不意打ち
バザールでシドの術が暴発した際、雨を降らせ消火してくれた若い魔導師だった。
「奇遇だね。また会うなんて」
魔導師も、これから下山するところだと言った。昨日は追加の買い物を思い出し、そのまま宿へ泊まったそうだ。
「呪を解いてもらったから、隣町まで行かなくて済んだ。助かったよ」
人懐っこい顔で、シドを見上げる。シドもまた、照れたように頭を下げた。
共に、下山の列に並んだ。
シドに負ぶわれて上ると分からなかったが、山道はかなり急だ。上から見下ろすと、転がり落ちそうで恐怖心が湧いた。怖がれば腰がひける。シエロは何度も均衡を崩した。小石を踏んで足を滑らせ、羽ばたきのように手をばたつかせる。
「ああ。気をつけて」
魔術師は、尻餅をつきそうになったシエロの腕を引き上げてくれた。
「後ろの足に重心を置いたまま、足を下ろして。しっかり着地してから、重心を前に移して。そう」
丁寧に教えてくれた。
足元を凝視し、一歩ずつ確実に体を下ろす。
と、前の人の背中にぶつかった。
列が止まっていた。ぶつかった女性へ謝り、何かあったのかと、尋ねた。
女性は、困惑顔で列の先を示した。
「いや、獣が、ね」
レミが、ピクリと顔を上げた。風上にいるため、気が付かなかったようだ。
数頭の獣がうろついていた。小型だが、半開きになった口元に並ぶ牙は、鋭い。唸りながら、涎を垂らす。眼光も険しく、うろたえる人々を睨んでいた。
ああ、と魔導師が嘆息した。そっと、シエロの耳元へ口を寄せた。
「供物の肉を狙って、集まって来るんだよ」
彼がこっそり示した先は、張り出した降竜碑の下方だった。まばらに生えた木々の隙間から、供物が落ちていくのが見えた。
月に一回、バザールから祈祷師が上がって、供物を燃やしているが、それまで小鳥の丸焼きは、野の獣の餌になっているのだそうだ。鋭い鳴き声に顔を上げれば、大きな鳥が翼を広げて旋回している。
「そりゃ、こんなところに美味いものが放置されてりゃ、寄ってくるよな」
シドも納得したように呟いた。
あくまでも参拝者は、竜が供物を飲み込み、願いを聞き届けてくれると信じたい。だが、その下では、獣が舌鼓を打つ。魔導師が小声で話しているのも、周囲の参拝者に対する配慮だろう。
「やれやれ。ちょっと、説得してくるよ」
列から離れ、レミが列の前方へ走った。灰褐色の髪と尻尾が揺れた。シドもまた、いざとなれば術を放てるよう、荷物を地面へ置いた。杖を掲げる。
その間、シエロは隣の魔導師と話を続けた。
「下山した後は、どちらまで行かれるのですか?」
「一度バザールに戻って、そこから、荷車で王都を目指す。仕事を探しているんだ」
「王都で?」
「今度の建国祭は、いつもより規模を大きくするって噂なんだ。仕事にもありつけると、睨んでいるんだ」
希望に溢れた表情だった。
どうしても曇ってしまう気持ちを隠そうと、シエロは必死だった。
多くの民にとって、建国祭は、年に一度の楽しみだ。王都でなくとも、仕事を休み、親しい者と贅沢な食事を囲み、歌い、踊る。
その裏で、今年は、ムジカーノの末裔が血を流さなければならないのだろうか。
暗い想像に、シエロは、周囲の気配や人の声が遠ざかったように感じた。暖かい陽射しも遮られ、自分だけが、異なる空間にいる。
眩暈がして、シエロは槍の柄に縋った。それでも耐え切れず、しゃがんだ。地面へ手を突き、ハッとした。
手に触れたのは、土でも岩でも、草でもなかった。
何でもない触感。
身をよじったのは、本能的な勘だった。何かが、さっきまで腹があったところを掠めた。
舌打ちがした。
横たわり、見上げたそこに、魔導師の顔がある。だが、気さくな笑みは消えていた。
「な、に?」
問いかける声が震えた。
「その前に、シエロ・ムジカーノの殺害って仕事を、片付けなくちゃね」
