自分のことだけ

 ぼんやりとしていた視野が、次第にはっきりしてきた。ようやくフラットの顔に焦点が定まった。

 シエロは、まっすぐフラットを見つめた。老研究家の深い皺に囲まれた瞳は濁りを知らず、汚れた眼鏡の奥でらんらんと光を湛えていた。

「確かに、竜はおる。それが、我々の見解だ」

 誰もが息を飲んだ。だが、と、フラットが続ける。

「必ずしも、絵に描かれたような姿とは、限らぬ」

 降竜碑の袂でシャープが言ったことを、フラットは更に噛み砕くように言った。

「古文書などからの描写に基づいて、こんにちの竜の絵画や彫刻は再現されている。もしかしたら、そのような姿なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。大きさも、竜骨山脈そのままの大きさとも、掌に載るとも言われて、どれが正しいのか、どれもが正しいのか、実際に見たものにしか分からない」

 シエロは、そっとファラを見上げた。

 ファラですら、見たことがないのだ。本当の姿を見たことがある人は、この世界にいない。昔の人が遺したものから想像するしかない。どこにいるのかなど、分かりようがない。

 フラットは床へ腰を下ろした。シエロと目の高さが近くなる。

「ただ、この世界に、人知を超えた強大な力が存在することは、確かだ。それを、我々は竜と呼ぶ」

「では、僕は」

 最後に見た母の姿が浮かんだ。技芸団の仲間の顔も、忘れていない。しかし。

「僕は、竜を、探すべきですか。それとも、探してはならないでしょうか」

 個人的な理由を優先し、ディショナール王に、更なる権力を与えて良いのか。 

 さすがの老研究者も、乾いた厚い唇を閉ざした。目に浮かぶのは、深い思慮だった。

「残念ながら、わしにも分からぬ」

 だが、とフラットは続けた。

「今、王を止められるのは、竜だけかも知れぬ。あやつは、唯一発言力のあった弟をも、西の荘園に追いやった」

 発言力があったからこそ、目の上の瘤だっただろう。

 昔団長から教わった、王弟について記憶を辿った。

 王弟カノン・ジグ・ビューゼントは、海運を一手に任されていた。西の端にあるウェスタ港は王弟の荘園が管理している。

 表向きは、重要な場所だからこそ身内に任せるという形をとっている。が、ウェスタまでは、潮を遡るため海路でも三日。険しい山道を経由する陸路では、表街道を馬車で駆けても十六日はかかる。

 実質、左遷である。

「それよりも」

 間近から覗き込むフラットの目が、潤んだ。

「おまえさんは、大切な仲間を奪われておるのだろう?」

 小さく頷いた。

 太く短い、乾いた指の手が、シエロの肩を叩いた。

「おまえさんはただ、仲間のことを考えておれば、それでいい。世界の行く末なんぞ、わしらにも背負いきれんことだ」

 肩の力が抜けた。

 仲間のことだけ。母のことだけ。

 彼らのために、ただ、竜を探す。

 それだけで、いい。

 シエロは目を伏せた。

「今はとにかく、自分のことを考えな」

 ポン、とレミの手が頭に載った。項で髪を結わえている紐を解かれる。

 すかさずファラが肩を圧し、シエロの頭を畳んだ上着へ載せた。

「お休みになってください」

「だけど、探すなら、もっと竜のこと」

 知りたい。

 モガモガと起き上がろうとするシエロに、レミは呆れ顔でシドを振り仰いだ。

「強制的に眠らせる術とか、ないの」

「許可しません。シエロ様にそんな危険な術」

 ファラの反論に、シドは困り顔で魔導書のページをめくった。

 羊皮紙には、魔方陣が描かれている。一枚の紙にひとつ。簡素なものから複雑なものまで、様々だった。シャープが眉を上げた。

「複写魔導帳じゃないですか」

 一冊の書物の内容を、ひとつの魔方陣に変換し、記録する魔法道具だ。

 見たくて頭を起こそうとしたが、ファラに押さえつけられた。

 シャープは、しみじみと溜息をついた。

「羨ましいです。魔導師さんは、それが使えるのですから」

 研究者ならば、文献を書き写す苦労を、何度も乗り越えてきたに違いない。何ヶ月もかかって、指にインクを染み付けてこなす作業が、複写魔導帳と扱う魔導力があれば、ほんの数秒で終わってしまうのだ。

 相槌を打ち、シドは手を止めた。開いたページの魔方陣へ手を翳す。口の中で詠唱を唱える。

 魔方陣が黄色く光り、本が現れた。小口を上に、背を下に、フワフワと浮いていた。革張りに金文字の表紙は、所々が透けて見える。魔方陣の上に浮かんだそれの上で、シドは立てた人差し指を左右に動かした。触れずとも、ページがパラパラと動く。

「眠りの魔術、なぁ。下手すると、永遠に目覚めなくなるから」

 ひえ、とシエロは、掛け毛布代わりのレミのマントを鼻の下まで引き上げた。半眼のファラが、じとりとシエロを見下ろす。

「ですから、シエロ様。お休みください」

「わ、分かった。でも、その前に、一回、いい?」

 竪琴へ手を伸ばした。横になったまま、脇へ抱える。ようやく、弦を弾ける心地になった。腕を上げ続けていると疲れるので、曲を奏でるわけにはいかない。

 最初の一楽章を弾いただけで、シエロは満足した。竪琴を抱え、息を吐く。

「どんな癒しの術も、シエロの竪琴には敵わないな」

 苦笑するシドの声が聞こえた。

 さて、とフラットがシャープの腕を借りて立ち上がった。

「ここの竜に関する文献の蔵書数は、城の資料庫にも負けておらん。気が済むまで、調べるがよい」

「しっかし、なぁ」

 シドは、呼び出した本を納めた。魔方陣の光が消えたページを閉じ、懐へ仕舞いながら辺りを見回した。

「何がどこにあるのやら」

「だから、勝手に片付けるなと言ったのだ」

 ぶつくさとシャープへ幾らかのタイトルを伝えると、フラットも自ら積み重なった本の背を見ていった。

「おお、まずは、これだ」

 床に近い一冊を、ヒョイと抜き出した。積み重なった本の塔が揺らぐ。

「危な」

 慌ててレミとファラが本の塔を支えた。頂点に載っていた数冊が、シエロの枕元へ落下する。

「シエロ様」

「だ、大丈夫。当たってない」

 亀のように縮めた首を、そっと伸ばした。

 あちらこちらで、同様の本の崩落が起きた。たちまち、シエロの寝ている場所以外の床が本で埋まる。

 埃を吸い込まないよう、レミのマントを目の下まで引き上げた。マントの下で、シエロは息を吐いた。

 これほどの竜研究の権威が、王城ではなく山中の庵にいる理由。

 フラットの散らかしぶりを許せる研究者は、シャープしかいなかったのではないだろうか。

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