第30話 Butterfly Effect
雨が強く降っていた。
傘立てから確かめもせずにビニール傘を一本引っ掴んで差した。
骨が一本曲がっていて、やっぱりわたしのじゃなかったと思う。
洵からもママからもまだ連絡は来ない。
けど、それも時間の問題だ。気付かないわけがないのだから。
先手を打ってママだけにLINEを送る。
“ちょっとコンビニ行ってくる。すぐ戻るから”
既読は付かない。
すぐにiPhoneの電源を切った。深呼吸をする。
……また、わたしは逃亡者になった。
何度も来ているのに初めて気付く。さいたま水上公園は、全然水上ではない。プールがあるだけ。掲示板を見ると、七月十五日オープンと書いてある。
フェンスの隙間から覗くと、既に準備しているのか、それとも溜まるがままに任せているのか、広い水面を雨粒がひっきりなしに叩いていた。欠けた葉っぱやちぎれた草が浮いていて汚い。四月までは釣り堀だったらしい。ますます泳ぐ気が失せる。……なんて。泳ぐのだって、わたしは苦手だ。
陸の上も、水の中も。氷上以外の場所に、得意なことなんか一つも無かった。
スケートをやめて、どうやって生きていけばいいんだろう。
何を生きればいいんだろう。
流れを失った氷上に、乗り換え先の円は無い。
止まれば、ヒレは朽ちていく。
――去年はリトル・マーメイドだったでしょう。だから今年は少し大人っぽいものをね。
そう言って先生が差し出したのが、バタフライ・エフェクトのDVDだった。
どアップの俳優の瞳に蝶が映っている。
「幼なじみを救うためにタイムスリップを繰り返す物語なの。汐音ちゃんが気に入るといいんだけど」
わたしは特に興味が無かった。リトル・マーメイドも見ている途中で寝ちゃったし。映画も音楽もすぐに眠くなる。美優先生の振り付けは流れに逆らわないから滑りやすい。
「いいです、わたしは何でも」
人魚姫も蝶も。凍結して標本にするだけ。
先生は目を見開き、しばらく無言でわたしを見つめた。一つ瞬きをするたび、瞳の色が冷めていく。やがて、分かったわ、と乾いた声で言った。
「……本当に世界に興味が無いのね」
椅子をくるりと回しながら呟いた声を、わたしは聞き逃さなかった。
帰りの車でCDを聞いた。流れ出すなり、あらオアシス、とママは言った。
「いいじゃん」
腕組みをした洵が指でリズムを取る。首を揺らし、口角は上がっていた。妙に浮ついた雰囲気。
「えー、そう?」
わたしは窓の外に目を遣りながら、フードの紐を指に巻き付けたり解いたりを繰り返していた。退屈だった。
「……お前って、心とかあんの」
眉をひそめ、洵がわたしを見た。
その瞳から瞬いていた光が消える。夜の光と光の狭間の影に、わたしたちの車は滑り込んでいた。
「は? いや、あるでしょ心くらい」
再び車が発進する。洵はそっぽを向いた。
ずっと英語の歌詞が暗い空間を浮遊していた。言葉ではなく、音楽そのものがわたしの網目をすり抜けていくのだった。
雨粒の波紋が広がっては重なり、薄まっては消える。その輪郭の一つに、薄青の蝶が不時着するのを幻視した。
映画の中。主人公の脳裏で羽ばたきを繰り返していたデジタルな蝶。
透けるような羽根が、ひび割れた氷のようにも見えた。
洵の絵に似ていた。
世界に興味が無いのね。
心とかあんの。
空っぽの心で、わたしは今分身というもう一つの世界を運んでいるのだ。
洵のスケート靴。濡れないように、ずっと傘を後ろへ傾けている。
雨が強くて、もうスニーカーの爪先が濡れ始めていた。水たまりを避けながら、慎重に歩いていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます