第3章 流浪の民

 ローマではドイツ語の本が手に入らなかった。しかたがないので、空港で買ったイタリア語会話の本と辞書で、エリーゼはひたすらイタリア語を覚えた。買い物とホテルでの会話くらいならそれで何とかなった。連絡のために人と会うことはほとんどないし、あってもドイツ語が通じた。

 その他は手紙でやりとりするばかりになった。手紙はドイツ語とイタリア語があったが、他の言語の手紙はダイスが自分で見ているようだった。つまり、イタリア語の学習をさせてくれているのだろう。

 イタリア国内を3ヶ月くらい、あちこちと移動して、ようやく会話に慣れてきたな、と思ったらフランスへ行くことになった。同じようにフランス語を学習しながら手紙を扱う。手紙は3ヶ国語に増えた。

 その後も数ヶ月単位でヨーロッパを転々とした。もちろん、シェンゲン協定の範囲だけだったが、ダイスの「得意先」が元々その中に含まれていたためかもしれない。

 1年を過ぎた頃から、ダイスの指示で、エリーゼは宝石の鑑別を習った。大きめの都市に行くと、ダイスが紹介してくれた宝石店か宝石職人が、親切に教えてくれるのだ。ダイアモンド、ルビー、サファイア、エメラルドの四つは何とか鑑別できるようになった。

 それから、錠前破りも同時並行で憶えた。世界的に主流のピンタンブラー錠と、コンビネーション・ダイヤル錠は開けられるようになった。

 そして、半年に1回くらいだけ「掏摸」の仕事をした。腕はあまり衰えていなかった。宝石鑑別や解錠と合わせると、泥棒の技術を鍛えられているみたいだったが、本当の泥棒をすることはなかった。ダイスは「いずれ役に立つ」と言うだけだった。

 イングランドには一度も行かなかったけれど、英語は憶えた。英語の手紙が来るようになったのと、困ったときにはそれが一番通じやすい言葉だったから。そのうちに、エリーゼもダイスの「顧客」とも会話できるようになった。


 3年ほどそういう生活を続けて、エリーゼは18歳になった。そして何度目かのローマへ来たときに、ダイスが言った。

「明日からお前を、他のパートナーと組ませる」

「どうして? 私、ダイスの役に立ってないの?」

 連絡係しかできないからだろうか。暗号の解読はほとんどできるようになったけれど、それだけでは足りないのか。

 そもそも、エリーゼは「センシング」の仕事は全くできない。ダイスがその仕事をしているところもほとんど見たことがない。何より本を読んで「学習」してきたことが、仕事にほとんど活かせていない。

「お前が役に立つようになったから、若い奴に譲ってやるんだよ」

「いやだよ、そんなの。ダイスと一緒がいい」

「そろそろお前は俺の仕事の手伝いじゃなくて、自分の仕事をした方がいい頃なんだ」

「仕事って?」

「それは新しいパートナーと相談しろ。いいようにしてくれる」

「ダイスはどうするの? 一人で仕事するの?」

「他に組むパートナーがいる」

 本当かどうかはわからない。けれど、ダイスがもう付いて来なくていいというのなら、それに従うしかない。今までだって、いつでもどこでもエリーゼのことを置き去りにすることができたのだから。「尾行」はできるようになっていたけれど、それがダイスに通用するかはわからない。跡をつけていたときは、いつでもバレていたから。

「ありがとう、ダイス。ここまで連れてきてくれて、本当にうれしかった」

 ダイスが本当の父だったらどんなによかったことか。本気でそう思っていたのに。でも、その父代わりのダイスが独り立ちしろと言ってるのだから、従わなければならない。

「心配するな。そのうちどこかで会うこともある。明朝、宿を引き払って、9時にフィウミチーノ空港へ行け。相手はそこで待っている」

「名前は? それに、顔も知らないんだけど」

「相手がお前のことを知っている」

 そんなこと、あるのだろうか。あるいは、今までに連絡員としてどこかで会ったことがあるのかもしれない。行けばわかると信じるしかなかった。ダイスが嘘をついたことは一度もなかったから。

 鉄道で行くように言われたので、翌日、そのとおりにして、空港駅で降りて、それらしい人を探してうろうろと歩いた。すると突然後ろから声をかけられた。

「リースヒェン・ミュラーだな」

 全く気配もせずに後ろから近付かれたので、エリーゼは飛び上がるほど驚いた。振り返るとアジア人の……日本人の少年が立っていた。ダイスよりも冷たい目をしていた。身長はエリーゼよりも少し高かったが、やせていてひ弱そうだった。それに、年下に見える。

「そうだけど、あんた誰?」

「後で言う。付いて来い」

 少年は名前も言わずに、振り返って歩き始めた。きっと、新しいパートナーとの仲介役だ。会う場所へ連れて行ってくれるのだろう。そう思っていたのに、連れて行かれたのは欧州線のチェックイン・カウンターだった。

 チケットを渡されて、チェックインするように少年が言った。行き先はシュトゥットガルト!

