餞別


 膝の上に竪琴の台座を固定し、左手で枠を支える。右手の指で爪弾くと、震える弦から優しい音が広がった。

 音階の確認をしただけで、双子の目尻はうっとりと下がった。

「きれいな音」

「優しい音」

 奏で慣れた、短い恋歌を爪弾いた。音楽に合わせ、双子は身体を揺らした。

 シエロのさざ波だった心も、次第に落ち着いてきた。風に煽られた水面が凪ぐように、気持ちが静まっていく。さらにもう一曲、幻想的な舞の曲を奏で終わる頃には、すっかり穏やかな気持ちになれた。


 双子は、毎日食後に笛の稽古をしているらしかった。

 ソゥラの村で幾日か過ごす間、シエロもノクターンを手伝って笛を教えた。時々、奏でて欲しいと請われたが、喘息を理由に断った。

 本当の理由は、ソゥラの反応だった。怒らせてしまったのか、どうなのか。あれ以来、ソゥラの険しい表情を見ていない。常に穏やかな人を、あれほどまでに変えてしまった事が、恐ろしかった。

 竪琴なら、ソゥラも双子と一緒に耳を傾けてくれた。王都での出来事を思い出す度乱れる自分の心を鎮めるためにも、シエロは日に何度か竪琴を爪弾いた。

 川べりには、シエロが寝泊まりさせてもらっている天幕の他に、数個の天幕があった。そこに住まう人の姿も時折見かけたが、会釈を交わす程度だった。日暮時に外で竪琴を奏でていると、天幕の入り口に腰掛け、じっと耳をすませている人も見かけた。双子のように興味深々で近付くこともなければ、不審な目で見られもしなかった。ソゥラが認めているというだけで、一線を保ちながら受け入れられているようだ。

 それが、シエロにはありがたかった。


 ゆったりと時が流れる。いっそこのまま、集落の一員になってしまえたらと、本気で考えもした。だが、穏やかな眠りは、必ず悪夢に破られる。

 最後の包帯が不要になった朝、ノクターンが口にしたのは、祝福だった。

「後は、シエロの年なら放っておいても治るよ」

 本音を言えば、引き止めてもらいたかった。治ったけど、一緒に暮らさないかと言ってもらいたかった。

 しかし、彼は包帯を巻き取りながら、はっきりと言ったのだ。

「これで、旅に戻れるよ」

 シエロは重い腰を上げた。

「充分なお礼も出来ず、申し訳ありません」

「何を言ってるんだい。リズもディーヌも、あんなに上達したのはシエロのお陰だよ」

 逆に、お礼を言われてしまった。

 旅支度を整え、深々と頭を下げると、天幕を出た。頭上には、抜けるような青空が広がっていた。

 双子も、見送りに出るとごねた。が、ソゥラに宥められ、天幕を出たところで千切れんばかりに手を振ってくれた。

 川の流れに沿って下る道を案内してくれるのは、ノクターンとソゥラの二人だ。万が一、山賊と出くわすといけないからと、ノクターンは太い杖を手にしていた。

「このまま、川に沿って道なりに下っていけば、分岐に出ます。橋を渡り、支流を遡ると竜骨山脈の端に出ますが、十分、気をつけて」

 ソゥラが細い指で示す方角を確認し、シエロは緊張の面持ちで頷いた。

 それから、と、ソゥラは懐から小さな袋を出した。

「どうしても自分の力では敵わない事態に出くわしたら、使いなさい」

 巾着を開くと、三つの珠があった。大きさは親指の先ほどで水晶のように透き通っている。光を遮断された袋の中で淡い光を放っていた。ただの珠ではない。

「これって」

 驚き、顔を上げると、ソゥラの真紅の瞳が柔らかく微笑んだ。

「魔道具です。困ったときは、一つ握って、強く願いなさい。きっと、助けになります」

「そんな貴重なものを」

 呆然と口を半開きにしていると、ノクターンも笑顔で頷いた。

「遠慮しないで。気をつけて行くんだよ」

 頷き、袋の口を硬く結ぶと、懐の奥へ仕舞った。

 心は重かった。不安と緊張、恐怖が圧し掛かっていた。だが、シエロは出来る限りの笑顔で二人に礼を言い、手を振った。


 シエロの後ろ姿が川に沿って曲がり、茂みの影に入ったのを確認して、ノクターンは問いかけた。

「良かったのですか。あのまま行かせて」

 ソゥラは、静かに頷いた。真紅の目を細め、しばらくシエロの消えた方角を見詰めた。

「いずれ、また会うことになるでしょう」

 それよりも、と振り返った目に、先程までの優しさは微塵も残っていなかった。

「急ぎましょう」

 頷くノクターンの脇を、銀色の髪が緩やかに過ぎていった。


 示された山道を下っていくと、程なく開けた土地に出た。川が二手に分かれ、一方は激しい流れを保ったまま谷に沿って落ちていた。茂った木々の間から流れ落ちる瀑布の音が、重く響いていた。

 ソゥラたちが助けてくれなかったら、落ちていたであろう滝つぼ。ブルリと身体を震わせた。それ以上滝に近付かず、シエロは渡れそうな浅瀬を探した。

 頭を出した石が、ちょうどいい具合に並ぶ場所を見つけ、慎重に川を渡る。もう一方の、張り出した尾根を迂回する流れを辿った。教えられた道は、すぐに見つかった。

 胸を撫で下ろし、踏み出した。

 頭上から、羽ばたきが聞こえた。

 純白の鳥が舞い降りつつ、光を放った。はぐれていた、鳥人のファラだ。

「無事だったんだね」

 駆け寄ると、ファラも全身に光を纏わせたまま、ふわりと降り立った。

 弱まる光の中に、ファラの裸体が浮かび上がる。シエロは慌てて上着を差し出した。

 ファラは、女性ではない。かといって、男性でもなかった。どちらかといえば成熟前の少女に近い容姿であるため、普段は女性ものの服を着ていた。細いシエロの肩に止まれるほど小さな鳥に変化する際、服は運べない。その場に置いていくしかなかった。必然的に、移動先で人型に戻る時は、全裸だ。

 上着を羽織り、ファラはシエロの腕に残る傷に目を留めた。乏しい表情の中で、眉を顰めた。

「お怪我を」

「大丈夫だよ。ちゃんと、処置してもらえたから。ファラは、怪我しなかった?」

「シエロ様とはぐれてすぐ、変化して逃れましたから。処置とは」

 ファラは鳥のように首を傾げた。

 川上を指差し、シエロは嬉しさに上ずった声で、ノクターンたちに助けられたことを教えた。

「助かったよ。包帯が取れるまで休ませてもらったから、すっかり良くなったし」

 さらに、ファラは首を傾げた。

「その傷は、もっと深かった、と」

「うん。だけど、ほら、もう」

 ヒヤリとした手が、シエロの額に押し当てられた。戸惑う間に、ファラはシエロの頭をあちらこちら押さえる。

「な、なに?」

「頭を打った形跡は、ありませんね」

「たんこぶは出来てたけど、それも治ったよ」

「失礼ですがシエロ様。本当に、記憶は確かですね?」

 さすがに腹立たしさが湧き起こり、シエロはムッとして頷いた。

 しばらく思慮したファラが、言いにくそうに口を開いた。

「王都を発ったのは、今朝、ですよね」

 驚きに、シエロは言葉を失った。

 そんなはずはなかった。集落で、ノクターンたちと過ごす間、何度も夕焼け空を仰いだ。星を数えた。月が満ち、朝焼けに染まる川で釣りをした。

「なに言ってんの。だったら、怪我が治るわけがないじゃない」

「しかし」

 思いついたファラが、シエロの上着のポケットを探った。取り出したのは、油紙に包まれた、数個の小さなパンだ。技芸団行きつけの食堂「ヤギの羽毛亭」の女将が、出立前にこっそり渡してくれたものだ。

 ノクターンたちの集落では、すっかり忘れていた。

 パンの表面は水でふやけていたが、弾力は保たれていた。数日経っているなら、もっと違う有様だろう。

 ならば、集落での出来事は、夢だったのか。

 短衣の胸元を握り締めた拳が、硬いものに触れた。

 ソゥラがくれた、魔法の珠だ。

 夢ではない。

 ならば、何なのか。

 信じられず、シエロは川を遡った。茂みを抜け、記憶にある中州が近付いた。ネコ足の石も、川原に鎮座していた。

「ほら」

 ここだよと威勢良く指差したシエロは、そのままの口の形で立ち止まった。

 岩場に並んでいた天幕も、魚を炙った焚き火の跡も、消えうせていた。

「人の気配はありませんね。この辺りの上空も飛びましたが、仰るような天幕も見えませんでした」

 ファラが指摘するように、ついさっきまで数十名が生活していた痕跡も匂いもなかった。まるで、最初から川原と森しかなかったかのような佇まいだ。

 混乱し、あちらこちらを走り回ったが、何一つとして村を示すものは見つからなかった。

 風が、汗を冷やしていった。ファラが、再度辺りを見回した。

「とにかく、これ以上ここに留まっていても仕方の無いことです。汗が冷えては、身体に障りますし」

 ファラの言葉が終わらないうちに、シエロは咳き込んだ。

「さあ、光があるうちに、町へ入りましょう」

 ファラは鳥に変化し、服と荷物を取りに行った。シエロは先程の川の分岐へと、足を引きずった。

 日は、山陰に落ちようとしていた。せり上がる寒気に、上着を掻き合わせた。胸が痛み、呼吸のたびに細く鳴った。

 あの優しい人たちは、何者なのか。どこへ行ってしまったのか。

 存在するのかどうかも分からない伝説の竜を探す旅はこうして、不可解な現象から始まった。

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