ニタリと、掌を突きつけられた。
彼から伝わるのは、冷たい殺意だった。三日月型に細められた目には、享楽すら浮かんでいる。
すでに術を施されているのだろう。見回す余裕はないが、周囲から完全に遮断されていた。
皆の注意が、獣へ向けられた隙だった。
もしかして。
冷たい汗が背を流れる。
あの獣も、彼が操ったのか。
魔導師の口の端を、尖った舌がゆっくりとなぞった。
シドが、気が付いてくれないだろうか。
詠唱が始まれば、術を使えないシエロは、太刀打ちどころか、逃げることも叶わなくなる。
動くなら、今のうちだ。
だが、何をする。どうする。
術から逃げるなんて、できやしない。
無駄と分かって、ジリ、と後退した。槍の柄に腰が当たった。
レミの鍛錬に付き合っていたシドの姿を思い出す。
相手に対し、横向きに。杖を、肩幅に持って。
シエロは槍の柄を両手に持った。震える先を魔導師へ向ける。前に出した手は軽く、後ろで控える手は強く、柄を握った。
わずかに眉を上げた魔導師だが、刃のない槍だ。嘲笑い、息を吸った。力が入った腹部がへこんだ。
同時に、シエロは、後ろの手で柄を押した。前の手で作った筒の中を滑らせるように突き出した。
相手の掌を狙ったが、震えていたため、外した。が、それが逆に良かったのかもしれない。
痛覚が敏感な指先を強打され、魔導師は吠えた。
目に見えない、薄く固いものが軋む。
音が戻った。
複数の悲鳴がなだれ込んだ。
シドの低い声が鼓膜を揺さぶった。レミが鋭く叫ぶ。
「シエロ、動くな」
同時に、白銀の光が弧を描いた。
薙いだ剣の先が、魔導師の横腹へ吸い込まれる。
山間に響いたのは、哄笑だった。
「シエロ様」
ファラが覆いかぶさる。
音を立てて降ってきたのは、土の塊だった。シドが舌打ちをする。
「傀儡か」
土の人形を、人間のように動かす術。
顔の形を留めた土の塊が、鈍い音を立てて転がった。不気味な笑みの中央を、シドの杖の先が貫いた。土埃があがる。レミが顔を歪めた。
「バザールから、ずっとつけてたのか」
「分からない。俺たちと話していたことで、モデルに……影を取るのに使っただけの可能性もある。くそ。操り主の追跡は無理だ」
土くれの周囲で、小さな稲妻が、弾けては消えた。
恐れをなした参拝者の列が乱れる。いきなり術を張り、剣を振り回す一行から、我先に逃げようとする。転んだ子供が泣き叫び、押し倒された若者が怒声をあげる。
「脇へ避けよう」
剣を納めたレミが、シエロの脇と膝裏に腕を差し入れた。軽々と抱え上げ、草が芽吹いたばかりの斜面を横切る。
レミの腕の中で、シエロは歯の根が合わないほど震えていた。
消える前の魔導師の眼差しが、目の前に残っている。命を奪う快楽に酔い、怯えるシエロに愉悦を覚える狂気。目に見えず、耳に聞こえずとも頭へ響いた怨念。
竜を諦めろ。
胸の奥が苦しい。塞がる。息を求めて口を開けるが、吸い込める空気がなかった。
「落ち着け。もう、大丈夫だから」
シドの大きな手が背中を摩ってくれるが、ぶり返した喘息の発作は容易に収まらなかった。
「ファラ、さっきの薬は?」
「ありますが、先に服用して時間が経っていないので使えません」
「ちょっと待て。使える回復魔術があるか、調べる」
「今から? 間に合うの?」
竪琴を。あれがあれば、少しは落ち着けそうだから。
伝えたいのに、苦しくて、声が出ない。身体が動かない。気持ちの悪い汗ばかりが滲み出た。
「あの」
恐る恐る、声をかけてきた者があった。
「私の庵が、近くにありますが」
震えながら緩やかな尾根を指差したのは、竜研究者のシャープだった。
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