第5話 希望
指定された喫茶店で待ていると、私に名刺をくれた人がいなかった。私達夫婦と息子は案内された席に腰を下ろすとそれぞれの飲み物を注文した。広いとは言えないようなテーブル席で一つのソファに家族三人横並びで座っているのが不思議だったのか、店員さんは注文を取るとそのままこちらを何度か見ながら戻って行った。
注文の品が来る前に何人か来店していたけれど、私に名刺をくれた人はその中にいなかった。だが、若い女性が私達の姿を見てこちらの方に歩いてきたのだ。
「すいません。藤井様でいらっしゃいますか?」
「はい、私達が藤井ですが。草薙さんの知り合いの方ですか?」
「私は草薙の代理でお話を伺いに来ました。柏木と申します。草薙は多忙故に代理である私が参ったのですが、藤井様の状況を聞く限りでは一刻も早くお力になりたいと草薙も申しておりまして、私で良ければ一通りお話し願えないでしょうか?」
「ええ、力になっていただけるなら嬉しいのですが、こんなことを話しても信じてもらえるか不安に思ってまして。信じる信じないは別として、聞いていただけるだけでも私と妻の気持ちは楽になると思うのです」
「私は草薙のように藤井様を直接助けることは出来ませんが、草薙に伝えることは出来ますので、差し支えなければこれからお話しいただく内容を録音させていただいても構いませんでしょうか。私はそれほど記憶力も良くないので、藤井様のお話を正確に草薙に伝えることが出来ないと思いますし、私が重要ではないと思った部分が実は重要だったという事もあり得ますので」
「それは構いません。出来れば息子にはあまり聞かせたくないと思っていますので、妻と息子は席を外してもよろしいでしょうか?」
「そうですね。息子さんも何かを感じてはいるでしょうが、直接何かは気付いていないと思いますし、注文の品を頂いてからお話ししていただきますね。そうそう、藤井様の奥様はお車の運転は出来るでしょうか?」
「私は一応免許は有りますが、不慣れな土地ではあまり運転したくないです」
「確かに、私も運転は出来ますが、研究所と町内くらいの移動でしか車に乗らないですね。では、何もない町ではありますが、お子様が退屈しないような場所が無いかまとめてみますので、私には気にせずにどうぞ」
草薙さんの代理の女性は一旦席を外すとガイドブックのようなものを手に持って戻ってきた。よくある観光情報誌だとは思うけれど、地元の人も意外と見るのだなと思った。
渡された本は読みこまれた形跡もあって、日常的に読み込んでいるようだった。
「こういう本って地元の人も読むんですね」
「地元の人には当たり前の情報しか載ってないんで読まないとは思うんですけど、私はここの人間じゃないんですよ。藤井様と一緒で東京から来てまして、今ではこちらに住まいを借りるようになりました。すいません、ちょっと自分の事になると緊張感が無くなってしまいまして」
「そうなんですか。でも、こっちの方が話しやすいと思いますよ」
「草薙もそう言ってくれるんですけど、草薙さんに会いに来る方って本当に悩んでる方なんですよね。それなのにフランクな感じで話しちゃうのは違うんじゃないかなって思うんですよ。でも、藤井様ご夫婦はとても仲が良さそうですし、息子さんも可愛らしいんで羨ましいですね」
「柏木さんはご結婚されてないんですか?」
「私ですか。私は結婚はおろかお相手もいない状態なんですよ。一人でガイドマップを見て満足してます」
柏木さんはそう言って照れ笑いをしていたけれど、最初の印象よりもこちらの方が話しやすくていいのではないかと思った。相手によっても違うだろうけれど、私達よりも深刻な悩みを抱えている人には最初の柏木さんの方が良いのかもしれない。
息子がジュースを飲み終えるまでにこの辺りで子供が退屈しないような場所をいくつか紹介してもらえた。子供向けの物ではないけれど、キッズスペースがあるような場所や、ちょっとした遊具がある公園などがあるらしい。
本当ならば私が説明した方が良いのだろうけれど、ある程度の事は旦那も見ていたし、私が体験したことも話していたので、申し訳ないけれど旦那にお願いすることになった。
息子を連れて外に出ると、東京よりも暑い気はしているがまとわりつくような嫌な暑さではなく、まだ耐えられるような暑さだった。
