第2話 六練の悪夢、氷上の魔

 話は三月までさかのぼる。


 エストニアはタリンで行われた、世界ジュニア選手権。


 最終グループ、演技直前の六分間練習。

 第一滑走の俺にとっては、ウォームアップよりコンセントレーションの意味合いが強い時間だった。


 左足の違和感は、昨日のショートの好感触で上書きされていた。

 だが、世界ジュニアともなると漂う緊張感が違う。


「絶対にノーミスしたい」

 昨夜、朝霞あさか先生に送ったメールが頭をぎる。


 大見得おおみえを切りすぎたか? 

 ……そんなことは無い。

 あれは俺の本心だ。

 遠い空の下、どんなに小さくても手元に届いてほしい、真心の欠片かけら


『どうして美優みゆ先生はいないの?』

 鈴のような声が耳をくすぐる。

 ……仕事があるって言ってただろ。


『世界ジュニアのキスクラより大事な仕事なんてある?』

 ……黙れよ。

 思わず、声に出して呟いた。


 氷の感触を確かめ、トリプルアクセルの流れを確認する。

 音楽を脳内で再生しながらステップを踏み、助走に入る。

 助走は長すぎても短すぎてもいけない。

 ジャンプにはベストタイミングの瞬間が雲間からわずかに光が差すように現れる。

 それを逃さずつかむこと。

 そして、絶対に失敗しないという覚悟。


『トリプルアクセルは、神様からの贈り物なの』

 ああ、分かってるよ。

 なら、最高の出来栄できばえで捧げなくちゃな。


 前を向き、踏み切りの体勢に入ろうとした、その時だった。


「君がたずさえている空白は、本当は君自身の中にあるんだよ」


 不気味なほどつややかな男の声がして、目の前に金色のモヤが現れた。

 驚く暇も無く、それはたちまち螺旋らせんを形作ると、俺の左胸目がけて集まり、体当たりしたかと思うとパッと消えた。

 と同時に、胸の傷が内側からえぐられるように痛み出し、思わず俺はうめき声を上げた。

 ぐらりと背骨が揺れる。

 俺は踏み切りのタイミングをいっし、ジャンプはパンクした。


「……驚いた。想像していたよりずっと広い。君はまるで空っぽだな」

 着氷すらやっとの俺を、声はわらう。


 次の瞬間、俺の足は乗っ取られたようにぬるぬると氷上を進み始めた。

 コンビネーションスピンに入るはずが、そのまま勝手にステップを踏んでいく。

 エッジが氷を掴む感触は、まるで羽根が生えたように軽やかで、大地を踏みしめて歩くよりもずっと自由だと錯覚しそうだった。


 だが、俺の身体に一本通った芯が、「違う」と叫んでいた。


 傷は次第に痛みから熱へと姿を変え、どくんどくんと波打っている。

 まるで心臓の上にもう一つ小心臓を植え付けられたみたいだった。

 ……気持ちが悪い。

 こんなのは、俺じゃない。


 歯を食いしばり、足にありったけの力を入れて身体をフェンスへと誘導する。

 リンクサイドに岩瀬先生の姿が見え、俺は必死にブレーキを掛けた。


 気付けば、他の選手の怪訝けげんな視線が突き刺さっていた。

 だが平静を装う余裕は無く、手すりを掴んで立っているのが精一杯だ。

 全身にまとわりつくような嫌な汗をかいていた。


「どうした。……顔色が悪いな」

 岩瀬先生が駆け寄ってきた。


「大丈夫です、少し雰囲気に飲まれて……」

 荒い呼吸の中、言葉を発すると、埃のように金色の粒子が体外へと放出された。

 途端に傷のうずきは治まり、声の主の気配は消えた。


 顔を上げると、先生の目が眼鏡越しに鋭く光っていた。

 さっきより密度が薄くなった金色のモヤが、入口を探すように俺の回りを浮遊している。

 先生は視線をゆっくりと左右に動かして、ふむ、と一息置くと、いたって真面目な顔で言った。


「気をつけろ。氷上には魔が潜んでいるからな」

「魔……?」

 先生は頷くと、矢継ぎ早に続けた。


「比喩や誇張ではないよ。お前が見た通り、経験した通り。それが事実だ。……その様子だと、今回が初めてか。無理もない、誰もが経験するものではないからな」


「……先生には、経験があるんですか?」

「ああ。何度もある」


 六分間練習終了のアナウンスが流れ、俺以外の選手は続々とリンクを引き揚げ始めた。

 先生は小さく舌打ちした。

「もう時間か。本番中に遭うよりかはマシだったと考えよう」


 そして一層眼光を鋭くしたかと思うと、俺の背後の氷面をにらみ付け、

「アルジズ」

 と呟いてぱちんと指を鳴らした。


 ささやくようなその声はなぜか俺の脳に直接響き、瞬間、爪先から頭頂まで静電気のような感覚が走り抜け、モヤは弾けて霧散むさんした。


 俺は目を見張った。

 岩瀬先生はニヤリと笑う。


「ほう。効いたか。……俺とお前の縁もあながち即席では無いらしい」

「今のは……?」

 戸惑う俺に、岩瀬先生は片眉を上げる。


「ほんのまじないだ。だが、お前の演技をフルでカバーできる保証は無い。新しい戦場での闘い方を教えてやる。……心の奥、中心点から目を逸らすな。お前の人間性を、証明しろ」


 俺は訳も分からないまま、吸い寄せられるようにこくりと頷いていた。


 この時の岩瀬先生は、妙だった。

 いつもの冷徹な口ぶりのまま魔訶不思議なことを口にする。

 そのアンバランスさに、俺は今まで感じたことのない強い磁力を感じた。


 初めて一対一の人間として、ぴんと張った糸で繋がったという感触があった。

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