第10話 明星
あまりの暗さに自分の手がどこにあるのかもわからなくなってしまった。右を見ても左を見ても上を見ても下を見ても何も見えない闇に包まれていた。スマホを取り出して明かりをつけようとしても、その光さえ飲み込まれてしまうくらい深い闇に包みこまれていた。
私の声も届かないようで、先ほどから何度も何度も旦那の名前を呼んでいたのだけれど、その声は自分の耳にも届かない。隣に誰かがいるような予感はしているけれど、それが誰かもわからないし、声も届いていないようだった。
永遠に続くかと思われた闇の中で私が何かを感じたのは偶然ではなく、草薙さんが何かをしていたからだった。闇の中にうっすらと見える草薙さんは片膝をついて何かに耐えているようだったけれど、私はその場を一歩も動くことが出来なかった。草薙さんを助けたい気持ちはあるのだけれど、足元もハッキリわからない闇の中ではその場から動くことが出来ないでいた。
私は草薙さんを見守る事しか出来なかったのだけれど、草薙さんは私に気をかける事も無く何かに向かって必死に話しかけているようだった。私には草薙さんの声が届いていないのだけれど、草薙さんには私の声が届いているようだった。私も遠くから草薙さんの声が聞こえていたのだけれど、何となく言葉が聞こえるだけでどのような事を話しているのかがさっぱりわからなかった。
私の目の前にひときわ明るく暖かい光の玉が飛んできたので、それを必死になって掴むと、全身を包みこんでいた闇がゆっくりと光の玉に吸い込まれていって、視界が徐々に開けていった。草薙さんの周りの闇も晴れていたようで、草薙さんは私の方へと走ってきて私の手を掴んで客間から外へ出ようとしていた。
客間は以前と変わらない感じであったけれど、私の周りは壊された守り神に囲まれていた。その守り神からはうっすらと黒い靄が出ているようだけれど、その靄は今にも消えそうな感じになっていた。もしかしたら、これが先ほどの暗闇を作り出していたのかもしれないと思った。
「すいません、私の失態です。奥さんだけでもここから逃げられればいいのですが、おそらく玄関からは出ることが出来ないでしょう。他にどこか外に出られる場所は無いでしょうか?」
「あの、リビングの窓から庭に出てみるのはどうでしょうか?」
「試してみる価値はあると思いますが、きっとそこからは出られないと思いますよ」
旦那は客間にもリビングにもおらず、私達の前から姿を消したのかもしれない。もしかしたら、旦那も暗闇に取り込まれてしまったのかもしれない。そうだとしたら、旦那を助けるべきなのだろうか?
旦那がした事は間違っている事だと思うのだけれど、その間違いを正すのも夫婦としての役目なのではないだろうか。しかし、そんな事が出来るのだろうか。私にはそれが出来る気がしなかった。
草薙さんは私の周りの守り神を慎重に動かすと、私の手を引いて客間からリビングに移動することになった。リビングの窓は鍵がかかっていないのに開くことは無く、動く気配すら感じられなかった。
「どうして開かないの? これじゃあ出られないじゃない」
私は全くどうしていいのかわからず、慌てていたのだけれど、草薙さんは慎重にあたりを調べていて、どうにか外に出る方法を探しているようだった。
その時、お風呂場の方からペタッペタッと湿った足音が聞こえてきた。この足音は私が以前聞いてしまった嫌な音だった。草薙さんはその足音が聞こえてきたときには私の手を引いて寝室に入ってしまった。寝室の窓も開くことは無く、出入り口が一つしかない寝室では足音の主がやってきたら逃げることは出来ないだろう。私はベッドと壁の隙間で身を小さくして隠れていたのだけれど、不思議な事に足音はこちらに近付いてくることは無かった。
「いいですか、これからは出来るだけ音を立てずに二階に上がってください。二階の部屋の窓は開くと思うので、不安かもしれませんがそこから外に出て屋根伝いに移動して、どうにか下に降りてください。あの足音の怪物はきっと二階には上がらないと思いますが、姿を見られてしまうとどこまでも追いかけてくると思います。奥さんは絶対に姿を見られないように気を付けてくださいね。私は少し客間を調べてから追いかけますので、奥さんは先に外に出ていていいですからね」
「あの、一緒に行ってくれないんですか?」