「まさか、父のところへ連れて帰ろうって言うんじゃないでしょうね」

「そんなことはしない。君のパスポートを作るための一時帰国だ」

「パスポート……」

 作りたいと何度も思っていたのに、18歳未満は親権者の同意が必要だったので作れなかった。しかし、もう18歳になったのだ。一人で作ることができる!

 パスポートを持っていれば、外国で警官の目を気にすることもなくなるし、仕事がやりやすくなるだろう。それにどこの国だって行けるようになる。

「……でも、パスポートを取ってどこへ行くの?」

「それは後で話す」

 その「後」がいつかよくわからない。手続きをした後、飛行機に乗るまでも、飛行機に乗ってからも、少年は一言も話さない。本を読んだり、手紙を読んだり、手紙を書いたりしてばかりだ。次に口を開いたのは、シュトゥットガルト空港に着いたときだった。

「パスポートを取ったら、この住所へ来い」

 そして名刺を渡された。ロンドンの住所と「Akira WATARI」の名前が入っていた。ワタリはダイスと同じ名字だから、きっと彼の弟に違いない。

「この人が私の新しいパートナー?」

「まだわからない」

「どういう意味?」

「君の能力次第だ」

「……試験でもするのかしら」

「とにかくそこへ来い」

 少年は行ってしまった。彼が一体何者なのか、結局、わからなかった。

 シュトゥットガルトの役所へ行って、出生証明書を取得して、パスポートを申請した。普通なら2週間かかると言われたので、追加料金を払ってエクスプレス手続きにして、3日に縮めた。

 ビザも申請して、待つ間に身なりを整えて、服も見栄えがいいのを買いそろえた。新しいパートナーと付き合うには、第一印象が大事だからだ! 英語を学習しなおす時間はなかったが、現地で何とかするしかない。

 パスポートが取れたらすぐにロンドンへ飛んだ。ヒースロー空港に到着。初めてのイングランドだった。

 指定された住所はウェスト・エンドのブルームズベリー。大英博物館に近い共同住宅フラットだった。古くて見かけはあまりよくない。その3階セカンド・フロアに行って、ドアをノックした。用意してきた挨拶の言葉を思い出しながら待っていたら、ドアが開いて……あの少年が出てきた。

「君の部屋は4階サード・フロアだ」

 少年が言った。挨拶をする暇もなく、呆気に取られていると、少年は階段を上がっていった。慌てて付いていく。少年の後から4階のドアをくぐると、中は予想以上に豪華な内装だった。ダイスが泊まっているホテル――いつもだいたい星三つ――の部屋に何度か入れてもらったことがあるが、それと同じくらいだ。

 部屋自体は狭いけれど、リヴィングルームとベッドルームに分かれていた。もちろん、キッチンもある。

「事務所は2階ファースト・フロアの部屋を使う」

 リヴィングルームのソファーに座ると、少年が言った。最初に会った時はドイツ語だったが、今は綺麗なクイーンズ・イングリッシュだった。そういえばまだこの少年と挨拶も交わしていないし名前も知らない。それにアキラはどこにいるのだろう。

「事務所って何?」

 しかたなく英語で返事をした。これくらいの会話ならできる。

「君がする調査業の事務所だ」

「何をするかまだ聞いてないんだけど」

「すぐにわかる。それと、知っていると思うが、SIAは機能していないから、ライセンスは必要ない」

「あなたが何を言ってるかわからないわ」

「君の名刺と携帯電話を用意しておいた」

 少年はどうやらエリーゼの話を聞く気がないようだ。しかし、なぜか言い返せない。何となくだが、彼はこっちをおとなしく従わせる雰囲気を持っている。少年のくせに。

「名刺は"Elise Miller"としている。"Lieschenリースヒェン"はこちらの人は発音しにくいから、本名の"Elise"にした。"Miller"は誤植じゃない。明らかにドイツ系とわかる名前は、印象があまりよくないんだ。我慢するのは最初のうちだけでいい。実績ができたら君の名乗りたい名前にすればいい」

 呼ばれ方は別にこだわらない。名前は「エリス」と呼ばれても気にしないくらいだ。名字はもう何年も「ミュラー」を使ったことがない。それに、MillerとMüllerが同じ語源だということも知っている。

 携帯電話を持たせてもらえるのはありがたかった。今までは欲しくても契約すらできなかったから。

「名前のことはどうでもいいから、私は何をするの?」

「君は何ができる?」

 会話になっていない。この少年は話が通じないのだろうか。

「ミスター・アキラ・ワタリはどこにいるの? 私、彼に会いに来たんだけど」

「君の目の前にいる。僕がアキラ・ワタリだ。もう一度訊く。君は何ができる?」

 冷たい目の少年が冷たく言った。


(続く)

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