楽師シエロ・ムジカーノ
思い出すだけで胸が悪くなる。それらを、最初から話すべきか。
俯くシエロに、ノクターンと銀髪の者はそっと目を見合わせていた。眉端を下げたノクターンが、気遣わしげに身を乗り出した。気を遣わせてばかりなのが申し訳なく、シエロは膝の上の拳を固めた。
「僕……わ、私は、王都の技芸団の者でした。けど、あの」
やはり、言えない。まだ、心の整理が出来ていない。肺の奥が締め付けられた。
「無理しないで。ソゥラ様は、別に尋問のために聞いたわけじゃないから」
うろたえるノクターンに、銀髪の、ソゥラも静かに頷く。
しかし、シエロは首を振った。話せるところだけでも話そうと、心を決めた。
「訳あって、あるものを、今度の夏の建国祭までに見つけるよう、国王陛下から命じられて、王都を発ちました。とりあえず竜骨山脈を目指そうと、赤子のときから面倒をみてくれている鳥人のファラと共に山道を辿っていると、山賊に襲われて、逃げているうちに崖を踏み外してしまいました」
「鳥人」
「はい。足手まといなぼ……私がいなければ、おそらく、隙を見て
変化の際に、数秒間無防備にならざるを得ない。それでも、大きな岩陰や太い幹へ身を隠し、僅かな時間、山賊の目をくらませることができれば、飛び立ったファラを追うことは不可能だろう。
「で、僕の名前は?」
からかうようなノクターンに、シエロは頬を熱くした。
「申し遅れました。シエロです。シエロ・ムジカーノ」
「ムジカーノ」
ソゥラが口の中で復唱した。ノクターンもまた、一瞬眉を顰めて、ソゥラを仰ぎ見る。忍び寄る不安に、シエロの鼓動は速まった。
「ご存知、なんですね」
「操竜の乙女の末裔、ですか。始祖王と共に、このビューゼント王国建国に携わったと伝えられる」
真紅の目が細められた。奥底に沈んだ暗い色に、シエロの背筋が凍えた。
身元を隠していたほうが良かっただろうか。王都の通達は、国の隅々まで広まっているのかもしれない。
「あ、あの。一応、僕は国王陛下の近衛騎士長から直々に、この旅を命じられています。母は、抵抗した技芸団の他の皆も、城へ連行されてしまいましたが」
後半は、声が小さくなった。
真紅の目が、さらに冷たくなる。
ソゥラの細い手が上がった。ビクリと、シエロは目を瞑った。
温かな手が、頭を撫でた。思わぬことに顔を上げると、ソゥラは、悲しげにシエロを見つめていた。
「とんだ災難に巻き込まれてしまったのですね。ムジカーノの名は、この王国の者なら大抵が知っていますよ。ただ、しばらくは伏せておいたほうが良いでしょう」
もつれたシエロの黒髪を手櫛で解いてくれる。
「本来、この辺りに山賊は出没しません。なにか、背後から手を回されたのかもしれません」
静かな指摘に、シエロは自分の手元を睨んだ。歯を食いしばる。視野が暗くなった。胃がせりあがるのを、必死に堪えた。
薄々は、感じていた。秋には成人する年頃だ。技芸団として王都で生活していれば、国の有様を透かし見るだけの分別がつく。
暴君として知られる王と、彼に従順な近衛騎士長が、易々とシエロを逃がすわけがない。
彼らは、更なる権力を手に入れ、周辺の競合国をも支配しようと息巻いている。そのために、始祖王の伝説に習い、操竜の乙女を利用し、竜神の力を得ようとしていた。
母や、その他捕らえられた操竜の乙女の血を引く女性は、その力が無いとみなされれば生贄として捧げると豪語していた。
しかし、操竜の力を持つ者など、現在の王国に居るのか。竜の存在すら、伝説のものとなっている時世である。
少なくともシエロは、母から操竜の話を聞いたことがない。母や自分が乙女の血を引いていることすら、技芸団を襲撃した近衛騎士の口から知らされたぐらいだ。
母は、毅然と騎士の前に立ちふさがった。団員の命を助けることを条件に、要請に応じると言い放った。
彼女に縄をかける時の、騎士長のあの厭らしい笑い顔は、思い出すだけでも反吐が出る。庶民との約束など、簡単に反故する悪者の顔だ。母や、その他囚われた乙女を助けたければ、お前は竜を探して来い、と。高飛車に命じた声が耳の奥に蘇り、シエロは両耳を塞いだ。そうでなければ、この場で斬り捨てる、と。
どのみち、彼らはシエロに用は無い。操竜の乙女の血を引いていようと、男は将来的な禍根を残さないためにも殺す。おそらく、他の乙女の周囲にいた男性は、皆殺されただろう。最も力を期待できる直系の末裔である母の手前、他の団員をその場で殺さず、シエロを逃がす振りをしただけのことだ。
芝居小屋に取り残されたシエロは、腹を突く堅いものに気が付いた。母の笛だった。騎士に突き倒されたシエロを庇い、覆いかぶさったとき、密かに忍ばせたのだろう。
形見のつもりなのか。
王都に留まっていても、殺される。ならば、とファラと峠を一つ越えた途端に、山賊に追われた。王の差し金の可能性は高い。
頭に載せられた手が、ポンポンと優しく動いた。こみ上げた怒りと絶望が、雪のように溶けていった。ソゥラの声が囁く。
「何があったのか、辛ければ言わなくてもいいのですよ。今は、身体と心を癒すのが先決です。ここなら、王の手は届きません。安心して、ゆっくりお休みなさい」
涙が滲んだ。彼らに対して聞きたいこともあったが、それよりも、掌の温もりが心地よく、肉体的な痛みも辛さも忘れてしまえた。
言葉に甘え、ソゥラの腕へ体重を預けた矢先、突然の喧騒が湧き起こった。
「ねぇ、おなかすいた!」
「支度出来てるよ。早く食べようよ!」
七、八歳だろうか。子どもが二人、駆け込んだ。ノクターンが乾いた苦笑を漏らす。
「リズ、ディーヌ。静かに、って言ったじゃないか」
「でも、ソゥラ様もおなかすいてたはず」
「魚、冷めちゃうと美味しくない」
「あ、お客様も起きたんだね」
「一緒に食べよっ」
どちらがリズで、どちらがディーヌなのか。少女と思しき二人は、よく似ていた。
片方ずつ手を引かれ、シエロもうろたえながら立ち上がった。元気のよい二人についていけず、立ちくらみを起こしてふらついた。ノクターンが後ろから支えてくれなければ、二人を巻き込んで転倒するところだった。
「ほら。まだ具合が良くないのだから」
「じゃ、ノクターン先生、お願いします」
「ソゥラ様、行こ」
待ちきれないように、ソゥラの手を引くリズとディーヌの笑顔が弾けた。無垢な明るさに、シエロはほんのひと時、安らかな気持ちになれた。
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