第21話 契約

 生徒達が全員帰ったリンクで、刀麻君だけがまだ名残惜しそうに滑っていた。

 静寂の中、何の曲なのか分からない下手くそな口笛と、鋭く硬質なスケーティングの音が響く。


 私はリンクサイドに立ちつくし、放心したまましばらくその様子を見ていた。

 何やら複雑なステップを踏んでいるけれど、その難しさを気にも留めない放縦さが、どこか汐音ちゃんを彷彿とさせた。

 たちまち胸が締め付けられた。


「……祈るなって言っても、祈るしかない時、あるでしょう?」


 情けない声が漏れていた。

 誰に向けた言葉でもなかったが、自然と氷の方へ届いてしまう。

 刀麻君はステップとターンを繰り返しながらちらと私を見て、ふっと笑った。


「似合ってなかった。それだけだよ。本当は闘いたいって顔に書いてある」

 

 心臓が強く鳴った。

 痛い所を突かれた私は、開き直って自嘲の笑みを浮かべた。

 ポケットの中で、両手を強く握りしめて。


「……ええ、そうよ。身体が動くなら、この年でも自分がリンクに立ちたいくらいよ。滑れなくなってもなお氷の世界にすがりつく、愚かな人種よ。悪い?」


 刀麻君は答えず、足は止まらない。

 私はその焦燥感をかき立てられる動きに苛立ちながら、堰を切ったように続けた。


「スケーターがなぜ氷の上に立つか分かる? 理由はただ一つ。とどのつまり、私たちは知りたいのよ。氷に選ばれるのは誰かってことを」


「……だったら」

 氷の入口に立つ私の前で唐突にブレーキを掛け、刀麻君は止まった。


「俺の手を取れ」 


 私は息を呑んだ。

 比喩ではなく、本当に手が私の方へと差し出されていた。

 覗き込む瞳には、確かに私が映っている。

 けれど、その目はもっと遠くを見据えているように見えた。

 固まったまま動けない私に、刀麻君は更に言葉を投げた。


「俺は生まれ変わらなきゃいけないんだ。旧い世界なんか足元で叩き割って、新しい世界を創る……そのための場所をずっと探してた。今日、ここにたどり着いた理由が分かったよ。これは、俺の運命なんだ」


 包帯の下の傷口が再び疼き出す。

 もう、痛いのか熱いのか分からない。

 運命。

 忌まわしい言葉を、彼はこんなにも蠱惑的に口にする。


「俺は刀。エッジは刃だ。……先生。勝ちたいなら、俺を使えよ」


 刀身のようにぎらりと両目に光が走った。


 突然、音楽が天啓のように鳴り響いた。

 どこから、と私は天を仰ぐ。


 ……これは、タンゴのリズム。

 ほんの一瞬、時間が止まったように思い、同時に私は気付いた。

 さっきから易々と踏んでいた、あの複雑なステップ。

 あれはアルゼンチンタンゴのパターンステップだ。

 忘れるはずがない。忘れられるわけがないのだ。

 だって、あれは私のデビューを飾るはずだった、あのシーズンのコンパルソリー課題。

 幻のまま終わってしまった、私のアイスダンス。

 コンパルソリーなんてとっくの昔に廃止されたのに、どうしてそんなものを年若いあなたが。

 でも、そんな問いはもはや意味を為さない。


 気付いたら私の指先は、足元のエッジカバーをするりと外していた。

 抜き身のブレードを氷に乗せ、震える手を伸ばす。

 待ちくたびれたと言わんばかりに、刀麻君は強く私の手を引き寄せた。


 視線が絡む。

 もう後戻りはできない。

 私達は滑り出した。

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