第19話 虚空の祈り

 ……まただ。

 また、私は負けるのか。


 いつもこうだ。

 私は、私を呑み込む大きな波に、私を凌駕する圧倒的な勾配に、私を霞ませる眩い光源に。

 私はいつも勝てない。

 会心の一撃を喰らわせられないまま、窮鼠猫を噛めないまま。

 その上、自分にまで負けるというのか。


 血みどろで汚物まみれの氷に膝を落とし、這いつくばり、額をつけて、問いかける。


 何がいけなかったの。

 一体私は、何を間違えたの。

 いつ、どこで、何を、どうして、どうして、どうして。

 ぐるぐる堂々巡りに巡って、答えは全ての始まりに戻る。


 それはすなわち、私が私であるということ。

 人が、運命と呼ぶもの。


 もはや私は、自分の立ち位置が分からなくなっていた。

 なぜこんな場所でこんな風にテレビを見ているのか。

 画面を見ている自分を、更に見下ろしている自分がいた。

 顔色は青ざめ、壁が無ければ倒れてしまいそうだった。

 足に力を入れても、地に足がついているという実感がわかない。

 室内は暖房が効いていて十分温かいはずなのに、私の肌はまるで氷上のように冷えていた。

 あべこべな感覚の中、目の焦点だけはかろうじて画面に合っていた。


 洵君はステップシークエンスを終え、最大の難所に差し掛かろうとしていた。

 演技後半、トリプルアクセル。


 洵君は、トリプルアクセルが不得意だ。

 今季に入って正式に取り入れるようになったものの、成功率は五割を切る。


 習得したてでプログラムに入れるのは時期尚早に思う、今はまだダブルアクセルで行った方がいい。

 私が提案すると、洵君は黒ダイヤのような瞳を向けて、こう言った。


「俺のトリプルアクセルは、汐音のトリプルアクセルです。だから、俺は絶対に逃げない」


 助走に入った。

 ……長い。

 タイミングをはかりすぎてる。

 背中から肩のラインも固い。


 失敗する。

 私は直感した。

 胸のざわめきが止まない。


 汐音ちゃん、見てるんでしょう。

 そこに、いるんでしょう。

 お願い、洵君を守って。


 震える両手は自然と胸元で組み合わさり、目蓋は今にも閉じようとしていた。


 その時だった。

 ぎり、と右手首が強い力で掴まれていた。


「祈るな」


 刀麻君は目で画面を捉えたまま、声だけを私に向けていた。

 石膏のように隆起した喉仏から発された声は、氷のように冷たかった。


 太く骨張った親指が、包帯越しに傷口に食い込んでいる。

 手首に心臓が移ったかと思うほど脈が速くなり、傷が熱を帯びて疼いた。

 痛い。

 私はたちまち我に返り、その手を強く振り払った。

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