第23話 Skater in the Dark


 国道にぶつかり、視界が開けた。

 薄闇の空の下、大型トラックが何台も通過する。

 烏川の遙か向こうに、山が影絵のように連なっている。


 晴彦は大理石のパネルに自転車を立てかけると、欄干を背に寄り掛かった。

 俺は柵に両腕を置いて身体をもたれるようにして川を覗き込んだ。

 緩やかで巨大な、黒い流れ。


「お前が逃げてるなんて、思わないよ。失明するかもしれなかったんだからな。傷付いたのも、痛かったのも、怖かったのも、全部お前だ。だから、戻って来いなんて絶対言わない。言えないよ、そんなこと。……だけど、それでも時々思うんだ。俺が負けてる相手が、せめて過去のお前じゃなければなって」


 晴彦はもう俺を見ない。

 高い空に向けて、言葉を放る。


「俺、ずっとお前が羨ましかったよ。ノービスのブロック大会で初めて会った時からずっと。あー、こいつは氷に愛されてるな。天才って本当にいるんだなって、心底思った。初めて会った瞬間に俺はお前に負けて、そして今もずっと俺は負け続けてる。……ずっと幻を見てるんだ。見たいから見ている幻じゃない。覚めたいのに、覚めない夢だ」


 目覚めは、落下だ。


 多分、俺はもうずっと準備していた。

 氷上に正円を描きながら、寸分違わぬ軌道を重ねながら。

 余計なものを削ぎ落とし、心の耳を研ぎ澄ます。

 世界という氷床に叩き付けられ、身体と心がバラバラに散らばっても、俺が俺を見つけ出せるように。

 俺が俺でいられるように。


 今、俺は確かに夜明けに触れた。

 なのに網膜が捉えたはずの光は一瞬で消え、涙が溢れるばかりだ。


「……まいったな。俺、お前を困らせたくて言ったんじゃないのに」

 落涙する俺を見て、晴彦は頭を掻いた。


「ごめん、なんかボロボロ止まらなくて」

 袖で目元を拭いながら、俺は言う。


 眼鏡って、本当に邪魔だ。

 ただでさえ額縁に閉じ込めた世界が、涙で曇る。


 晴彦はハンカチを差し出し、染み入るような目で言った。

「止めなくていいよ。俺以外誰も見てない。……あ、嘘。あれは見てるかも」


 晴彦が指差したのが、遙か山の上に白く浮き上がる高崎観音だったので、俺は不覚にも泣き顔のまま吹き出した。

 遠近感が狂いそうなほど大きい、白衣大観音。

 それをじっと見つめたまま、晴彦はぽつりと呟いた。


「……結局俺は、最後まで氷の神様には愛されなかったな」

「最後? 何言ってるんだよ」

 鼻をすすって、俺は言う。

 凜とした目で、晴彦は俺を見る。


「俺、今年が最後だよ。高校でスケートはやめる」


 聞き間違いだと思いたかった。

 だが、晴彦は迷いの無い口調で続ける。


「下に弟と妹がいて、こんなに金の掛かるスポーツを、たいして身につかないのに好きだってだけで、ここまで長く続けさせてもらった。もう、俺は十分だよ」

 そう言って晴彦は風を受け止めるように一度目を閉じ、また開けた。


「……けど、洸一。お前は本当に十分か? お前、あの日、リンクに頭を下げなかったよな。あの区切りが、本当はまだ付いてないんじゃないのか」


 何度トライしてもコンタクトが入らず、ついに諦めた日。

 普段氷に話し掛けていた俺が、あの日だけは一言も声を掛けなかった。

 殆ど見ないようにして、頭を下げずにリンクを去った。


「お前は、俺とは違う。才能も技術も環境も持ってる。そして何より、浪恵先生が……待っててくれる人がいる。スケートを、嫌いになったわけじゃないんだろ」


 俺の目の一番奥に力強く微笑みかけると、晴彦は勢い付けて身体を起こした。


「それ、やるよ。俺帰るわ。お前ん家通り過ぎたのに悪かったな」

 晴彦は自転車に飛び乗り、じゃあ、と片手を挙げた。

 そしてあっという間に加速して橋を向こう岸まで渡り、二度と振り向かなかった。


 一人残された俺はしばらくそのまま欄干にもたれ、今にも暗闇に溶けていきそうな川を見つめていた。

 背後を、車のハイビームが幾つも近付いては通り過ぎた。


 スケートを、嫌いになったわけじゃないんだろ。


 ……嫌いになれたらどんなにいいか。

 涙が再び頬を伝う。


 なあ、晴彦。初めて会った日のこと、俺も覚えてるよ。

 霧降リンクの関東ブロック大会。

 緊張で吐きそうになって座り込んでた俺に、声を掛けてくれたよな。

 出番が近いのに、救護の先生まで呼んで。

 榛名に入ったらお前がいて、こんなに頼もしいことはないと思った。

 俺達、これが無ければ一体何やってただろうな? 


 川面に月が映っている。あと少しで満月。


 頭の中で音楽が鳴る。

 一昨年のフリープログラム、ダンサー・イン・ザ・ダーク。

 ビョークの歌声が聞こえてくる。

 「全てを見た、もう十分だわ」と。


 大嘘だ。

 俺はまだ何も見ていない。満足なんかしていない。


 「これ以上を望むのは、ワガママというもの」

 ……俺は暗闇を見つめて笑う。


 ああ、そうだ。俺はワガママなんだよ。

 初めて氷の上に立った時から、ずっと。

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