「行きたいのはやまやまなんですが、その前に解決しないといけないことがあるんですよ。それは私の問題なので、奥さんは気にせずに二階から外に出てください。もしも、二階の窓が開かなかったとしても、必ず開く場所があるので諦めないでくださいね」
草薙さんは私にそう告げると、客間へと向かっていった。その間も足音が聞こえていたけれど、その足音はこちらから離れて客間の方へと向かっていったような気がしていた。私は足音が聞こえなくなった時を見計らって慎重に階段を上って二階へと上がっていった。
二階は静寂に包まれているのだけれど、先ほどの闇の中と違って突き刺さるような静寂ではなかった。書斎は窓の前も本棚で隠されているのだから、本棚を動かさないと窓を開けることは出来ないだろう。物置部屋は荷物こそ多いけれど、比較的整理をしっかりしてるので窓を開けることは容易だった。
私が二階の物置部屋で草薙さんを待っていると、ゆっくりと誰かが二階に上がってきているのが足音でわかった。濡れた深いな足音ではなく、階段が軽く軋む程度の音なのでそれほど体重は重くないのかもしれない。
嫌な予感はしていたけれど、旦那も柏木さんも姿が見えなかったので、その足音は草薙さんだと思って迎えに行く事にした。私はその行動を後悔した。
「あら、奥さんは草薙を置いて一人で逃げようとしてたんですか?」
「違います。私は草薙さんを置いて行ってないし、ここで待ってるんです。柏木さんは逃げないんですか?」
「あはは、奥さんって頭がいいのか悪いのかわからないけれど、私が逃げるわけないじゃないですか」
「柏木さんは草薙さんより強いんですか? 得体のしれない相手と戦えるんですか?」
「そんなわけないじゃないですか。私なんかより奥さんの方がその力は強いと思いますけど、それでも奥さんはあいつらと戦おうとしない方がいいですよ」
ニヤリと笑った柏木さんは物置部屋の窓を指差すと、そのまま上ってきた階段を下りて行った。私はその行動が何を意味しているのか分からなかったけれど、柏木さんはどうして無事なのだろう。今までどこに居たのだろうか。私はそれを考えることをやめて、外へ出られる窓を探していた。
柏木さんが指をさした窓は拍子抜けするくらいあっさりと開いて、私はそこから外の様子を確認すると、誰もいなかったのでそのまま外に出る事にした。いくら待っても草薙さんはやってこないし、私も恐怖の感情が許容範囲を超えてしまいそうで、窓を乗り越えて外に出て、下に降りられそうな場所を探す事にした。
二階の屋根に上る事を事を想定していないからだろうが、下に安全に降りるための梯子も階段ももちろん置いていなかった。あったとしても、それは撤去されていただろう。
屋根を一周して戻ってきても、無事に上手く降りられそうな場所は見当たらなかった。
それから何度も飛び降りようと思って縁まで行ってみたのだけれど、靴を履いていないので素足で飛び降りるのはものすごく恐怖だった。そんな中、あの嫌な足音が二階から聞こえてきたので、私は窓を閉めて気付かれないようにして、出来るだけ体を小さくしそのまま隠れる事にした。
二階に上がってきた足音はだんだんと近づいてきているような気がするのだけれど、怖くてその姿を確認することが出来なかった。足音が聞こえなくなると、代わりにうめき声が聞こえてきた。よくよく聞いてみると、そのうめき声は草薙さんの声に似ているような気がしていた。
ゆっくりと窓から様子をうかがっていたのだけれど、そこに立っているのは間違いなく草薙さんだった。
顔と両手を力なくぶら下げている草薙さんは、小さな声で誰かに懺悔しているようだった。私は草薙さんを助けに行きたいとは思っていたのだけれど、どうしても体が動かなかった。
「奥さん……すいません。……奥さん……すいません」
延々とソレだけを繰り返してるのだけれど、どこか生気を感じさせない姿が印象的だった。私はそれを見守っていたのだけれど、草薙さんはその場から離れようとはしなかった。私も動くことは出来なかったのだけれど、草薙さんとは違う理由だろう。
草薙さんからは私の姿は確認できないと思うのだけれど、旦那と柏木さんは何をしているのだろう。もしかしたら、サプライズパーティーの用意をしていて、ここ数日私が体験してきたことが全てどっきりだとしたらどれだけいいだろう。
