第22話 スプリンターの矜持

 大会二日目。


 気温、3.5℃。

 風向、南東。

 風速2.6m。

 風が吹いていた。

 そして、太陽が眩しいほど空は晴れていた。


 朝イチの男子1000m予選で事件は起こった。

 シバちゃんが自己ベストを更新し、1分22秒29でトップに躍り出たのだ。

 文句なしで決勝進出のタイムだった。


「芝浦って500m専門じゃなかったのか?1000mもなまら速いべや」

「予選でこれなら、決勝で全国キメるかもしれんわ」

「昨日の失格で逆に吹っ切れたんだろうな」


 ……会場全体が、ざわついていた。

 僕はウォームアップレーンから、シバちゃんとエイちゃんがハイタッチをするのを見ていた。

 濱田先生も満面の笑みだった。


 シバちゃんの復活は心底嬉しい。

 けど同時に、僕は激しく動揺していた。


 一秒。

 せっかく縮めた差が、また開いた。

 たった一秒。

 切っ先が、僕の喉元に突きつけられる。


「七組の選手は、待機エリアへ向かって下さい」

 コールが流れる。

 僕は不安を振り払うために首を大きく振り、滑り出した。


 ここまで来たら、できることをやるしかない。

 全てを1000mに賭けると僕は決めたんだ。

 これだけが、僕とスピードスケートを繋ぐ手綱。

 これを手放したら、僕はスケートを失う。

 なぜだか分からないけれど、そんな直感が胸の中で光っていた。


「……白、柏林はくりん中、荻島雷おぎしまらい


 プレスタートラインに立った僕の名前がアナウンスされる。

 軽く手を挙げる。


「お兄ちゃん頑張ってー!」

 甲高い声が聞こえた。

 声の元を視線で辿ると、前方のリンクサイドにお母さんと弟、それに音更おとふけのおじいちゃんとおばあちゃんが見えた。

 みんな来てくれたんだ。


 僕は肩を大きく上げ下げして一度大きく息を吐き、身体の力を抜いた。


「Go to the Start」

「Ready」


 号砲が鳴るのと同時に、僕は氷を蹴った。

 内側は譲らない。インベタでコーナーに張り付く。


「オギけっぱれ!」

「オギちゃん行けー!」


 二人の声が聞こえた。僕は夢中で走った。

 スプリンターにとって、1000mは長く感じると言われる。

 でも、僕にとっては短い。


 まだ行ける。

 もっとパワーを。もっとスピードを。

 ……足りない。

 こんなんじゃ、全然足りない。

 もっと速くなりたい。

 それだけなんだ。

 それだけで始めたことなのに。それだけで続けてきたはずなのに。

 いつの間にか僕は、色んなことが見えなくなっていた。

 気付くのに、こんなに時間が掛かってしまった。

 まだだ。

 僕はまだスケートをやめるわけにはいかないんだ。

 やっと掴んだ手綱を、離してたまるか。


 ゴールした。

 すぐに顔を上げ、電光掲示板を見る。

 僕の名前の横に1という数字が光った。


 1分23秒26。

 自己ベスト更新だ。


 ……けれど、やっぱり一秒か。

 シバちゃんに追いつくには、あと一秒足りない。

 でも、これで決勝に出られる。

 僕はサングラスを上げ、大きく息をついた。 

 

「オギちゃん。俺1000mで全道の決勝出るの初めてだ。苦手な種目なのに、楽しみで仕方ないや」

「お前さっきからニヤニヤしすぎ。マジでキモすぎる」


 エイちゃんに窘められても、シバちゃんはニヤニヤしっぱなしだった。

 昨日落ち込んでた分の反動かな。

 でも、その様子はここに来てから一番楽しそうに見えた。

 同時に少し震えてるようにも。

 これは、やっぱり武者震いってやつだろうか。

 ちょうど、僕の脚が疼いているのと同じように。


「……待てよ。ってことは、もしかして」

 急に濱田先生が手元のメモを確認し出した。


「やっぱり。明日、芝浦と荻島、同組になるぞ。お前ら、僅差だったからな」


 決勝は、下位から予選のタイムが近い者同士で組み合わされる。


「変えられるぞ、同一校同士の組み合わせは、申し出れば。どうする」


「やります。このまま、シバちゃんとやらせてください」

 考えるより先に、言葉が出ていた。


「……俺も。オギちゃんと同じ」

 ニヤついた笑顔が消え、目には鋭い光が宿っていた。

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