喫茶店を出てそのまま道なりに進むと、教えてもらった場所に辿り着いた。方向音痴ではないけれど道に迷いやすい私でも迷わずについたのは、柏木さんの説明が上手だったからだろう。旦那の道案内も上手なのだけれど、柏木さんの説明は目印を多く教えてくれたのでわかりやすかったのかもしれない。
ショッピングモールの中にあるキッズスペースで息子を遊ばせようと思っていたのだけれど、知らない場所だからなのか、息子は私の手を放そうとしなかった。
「陽ちゃんはずっとお利口にしてたから遊んできていいんだよ」
私がそう促しても、息子は私の手を離そうとはしなかった。息子はまっすぐ前を向いているのだけれど、その視線の先には壁しかなかった。何かあるのかなと思って注視してみても、特に変わったところは見られなかった。
「あのね」
「どうしたのかな?」
「今日はね」
「今日?」
「なんでここに来たの?」
私は息子にそう聞かれてもどう答えていいかわからずに黙ってしまっていた。何か答えないと息子が不安に思ってしまうと思っていたのだけれど、何と言えばいいのかがわからなかった。
「それでね」
私が何も言えずにいると、息子は言葉を繋げていた。
「パパもママも急いでいたけど、あのおじさんとおばさんはお家に置いてきてよかったの?」
「おじさんとおばさんって?」
「お家を出る時にいつも寝てる部屋にいた人」
「そんな人はいないわよ」
「でも、僕に手を振ってくれたよ」
旦那が何度か見回りをしてくれた時も誰もいないと言っていたけれど、私にも見えない何かがこの子には見えてしまうのだろうか。私はとてつもなく不安に駆られてしまい旦那に電話をしたのだけれど、旦那が電話に出ることは無かった。
どうにかして息子の話を変えようと思ったけれど、息子はそのおじさんとおばさんが気になって仕方がないらしい。場所を変えてはみたものの、息子はそのこと以外に興味が無いようだった。幼いころから一つの事に集中してしまいがちな部分は有ったけれど、今だけはそれが恨めしく思ってしまった。
旦那から折り返しの電話がかかった来たのは夕方になっていたのだけれど、私達のところまで直接迎えに来てくれるらしい。
迎えに来たのは旦那一人だったので、柏木さんはそのまま帰ったようだ。旦那の話では、自分が体験したことと私が体験したことを話して、持ってきた御札を渡したとの事だ。
息子が言っていた知らないおじさんとおばさんの話は旦那も驚いていて、今日はこのまま家に帰る予定だったけれど、どこかで一泊して帰る事になった。
私もこのまま家に帰るのは何となく怖かったので、どこかに泊まれることは正直嬉しかった。
「そうだ、お話を聞いてもらうにしてもお礼はしておいた方がいいわよね。こんな時ってどれくらいが相場なのかしら?」
「俺もそう思って聞いたんだけど、今回は相談なんで気にしなくていいってさ。飲み物と食事代は出させてもらったけど、実際に何かしてもらうときも実費だけでいいんだって。草薙さんは本業で稼いでいる分を困っている人に還元したいって言ってるらしいよ」
「まあ、それは立派な事だわね」
私は旦那と草薙さん柏木さんに感謝しながらも車窓から流れる景色を眺めていた。家に向かっていると思っていたけれど、いつもとは違うような景色になっているような気がしていた。
「今日っていうか、ここ数日は大変だったみたいだし、今日は浦安に行って明日は少し遊んでから帰ろうか?」
「陽ちゃんも退屈してるかもしれないし、みんな気分転換は必要よね」
「この前にまとめて休暇を取ったんで申し訳ないけど、会社のみんなには説明してるんで休みは大丈夫だしさ。来月は前より忙しくなるかもしれないけど、無事に解決したら我慢してくれよな」
「ええ、いつもあなたには頼りっぱなしで申し訳ないと思っているし、解決した後なら家の事なら大丈夫よ」
旦那はそう言って私を安心させてくれていた。何が原因でどうなったのかはわからないけれど、旦那が何とかしてくれるだろうと思っていると、不思議と不安な気持ちが薄れていた。
初めて泊まるホテルは思っていたよりも豪華で、いたるところに隠されているキャラクターに息子のテンションも上がっていた。私も小さい時からここのキャラクターが好きなので嬉しかった。
今日は怖い事が起きなくてよかったと思った一日だった。
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