もちろん、そんな事はあるわけもなく、その場にとどまっていた草薙さんはゆっくりと来た道を戻って一階へと降りていった。この機会を逃すことは無いと思って、私は勇気を振り絞って芝生に向かって飛び降りた。
着地は上手くいかず、左側に倒れ込むようになってしまって、少し足首と左半身が痛かった。痛みにこらえて敷地から外に出ようとしていると、中が見えない窓の中から何者かに覗かれているような気がしていた。それは草薙さんでも柏木さんでも怪物でもなく、もちろん旦那でもないようだった。
その視線を気にしないことは難しかったけれど、どうにか家の正面まで歩くことが出来て、そのまま敷地から外に出ようとした時に、玄関が勢いよく開け放たれた。開かれた扉の向こうには草薙さんが立っていた。
私は草薙さんのもとに駆け寄ると、草薙さんの腕を掴んで一緒に外に出ようと力いっぱい引いてみた。私の力ではびくともしない草薙さんであったけれど、普通に旦那が手を引いたとしても動くことは無かっただろう。
草薙さんは私の顔を見ながら泣いていたのだけれど、私はこのまま一緒に外に出てこの家から離れる事しか考えていなかった。何かがいるこの家からは一刻も早く外に出ないといけない。
私は力いっぱい草薙さんの手を引いていたのだけれど、勢い余ってそのまま玄関の中に入ってしまった。その瞬間玄関のドアが閉まると、どうやってもそのドアが開くことは無くなっていた。
「ごめんなさい。すいません。申し訳ない。許してください」
草薙さんはそう言いながらもドアを開けようとしてる私の首を両手で掴むと力いっぱいに締めてきた。私は苦しくなってだんだんと意識が遠くなっていた。それでも、草薙さんの謝罪の言葉が途切れることは無かった。
私が目を覚ました時には知らない声がたくさん聞こえていた。
目の前を何度も赤い光が通り抜けていたのだけれど、それはパトカーの赤色灯の灯りだった。私はそれを旦那の腕の中で見ていたのだ。
旦那から離れようともがいていたのだけれど、全身に力が入らず、声も出なくなっていた。私が目を覚ましたことに気が付いた旦那は安どの表情を浮かべていたけれど、私にはそれが本心から出ているものだとは思えなかった。
「良かったですね。奥さんは意識を取り戻せたみたいですよ」
「ええ、妻が無事でよかったのですが、一人亡くなっている方がいるのは辛いですね」
旦那はおそらく刑事だと思われる人と話しているのだけれど、草薙さんの事を言っているのだろう。私は刑事さんに旦那のやった事を伝えようと思っているのだけれど、思うように声が出なかった。それだけではなく、手の指も自由に動かすことが出来なくなっていた。私はせめて表情で異常な事が起きたことを伝えようと思っていたけれど、それも伝わることは無かった。
「旦那さんの腕の中に守られていて奥さんも安心しているみたいですね。もうすぐで救急車も来ると思いますので、きっと奥さんの体は治りますよ」
「ええ、私はそれを一番願っていますが、妻の体が不自由なままだとしても、私は最後まで面倒を見るつもりですよ」
私は旦那の言葉で恐怖はまだ終わらない事を確信してしまった。草薙さんが亡くなったとして、柏木さんはどこに行ってしまったのだろう。近くにはいないようだし、どこか別の世界へと行ってしまったのだろうか?
到着した救急車に乗る時に見たパトカーの後部座席に乗っている柏木さんの姿を見たのだけれど、柏木さんは私と目が合うと私から目を逸らすことなく大きく口をあけて笑っていた。
すぐに隣にいる警察官に制止されているようではあったけれど、柏木さんは私が救急車に乗り込んでも笑い声が途切れることは無かった。
一緒に救急車に乗り込んでくれた旦那が私の手を握ってくれたのだけれど、私は体の震えを抑えることが出来なかった。救急隊員の方は旦那が私を心配しているのだと思っているのだろうが、そう見えても仕方ない事だろう。
「君は陽一がどうなったか知りたいと思うけれど、陽一なら大丈夫だよ。今はまだ小さいから大きくなるまで大切に育てないといけないしね。大変だと思うけれど、君もそれまでは頑張ってくれよ」
私の耳元でそう囁いた旦那の声は以前と変わらず優しい声だったのだけれど、それが何か深い意味があるのかは考えることが出来なかった。
私はそのまま入院することになったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます