味蕾かく語りき

@demagog2020

第1話 待ち人のジェノヴェーゼ

人類はいにしえの果てより目には見えないが確かにそこにある時を”流れ”として扱ってきた。この広い球形の中で数多の人々、文明、文化が時を”流れ”と感じたのだから本当に流れているのだろう。

厚いカーテンを閉め切って暗がりに佇むと流れている時が淀み、濁り、足元に堆積していくのが感じられる。やがて失速した時は埃に固まり確かに床に積もるのだ。

暫く立ち往生した後、カーテンを開ける。

微睡んだ瞳に光の針が突き刺さる。

早朝の冷たい昨晩の名残の空気が鼻腔に痛い。白い息を吐きながら朝日の差し込むリビングに「おはよう。」と呟くが返事はない。

洞窟を飛び交う蝙蝠のように少しの間、おはようを繰り返し彷徨った。

どこかから聞こえる小鳥の囀りが意識にかかった靄を払う。

窓から見える雄大な山峡の冷たい霧の晴れる朝4時半、昇りゆく太陽が山の中腹程にあるこの小さな小屋に一日の始まりを告げた。


珊瑚色の大きなマグで踊る湯気を眺めながら退屈と孤独に打ち勝つ打開策を模索する。

テーブルに逆さで置かれた”彼”のステンレスカップを眺めため息をつく。

いつもならその彼が安い粉コーヒーを注いでくれる。

くだらない冗談を交わしながら大しておいしくもないコーヒーをすする。

彼のお気に入りのジョークをぽつりと唱えてみた。

「今日の泥水はコーヒーの味がするぞ。」


件の彼は昨晩、食料の備蓄の継ぎ足しに山を降りた。

月に一回、シアン・カラーの古い軽トラックを見送るとき、得も言われぬ不安が世界を覆ってしまうのだ。


マイナスな感情を埋め立ててくれるのはいつだって濃密なリアルだ。

多忙に身を任せば大抵の問題を時が解決してくれる。

作りすぎたコーヒーを魔法瓶に詰め、黒パンのカビをこそげ落とし革製のカバンに突っ込む。

フライトジャケットに身を包み、ブーツの横についた鞘にナイフを挿し込んだ。

日が暮れるころには彼も帰ってくるはずだ。

とびっきりの夕飯を用意しよう。


小屋の目と鼻の先には鬱蒼とした針葉樹林が広がっている。

木々は深緑から樺茶色に移り変わる最中だ。

積もった枯草を踏みしめると乾いた空気に子気味良い破裂音が空気を叩く。

数フィート下から響くパーカッションに合わせ適当な歌を口ずさむ。

単に寂しさに蓋をするためではなく森に住まう獣たちに自らの存在を伝えるためである。

基本的に森に住まう者たちは互いの”持ち場”を侵そうとしない。

森に入り込む異物としてはそこにいることを伝え、互いを見ぬふりすることが賢明であるということだ。

まだグリズリーも飢える頃合いではないだろう。

森の喧騒の中、ゆっくりと確かに歩を進める。

森の中というものは案外と騒がしいものだ。

特によく茂った針葉樹林にはリスや鳥たちがねぐらを作るため、

そうした小動物が小さいながら懸命に生命を育む音がする。

不思議なことにその音にたどり着くことはできない。

よく釣りでは見えている魚は釣れないというが森では聞こえる音の持ち主に合うことができないのだ。

十数分ほど歩いたろうか、少し薄暗い所まできた。

この辺りはイタリアアカサマツの群生地だ。

開いた傘のような濃く広い枝はかの小プリニウスがヴェスヴィオ火山の噴煙を形容するのに用いたといわれるほどに雄大である。

それに倣うならば火山弾拾いとでもいうべきか、そこら中に散らばる少し早めに落ちた松ぼっくりをかき集める。

その音に反応してマツの根の間からリスが顔を出す。

一瞬、リスのシチューという素敵な献立が頭に浮かぶ。

そのあまりに純然たる殺意に反応したか否か、リスは身を翻し巣穴に逃げ込んだ。

「そんなに嫌がることはないだろう。」

ぼやきつつもブーツナイフをかさとかさの間に滑り込ませ、器用に松の実を抉り出してゆく。

少しの間、松の実を採るカリカリといった音とリスがせわしなく動き回る音がそこらの木々に反響する。

作業にも飽きてきたころ黒パンに齧りついてもみたがどうにも歯が立たない。

コーヒーに浸してふやけたパンを腹に押し込んだがおいしくないコーヒーとカチカチのパンの相性は最高に最低だった。到底食べきれるものではない。再びカバンに押し込んだ。

四握りほどの量が取れたのち、ふと思い立ってそのうちの幾分かと残りのパンをリスの巣穴の前に置いて帰る。

大した意味はない。ただそのリスは思わぬ贈り物に歓喜してるに違いない、そう思うとまるで偉くとでもなったかのような自己肯定感が沸いてくる。

背後から聞こえるリスの動き回る音が一層激しくなったのを聴いて、背中でほくそ笑む。


帰り道は一瞬のことに感じた。

いくら景色の変わらぬ山でも流石に住んでいれば自分がいる場所くらいわかる。

小屋の前のプランターには小さな白い花を湛える雄々しい玉虫のような葉が並ぶ。

虫よけ代わりに植えているバジリコだ。

葉を数枚ばかりちぎる。

前回ちぎったところからはもう次の葉が顔をのぞかせている。

ここらではバジリコは基本冬を越せない。

だから毎年気に入った一プランターだけ冬は暖炉のそばに置いておくのだ。

雨どいにぶら下げてあるニンニクを一つつかみ取り、小屋に戻る。


貯蔵庫から適当な食材を引っ張り出し、キャラメルをひとかけ口に放る。

枯れた木のような味のする咥内にまったりとした重量感のある甘みとほのかな焦げの香ばしさがじわり広がる。

彼がよく”五軒先の火事”と表現していたそんな香りを口腔で燻らせ、レディオに蹴りを入れつつキッチンに向かう。

からからと回る換気扇の間から漏れる光の筋がまな板と私を交互に照らす。

乱暴に叩き起こされたレディオが不機嫌のノイズを混ぜ込んだピアノの音色を吐き出す。ところどころ音のとんだ「ザ・クリスマス・ソング」が流れ出した。


すっかり大きくなりすぎたバジリコの固い葉脈を砕氷の如く鋭いナイフがなぞる。

離れ離れになった葉達は、独特の無機的な香りを発し丸くなる。

丸まった葉をミキサーに投げ込み、その五分の一程のオリーブオイルを注ぐ。

鈍く煌めく玉虫色に金の油膜が滴る。

プラスティックの円柱に閉じ込められたそれらは回転する金属の牙に跡形もなく引き裂かれた。


樫のまな板に刃が当たる音が軽快に響く。

乾燥気味のニンニクもよく研がれた刃の前には赤子の肌と大差ない。

特有の臭いも水分とともに失われてしまったのだろうか。

適当な大きさに刻んだ乾いた実を先程とってきた松の実とフライパンに落とす。

オイルを振り掛け、コンロに火を灯す。

弱火でじっくりと熱気にさらしていく。

油が泡立ち、乾きに閉じ込められたあの食欲を引きずり出してくれる印象的な臭いを解き放ってくれる。

火を止め、余熱で少し実達を煎る。

実が少し弾けたが気にせずミキサーに流し込んだ。


緑色のどろりとした半液体に白みがかったフレーク状の具が混じるとそれだけで胃袋の底が抜けるようだ。

事実、この状態をもうジェノヴェーゼと呼ぶ大雑把な国もある。

無論、真のジェノヴェーゼと呼べるものはリグーリアのジェノヴァでしか味わえないだろう。

この辺境の地でジェノヴァに想いを馳せるためのもうひと手間といこう。

ここにチーズを混ぜ込む。バジリコの香りを松の実の香ばしくまろやかな舌触りが支え、にんにくの力強い集客力がその旨味を全面的にバックアップする。

そこにパルメジャーノのつんと鼻に抜ける旨味、酸味と塩味、チーズの確かな味が加わるというわけだ。旨くないはずがないことはそのレシピの歴史が裏打ちしてくれている。

しかしパルメジャーノというものは素晴らしく高価だ。

銀行が担保に持っていく程度には。

きっとイタリアには銀行所有の熟成庫の扉をこじ開け、爆破し、パルメジャーノのバンに乗せて掻っ攫っていくチーズ強盗なんかもいるのかもしれない。

そんなことはどうでもいい。

パルメジャーノの代わりに貯蔵庫からグラノ・パダーノを持ってきた。

グラノ・パダーノはパルメジャーノより熟成に要す期間が短いので安い

それの半分出来損ないの寄せ集めを彼は半額で買い叩いてきた。

「グラノ・パダーノ・ナリソコネターノだ。」などと言っていた気がする。

握りこぶし2つほどのチーズをおろし金に押し付ける。

堅牢な表面からは拍子抜けな軽い感触で綿雪のような粉が降り注ぐ。

このひとかけらは味見用に使われていたようだ。

そこらに穴が開いている。

若草色のペストに明確な存在感がもたらされる。

スパゲッティに和える、サラダドレッシング代わりにする、肉のソースにする、

どれも最高だろう。冷蔵庫にはシカやクマやイノシシなんかがぎっしりだ。

もちろんリスも。


丁寧にラップをしたミキサーのカップを冷蔵庫にしまおうと背伸びした時、ポケットの中に重みを感じた。

先程食べたキャラメルがまだ残っていた。

こいつでも舐めながら退屈な留守番を続けるかとしばらく手の中の小箱を弄ぶ。

ふと頭にちょっとした、しかし退屈に打ち勝って余りあるアイデアが湧き上がる。

衝動に突き動かされるように残った松の実を煎る。

立ち上るスモーキーな陽炎に水を少し注ぐ。

バターも落とそう。

そこにキャラメルを数個投げ込み木べらで延ばしていく。

ピンクソルトをパッと振り掛けて形を整えていく。

アフターヌーンティーはなににしよう。


艶のあるキャラメルの表皮はかりっとした食感と特濃の甘みを持ち、鼻にはバターの味わいが抜けていく。間に散りばめた岩塩が甘ったるい相方達に均整と後味の爽やかさをもたらす。ベースにチョイスした松はほのかな木々の気配とカシューナッツを更に柔らかくしたかのような歯触りがある。

官能的なまでの甘みと後を引かないさっぱり感が紅茶とともに生まれたのかと錯覚させるほどにマッチする。


マグで飲むアフタヌーンティーはイギリス紳士を怒らせてしまうだろうか。

温まった体が重く感じる。

西日の中で微睡む。

後はただ”まつのみ”というわけだ。

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