五穀豊穣

まさりん

第1話 五穀豊穣1

 そこは丘と丘の間、谷であった。

 いや、「谷」というより、「谷戸やと」と言った方が正確か。

 「谷」というと、両側が切りたった断崖で、間に急流が流れるという景色を思い浮かべる。崖と崖の間は狭く切り立っている。それよりも、台地に低地が深い切り込みを入れたような景色、すなわち「谷戸」と呼ぶべきだろう。

 切り込みの低地はそれほど広くない。

 南側の台地の崖沿いに栗林があった。ちょうど大人の腹くらいの高さの盛り土があって、二十本ほどの栗の木が立っている。栗林の中央には水はけを良くするように溝が掘られていた。栗の木の下には中身がない、毬栗いがぐりが転がり、剪定せんていされた枝が散乱していた。

 この辺りでは栗の栽培が積極的に行われている。

 栗の木の下をカラスが一羽、チョンチョンと飛んで歩いている。毬栗のなかをくちばしで突き、突いては「ない」と独りごちている。

 彼は三本足であった。

 人々は彼を「八咫烏やたがらす」と呼んだ。呼んではいるのだが、あさましく毬栗を漁る実際の姿は人々からは見えない。

 「八咫よ、あるわけがあるまい。今がどういう時期か分かっておるのか、正月じゃぞ。秋の収穫から、どれだけの月日が経ったと思うておる」

 八咫烏は舌打ちした。

 そう言った相方は踵を返した。一本足であった。彼は人々から「案山子かかし」と呼ばれている。麦わら帽を被り、布でできた頭には「へのへのもへじ」と書かれている。笑って怒ってもその顔に変化は現れない。

 もっとも、笑っても、怒っても、泣いても、案山子の変化に、人々は気づきようもないのだが。そんなポーカーフェイスで、「谷戸」の景色を眺めている。

 栗林から見渡すと、「谷戸」の底には、ネギ畑や柿園、花畑が広がっている。「谷戸」をまたいで、向こう側の台地の崖には、典型的な新興住宅が広がっていた。

 新春の日は短い。

 昼過ぎなのに、すでに周囲は夕景になりつつあり、次第に辺りは黄金色こがねいろになってきていた。

 台地の縁は急勾配きゅうこうばいであった。それにもめげずにその坂にも宅地は造成されていた。住宅地は付近を走る鉄道会社が開発していた。

 ただ案山子と八咫烏のいる側の台地にまで開発の波は届かなかった。大開発を牽引していた頃の時代のうねりが手前で収束してしまったのだった。「谷戸」から見ると、二つの丘は、まったく違う時代に属しているように見えた。土地を売却して「土地成金」になり損ねたこちら側の丘の住民は先祖からの稼業である農業を続けるよりほかない。

 案山子はしかし、昼間には移住したのでは無いかと思うくらい静まり返ってしまう、「閑静かんせい」すぎるあちらよりも、こちらの台地に愛着を感じていた。

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