ナスヲさん

ロックウェル・イワイ

第1話 日常……

「あなた、時間よー、起きてー」

 妻のキノコの声が遠くの方から聞こえてくる。

「うーん」と言って、寝返りを打ちながらナスヲが隣の布団を見ると、既に息子のニラオの姿はなかった。

 枕元に置いておいた眼鏡をかけ、ひとつ欠伸をしてからナスヲは起きた。


 寝室から廊下に出て、突き当たりのトイレに向かう。

 ノックをすると、「入ってまーす」と義妹のワラビの声。

 やはり、先客がいた。そもそも7人家族でトイレが一ヵ所ということに無理があるのだ。


 仕方なく洗面台に向かう。しかし、ここにも先客がいた。

「先、使ってもわーす」と歯磨きをしながら鏡越しにこっちを見てくる。義弟のトマトだ。

「いいよ、ゆっくりで」

 そう言って、いつも通り、寝室に戻ることにした。


 部屋に入ると当然の如く、布団が三組敷かれたままである。

 パンパンに膨れあがった膀胱に四苦八苦しながらなんとかそれを押し入れに片付けた。

 それからスラックスとワイシャツに着替え、もう一度トイレに向かう。


 ノックをすると、「入ってまーす」と、今度は義弟の声。


 くそ! やっぱりか。


 踵を返し、洗面台に向かう。

「先、使ってもわーす」と義妹のワラビが歯磨きをしながら鏡越しにこっちを見てくる。


 だめだ! 限界だ。


 急いで浴室に向かう。


 引戸を開け、洗い場の排水口の蓋を剥がし、スラックスとパンツを一緒に下ろして放尿する。

「ふぇーっ……」

 肛門が弛むほど脱力していると、「あなたーっ!!」と妻が勢いよく引戸を開け、俺を睨み付けてきた。


「また、そんなところでオシッコして! 子ども達になんて言われてるのかわかってんの?」

「ごめんよ、キノコ。でも、仕方ないんだよ」

 

 そう言いながらも止めきれずに尿は出続けている。


「全く! 早く済まして、ご飯食べちゃってね」と言い放ち、ピシャッ、と妻は引戸を閉めて去って行った。


 若干の腹立たしさは残ったが、膀胱の方はスッキリしたので、いつもの通り、浴室で洗面と歯磨きを始めた。


 最初からここで済ませばよいのだろうが、ナスヲのちっちゃな自尊心がそれを許さなかった。


 見ようによってはホテルのユニットバスに思えなくもないが、大便だけは無理だろう。

 ひげまで剃ってサッパリしたところで、三度みたび、寝室に戻り、スラックスとワイシャツに着替えた。


 その後、廊下をつたい、居間へ行くと、先客が朝刊を読んでいた。義父の耕作だ。


「お義父さん、おはようございます。」

「ああ、ナスヲ君、おはよう」


 いつ見ても禿げ頭の頭頂に一本だけ毛髪が残っている。それを抜くでもなく、わざわざドライヤーで立たせている様は滑稽を通り越して、家族からすれば噴飯ものである。しかし、生来の頑固者のため誰もこの件についてたしなめる者はいなかった。


「パパ、おはようございますでちゅ」

 息子のニラオが入ってきた。

「ニラちゃん、おはよう。何してたんだい?」

「ママのお料理のお手伝いでちゅ」

「へえ、いつも偉いねえ」

「はいでちゅー」


 すっかり息子にまで俺の婿丁寧語が伝染ってしまった。

 そもそも「おはようございます」が言えて、その後の「です」が何故「でちゅ」になるのかがわからん。


「お義兄さん、おはよう」

 先ほど俺をの邪魔をした義弟と義妹が同時に入ってきた。


 坊主頭の義弟は兎も角、義妹はいつもスカートからパンツが半分はみ出ている。小学生とは言え、何故、頑固者の義父も注意しないのか疑問だ。


「ナスヲさん、おはようございます」

 料理を運びながら義母のイネが台所からやってきた。

「お義母さん、おはようございます」

 いつも和服を着ているが、着付けを習っていると聞いたこともなければ自分で着ているところも見たこともない。

 これも我が家の不思議のひとつである。義父の給料も和服を買い与えるほどは高くはないはずである。


「みんな揃ったわね」

 最後にキノコがやってきた。

「いただきまーす」

 やっと朝食にありつける。

「あなた」

「なんだい」

「わたし、今日、美容院へ行ってきますから」

「ああ、行っといで」

 て、言うか、そもそもお前の髪形は何なんだ。頭の上に3枚、両耳の後ろに3枚ずつ葉っぱが付いたような髪形。

 何て言って美容師で切って貰っているんだ?

 寝てる時も風呂上がりも乱れていないのは立派だが。


 朝食を終え、寝室に戻って上着を羽織ってネクタイを絞めた。

 ローカに出るとペット兎のぴょんがまとわりついてきた。

 何で名前が野菜や作物だらけの家で、それを餌にしているウサギを飼っているのか未だにわからない。


 玄関に出ると義父の耕作が待っていた。

「ナスヲ君、駅まで一緒に行こうか」

「はい。よろしくお願いします」

 行こうかじゃなくて、行ってくださいだろ!


 駅までの時間は徒歩で10分ほどだ。

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