第6話 カード署名の謎
第1章 筆跡鑑定(科捜研) (前編)
業務は法医学、化学、物理学、文書、心理学の五つの部門に分かれている。法医学は血液や唾液、毛髪などからのDNA鑑定。また、血痕を調べるためのルミノール反応検査も行う。化学は覚醒剤や大麻などの薬物の鑑定、有毒ガスや繊維や油類の化学的鑑定を担当する。物理学は画像や音声の解析、発砲・火災・交通事故の再現試験、機械や電子機器の解析など。文書は筆跡鑑定や不明文字の判読、パスポートや紙幣の真贋鑑定。心理学ではポリグラフによる虚偽判定や、プロファイリングなどの犯罪心理を研究している。
科捜研は警察本部の下部組織なのだが、必ずしも警察本部の建物内にあるとは限らない。大阪府警の場合、中央区にある東警察署の中にある。なお、なぜ中央区にあるのに東警察署なのかというと、そこが元々東区だった名残で、隣の南区(そこには南警察署がある)と合併して中央区になっても名称変更をしなかったためだ。
その大阪府警察科捜研・文書担当の
科捜研に筆跡鑑定が持ち込まれることは、実はそれほど多くない。現代では書類や手紙を手書きすることが減ったのも関係しているかもしれない。それに筆跡は刑事事件よりも民事事件で問題になることの方が多い。遺産や権利書の類いが絡むからだ。
刑事事件で筆跡鑑定といえば「清水局事件」という有名な冤罪事件がある。筆跡鑑定の結果が間違っていたために(しかも4回鑑定して4回とも間違いだったために)被疑者が無実の罪に問われたわけだが、被疑者がなんと自力で真犯人を探し出し、事件を解決に導き、無罪を勝ち得たという希有な事例でもある。
それはともかく、佐和子は鑑定を始めた。比較対象はクレジットカードの裏面のサイン、そして本人に依頼して新たに書いてもらったサイン。後者は四つある。サインといっても時と場合により筆跡は変動するので、その変動の幅を見るためだ。個人内変動という。まず1枚目はゆっくり書き、2枚目と3枚目は早く書き、4枚目をまたゆっくり書き……とすることが多い。カード裏のサインは、どうやら早く書いた時に近いようだ。それに、スリップのサインも。
カード裏のサインというのは、草書のように崩した字を書く人もいれば、楷書に近い人もいる。中には外国で通用しやすいようにローマ字、しかも外国人のサイン風に書く人もいる。本人であることが確認できればよいので、字体は何だって構わないのだ。今回の場合は行書に近いものだったが、書道で習う「正しい崩し方」ではなく、独自の崩し方のようだ。
さて、筆跡鑑定。文字の鑑定というと、普通は字画の特徴、例えば「払い方」「
要するに、ほんの僅かに違うというだけでは「個人内変動」の可能性がある。そうではない「特徴的なポイント」を見つけ出さなければならない。例えば「十字を書く時の縦画の上部が極端に長い/短い」「左払いに比べて右払いが極端に長い/短い」「横画が極端に右上がり」「文字全体が縦長になりがち/横長になりがち」「撥ねるべきところを撥ねない、またはその逆」「字画を続けて書くときのつなげ方」など。
そしてもう一つ、「字画でないところ」にも特徴が現れる。それは「字画の隙間」だ。例えば「偏と旁の間が標準より広い/狭い」「列火(灬)の3点目と4点目が極端に離れる」「文字の間に余裕を持たせる/持たせない」など。
つまり、字画の形だけにこだわって全体的なバランスを見失う、いわゆる「木を見て森を見ず」にならないようにしないといけない。
なお、「後で書き足した」とか「筆順が違う」とかは科学的な筆圧鑑定により調べることもできる。しかし、それは肉筆のみに可能なことであって、コピーではできない(正確には、できないこともないがとても困難)。科学鑑定に頼らなくても、鑑定できるようにならねばならない……というのが佐和子の信条だった。
そういう知識をフルに動員した結果、「サインは本人のものである可能性が高い」という結果を得た。どんなに確信があっても断定はせず、「可能性が高い」にとどめるのが通例だ。ただし、確率を訊かれたら「90%」と答える用意があった。
報告書を作り終わった次の日に、依頼者である臨海署の刑事が来て結果を聞いたが、不満そうな顔をしていた。本人の筆跡でないなら不満、というのはよくある。しかし逆に、本人の筆跡である方が不満、というのもよくあることなので、佐和子は気にしない。
「絶対偽筆やと思っててんけど」
要するに、そういうことだろう。事件の内容が科捜研に事細かに伝えられることはないが、おそらくはこのサインが
「鑑定したんは佐和子さん?」
「そうですよ」
アグチという名字の技官がもう一人いる(字は違う)ので、中の人も外の人もみんな佐和子を名前で呼ぶ。去年までは「佐和子ちゃん」と呼ぶ人も多かったが、28歳になった途端になぜか「佐和子さん」の方が多数派になってしまった。アラサーを感じる。
「他の人にも鑑定してもらってくれへん?」
「意味ないですし、結果は同じです」
「そやけど、こんなに筆跡が違うのに」
「個人内変動です。レポートに特徴点を全部書いてますから読んでください。一致するとこいっぱいあります。確率90%です」
聞かれてないのに確率を言ってしまった。
「サンプルがようなかったんかなあ」
「一致しないんやったらそうかもしれませんけど、一致する可能性が高いんやったらサンプルは悪くないです」
ただ、少し気になることはあった。スリップのサインは、新たに書いてもらったサインよりも、カード裏のサインによく似ていた。カード裏のサインはだいぶ前に書いたものなので、スリップは新たなサインの方に近い方が自然だ。筆跡は時と共に少しずつ変わるものだから。
しかし、スリップの方はほぼ無意識で書くサインだが、新たに書くときは「証拠品になる」という意識が働く。そうすると普段と若干違ってしまうこともあるだろう。だから、仕事で書類に書いたサインなどの方がいいのだが……
「他にもサンプル探したんやけど、仕事はパソコンばっかりで、自筆で名前書くなんてめったにないんやて。仕事ので一番古いんは2年前やろうて言いよんねん。ほんで、次に会社で自筆でサインすんのは、たぶん退職金もらう時の書類やて言うとったわ」
そんなんどうでもええやん、と思いながら佐和子は聞いていた。望みの鑑定が出えへんかったからって、帰り際にありがとうて言わへんかったら承知せえへん。
「この結果、無視しようかな」
「あきませんよ、そんなん。証拠隠滅です」
「そうは言うても、筆跡鑑定の結果って、裁判所はあんまり参考にせえへんらしいし」
腹は立つけれども確かにそのとおりで、日本の裁判では筆跡鑑定の結果をあまり重要視しないらしい。筆跡の模写は、巧妙にやればできると信じられているからだろう。それに「鑑定が十分に科学的でない」と思われているせいもあるだろうし、鑑定書の記載が説得力に欠ける場合があるのも確かだ。中には明らかに違う筆跡を、意図的に「同一」と鑑定して、
「違うサンプル持って来たら、
「しますよ。何べんでも」
「それとも、他に頼もうかな」
「どうぞご自由に」
別に、鑑定を科捜研に嘱託することは必須でない。外部機関へ依頼するのもたまにあることだし、大阪市内には少なくとも3、4ヶ所、筆跡鑑定を行っているところがあって、「○○鑑定研究所」や「△△鑑定センター」を名乗っている。ただし、依頼料が高い。通常は1件数十万円。そして詳細な鑑定書を作ってもらうと時間がかかる。1、2週間はざらで、1ヶ月かかることも。それでも頼むというのなら、別に止めるつもりはない。警察が金と時間をかけて、自らが作った科捜研の評判を貶めるつもりか、と言いたくなるが、だからといって鑑定結果は曲げられない。
「まあ、他の証拠も探して、もしそれと矛盾するようやったら、別のサンプル持って、
刑事は意外にも礼を言って去って行った。でも、もう一度来ることはまずないだろうなと佐和子は思った。
さて、次の仕事をしよう。といっても、今は依頼人が来て説明のために中断していただけで、やっていた作業の途中だ。その後でやることもいっぱいある。印刷物の鑑定、印影の鑑定、文章の特徴識別など。これらはコンピューターで判別する技術が進んでいる。それに比べて筆跡鑑定は当分の間、コンピューター任せにはできそうにないのが難点だ……
(続く)
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