎ」だった。

 ホテルに戻ってダイスを待っていたら、日付が変わりそうな頃に帰ってきた。エリーゼが話しかけようとしたら、「他にも掏摸がいたのに気付いたか」と訊かれた。

「一人だけ……確信はなかったけど」

 ギャンブルを見ずに客の流れだけを見ている男がいた。しかし目つきが警備員に見えなかったので、自分と同じ掏摸かと思った。

「一人か。もっといたんだがな。まあいい。お前は2時間捕まらなかったらしいな。他の奴より長く保ったし、俺が穴だと指摘した場所で仕事をしたから、カジノも反省してカメラの位置を変えやがったよ」

「じゃあ、私、役に立ったの?」

「そういうことになるな。しかし、掏摸をやらせるのは当分やめておく」

 なぜなのかはわからなかったし、聞かせてもらえなかった。それからは本当に掏摸の仕事はなくなって、どこに行っても連絡係のようなことしかやらせてもらえなかった。ただし、読む学習はずっと続いていた。


 半年くらい経ったとき、朝、いつものようにホテルでダイスと会ったら、封筒を渡された。

「これを解読しておけ。次の仕事先だ」

 中には便箋が1枚だけ入っていて、よくわからない言葉が書いてあった。


  "Einアイン Seeadlerゼーアドラー plunderteプリュンデルテ dieディー Quarkクワルク Rahmラーム."

  (海鷲はクワルク・クリームを奪った)


 クワルクはドイツ特有のフレッシュチーズだ。しかし、肉食である鷹が、そんなものを食べるはずがない。確かに暗号に違いないが、どうやって解読するのだろう?

 この前の、紋章ワッペンの暗号と種類が違うのは明らかだった。今日はもしかしたら、新聞も雑誌も読んでいる暇がないかもしれない。最近はそれらを自分で買いに行ってるし、空き時間には図書館にも行ったりしていた。いろいろ読んで、新しい知識を得られるのが楽しみになって来ていたのに。

 海鷲ゼーアドラーはダイスの「コードネーム」だ。エリーゼはつい最近知った。ダイスの本名は「ダイシュウ・ワタリ」。ダイシュウが名前でワタリが名字。ダイシュウは日本のカンジで「大きな鷲リーゼン・アドラー」と書くらしい。そして日本のオオワシはドイツ語で"Riesenseeadlerリーゼンゼーアドラー"というらしい。けれど、それでは長いので「ゼーアドラー」になったのだろう。

 コードネームを持っていても、別に政府の諜報員シュピオナーゲじゃなくて、フリーランスの情報屋としての名前であるらしい。表の仕事は五感を使ったあらゆるセンシングだけれど、仕事先で入手したいろいろな情報を密かに売買しているらしい。情報は仕事そのものに関するものではなくて、仕事中に他のことを観察して得たものらしい。目に入ったり耳に入ったりする情報らしい。

 らしいズィート・アウス、ばかりなのはダイスに聞いても何も教えてくれないからで、代わりにエリーゼがこっそり――もちろんダイスにはバレているのだが――見聞きした情報で推測しているだけだからだ。コードネームはダイスが他の人と会って話をしているときに、偶然聞こえたのだった。

 暗号の方に戻ると、海鷲ゼーアドラーがダイスのこととするなら、クワルク・クリームに何か別の意味が隠されているのだろう。でも、他に何も手がかりはない。

 紙を透かして見ても何も変なところはない。紙がどこの会社で作られたかわかるなら、何か手がかりになるかもしれないけれど、それもない。

 ただ、紙の大きさが少し変だった。普通の大きさの紙より、縦の長さが短い。紙の端の方に何か書いてあったのを切り落としたのかもしれない。だから手がかりがなくなってしまったのだろう。ただ、それでわかるのはどこから差し出されたかというくらいで、暗号を解く手がかりにはなりそうもない。

 "Quark Rahm"を並べ替えたら何か別の単語が現れるだろうか? その場合、 "plunderte"はどう考えたらいいだろう。これも何か意味があるはずなのに。あるいは全部の文字を並べ替えて別の文章を作る……とてもできそうにない。

 夕食まで抜いて考えたのに、解けないうちにダイスがホテルへ戻ってきた。

「わからなかったのか」

「ダイスにはわかるの?」

 エリーゼの見ている前で、ダイスはペンを取り出して、単語の文字の上に印を四つ付けた。それを見てもエリーゼは何もわからなかった。

「宿を引き払ってこい。すぐに出発する」

「どこへ?」

「そこだ」

 もちろん便箋に書かれていることを指しているのだが、エリーゼにはまだ意味がわからなかった。"Ein"と"die"以外の四つの単語の先頭、"S"、"p"、"Q"、"R"に印が付いているだけだ。これでは単語にならない。あるいは"SpQR"が何かの言葉の頭字語なのだろうか……

 とにかく、大急ぎで宿に戻り、引き払って、ホテルへ行った。いつもならそこから駅へ行くのだが、タクシーに乗ってどこかへ向かった。

 乗っている間に辞書を開いて調べた。"S.P.Q.R."として項があった。"Senatusセナートゥス Populusqueポプルスクェ Romanusローマーヌス"「ローマの元老院と人民」という意味だった。古代ローマの標語だが、現在のローマ市でもあちこちで使われているらしい。

「ローマへ行くの!?」

 エリーゼは驚いて叫んだ。ダイスはエリーゼの方を見もせずに呟いた。

「お前はパスポートを持ってなかったんだったな。向こうでは警官に捕まるなよ。いくらシェンゲン協定があっても、パスポート不携帯はまずいし、商用ビザも持ってないんだから」

 それより、イタリア語が全くできないのに、どうしたらいいのだろう? エリーゼはそちらの方が気になっていた。


(続く)

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