第17話 お前の世界

「今季のプログラムの件、候補を持ってきたか」

「はい」


 俺は「レベッカ」のサントラを岩瀬先生に差し出した。

 だが先生は一瞥いちべつしただけで、だめだ、と言った。


「昨シーズンと作曲家が同じだ。ジュニアのうちから色を固定してどうする。引き出しを増やせ。今は、そういう時期だ」

 俺はうつむいて黙り込む。

 そんなことは初めて言われた。


「……朝霞あさか先生ならOKしてくれるのに、って思ったか?」

 降ってきた冷淡な声に、視線を上げる。

 思っていない。


 それでも俺の目が反抗的な色を帯びていたのだろう、岩瀬先生は口元をわずかに上げてシニカルに笑った。


「まあ、OKするだろうな、あの人なら。……それにしたって、風と共に去りぬ、カルメン、エリザベートと来て、レベッカとはね」

 笑みは消え、目の色が冷たく切り替わる。


「お前、主役を演じる気が無いな。なぜだ?」

「……人物ではなく、世界観を演じる。そういう表現を目指しているので」

「それも朝霞先生の受け売りだな」


 にべもなく切り捨てられた。

 図星だ。

 俺が希望した作品を、朝霞先生は否定したことがない。


「女性が主人公の作品でも、世界観そのものを演じることは可能よ」

 その言葉に、俺は共感した。

 魂が共鳴したと言ってもいい。


 ……だが、今思えば、あれは共犯意識だったのかもしれない。

 不在の主人公を依り代とした錬金術。

 影による光のあぶり出し。


「はっきり言おうか。俺には少なくとも過去三年間のプログラム全て、お前は妹の代わりに滑っているとしか思えない。……こんなの、病的だよ。お前も、朝霞先生も」


「あなたに、何が分かるんですか」

 真正面からにらみ付けて、俺は言った。


 あなたに、俺達の何が。


 2013年11月24日。

 俺が十一歳になり、なると同時に汐音しおんが死んだ日。

 昨日のようだと言えば、それも病的と揶揄やゆされるか。

 だが、あの日から俺の時計は一歩も前に進んでいない。


 岩瀬先生は少し表情を緩め、溜息をついた。

「まあ、分かるとは言わないよ。……だがな」

 岩瀬先生は、改めて俺に向き直る。

 冷徹な目をしていた。俺の芯を見透かすような。


「世界ジュニアの表彰台に上がったからと言って、何かを成し遂げたような気になるなよ。お前の本質は何も変わっていない。昔も今も、お前は妹の影のまま。……本当は、まだ生まれてもいないんだ」


『もう一度、生まれなくちゃいけないからな』

 トーマの台詞がフラッシュバックした。


 吐き気がする。

 どいつもこいつも、言葉遊びが好きだな。

 俺は歪んだ唇をこじ開けた。


「なら、俺はずっと死んだままでいい」

 背を向け、指導室のドアを乱暴に閉めた。


『馬鹿アニキ! 死んだままでいいだなんて、ほんっと馬鹿!』

 ヒステリックな声が脳に響く。

 そうだな、と俺は深く息を吐く。


 俺は生きている。光を失った世界で。

 ……ここは、お前の世界だ。

 少なくとも、お前が生きるべき世界だった。


 だから今でも鬱陶しいくらい俺の前を飛び回るんだろ?


『……』


 返事は無い。

 肝心な時に限って、こいつは黙る。


 誰よりも言葉遊びをしているのは、俺だ。

 岩瀬先生は正しい。

 俺自身が、光にならなくてはいけない。

 その時初めて、俺は本当に生まれたことになるのだろう。

 気付いているのに、受け入れられないのはなぜだ? 

 俺はなぜスケートをやっている? 


 ……一番大切な問いに、答えられない。

 やはり俺は空っぽだ。


 体内のほらにこだますように、胸の傷が痛み出した。

 これ以上目を逸らしてはだめだ。

 目を逸らしたままでは、痛みは恐怖へと姿を変える。


 痛いのと怖いのは違う。

 あの日、俺は、朝霞先生にそう言ったじゃないか。


 何度転んだって、怖くなかった。

 やっとつかんだスケートの手綱たづなを手放すこと。

 ……ただそれだけが、怖かったんだ。


 俺は、絶対に間違えないぞ。


 前橋に行かなくては。

 俺達のホーム。

 

 そして、朝霞先生とちゃんと話をする。

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