ソラに奏でる君のオト

かみたか さち

旅の始まり

山賊に追われて

 矢羽が耳朶を掠めた。走るシエロを追い抜く。

 鏃は、乾いた音を響かせ、盾にしようとしていた幹に刺さった。急な方向転換もできない。そのまま太い幹を回りこむ。今度は、逆の肩先を、矢が追い越していった。

 胸が苦しい。ぜい鳴が強くなった。喘息の発作だ。一度咳をすれば、容易に治らないだろう。座り込めば、終わりだ。こみ上げた咳を、無理やり飲み込んだ。

 傾いた倒木の下をくぐりぬけ、岩を回りこむ。

 振り返ってはいけない。山刀を振りかざした荒くれ者を見れば、きっと、足がすくんでしまう。逃げられなくなる。

 落ち葉を踏んで、足が滑った。抱えた荷物を幹にぶつけそうになる。慌てて手を突いた。手首に痛みが走った。

 大事に抱え込んでいるのは、愛着があるからであって。決して、金目のものではない。

 賊を説得したくても、立ち止まれば猶予も与えられない。山刀の刃で首を撥ねられるだろう。路銀はほとんど全部渡したのに。

 共に逃げているはずのファラは、無事なのか。確認もままならない。自分を追う足音とは違う方向から、檄を飛ばすだみ声がする。捕まっていないとみていいだろう。

 とにかく、ここで殺されるわけにいかない。

 シエロは、乾いた口に辛うじて残った唾を飲んだ。笛のように鳴る喉を少しでも潤そうとした。絡みつく下生えに足をとられた。よろめきながらも、迫る足音と反対へ逃げ続けた。

「こっちだ」

 背後から声が上がった。近い。金属が触れ合う音も近付く。さっき潜ったばかりの蔦が切り落とされた。青臭さが広がった。

「くらえっ」

 刃が空を切る音。ここまでかと、目を瞑りながらも、足を止めなかった。切られた枝が背中に降りかかった。

 不意に、宙へ投げ出された。

 悲鳴をあげる間もなかった。

 シエロの身体は、まっさかさまに、崖下の川へ落ちていった。


 唄が聞こえる。瞼を通して、明るさを感じる。

 ぼんやりと、母の背中が見えた。いつもの鼻歌を歌いながら、寝具を片付けている。

 起きなくては。寒いし、身体のあちらこちらが痛い。それでも起きて、準備をしなくては。

 技芸団の朝は早い。特に、喘息のため、笛も舞も出来ない、見た目で客を呼ぶこともできないシエロは、その分誰よりも早く支度をして、みんなの楽器や衣装の準備をしなくてはいけない。

 身を起こそうともがいても、身体は動かなかった。

 胸が苦しい。

 必死に瞼をこじ開けた。

 目の前に、凄惨な光景が繰り広げられていた。

 なぎ倒された天幕。刃物で斬りつけられた楽器、衣装。いつも陽気な団員が、血を流して呻いている。甲冑を着けた騎士が、血塗られた剣を片手に、母の腕を掴んだ。

 ハッとして、本当に目覚めた。

 吸い込んだ吸気が肺を刺激する。仰向けのまま、激しく咳き込んだ。

 跳ね上がっては寝具に打ち付けられる背中が痛んだ。喉の奥から、ヒュウっと音が漏れる。

「おや、喘息だね」

 知らない声がした。

 頭を持ち上げられ、唇に冷たく堅いものをあてがわれた。口から喉へ流れ込んだ水は、ほんのり甘い香りがした。夢中で飲み込んだ次の瞬間、嘘のように呼吸が楽になった。

 信じられない思いのシエロの前に、長い黒髪の男性が微笑んでいた。

「身体のほうも、大丈夫かい? 熱は、下がったようだね」

 額に手を当てられ、反射的にシエロは身を竦めた。

「心配しなくていい」

 男性は、シエロの頭を枕へ下ろすと、毛布を引き上げてくれた。

 重い頭に、ようやく記憶が戻ってきた。それはそれで、夢でなかったと思い知らされ、吐き気がした。呻くと、男性に慌てて顔を覗き込まれた。

 歯を食いしばり、シエロは枕に頭をつけたまま、首を振った。

「ごめんなさい。だい、じょうぶです」

「とにかく、ゆっくり休むんだよ。主も許してくださっているから」

 主とは。にこやかな男性に問いかける前に、柔らかな声がした。

「ノクターン。どうですか、容態は」

 ノクターンと呼ばれた男性は、笑顔のまま振り返った。

「目を覚ましました。先程薬も飲めましたから、もう少し休めば大丈夫でしょう」

「それなら、良かった」

 顎を引いたシエロの視野に、煌く銀色の髪が見えた。さらりと長い髪には、大小の珠飾りがつけられていた。それらを辿ると、ほっそりとした、男性とも女性ともいえない顔があった。色の白さを際立てているのは、真紅の双眼だ。

 見とれるシエロに、その人は脇に抱えていた物を差し出した。シエロの竪琴と、袋だった。

「保護魔法が効いていましたが、弦は何本か切れていました。こちらの手持ちで修理しましたが、元の音が出るでしょうか」

 柔らかい中性的な声に問われ、シエロは身を起こした。さっきまで鉛のように重かった身体が、愛用の竪琴を目前にすると、軽くなった。どこから湧いてきたのか知らない力がみなぎった。

 すべすべとした竪琴の表面を一通り撫でる。言われたように、傷もへこみもなさそうだ。そっと爪弾く。張り具合を調整すれば、弦は昨日までと同じ音で鳴った。

「良かった」

 物心ついたときから爪弾いていた相棒を胸に、ようやくシエロは安堵の息をついた。そして、彼らにまだ、礼を言っていなかったことに気が付いた。

 慌てて竪琴を寝具に起き、居ずまいを正して額づいた。

「助けてくださり、竪琴まで直していただいて、感謝いたします」

「ああ、いいよ。そんなに気を遣わないで。楽にして」

 ノクターンが大らかに肩を叩いてくれた。主と呼ばれた銀髪の者も、口元から微笑を絶やさない。

「運が良かったですね。意識を失って、水も飲んでいませんでしたし」

 本当に、運が良かった。崖がなければ、追いついた山賊に斬られていただろう。崖の下が地面なら、助からなかったかもしれない。高さのない崖なら、やはり山刀の餌食になっていた。

 それでも手放しで喜べない。共に追われたファラは、無事だろうか。シエロを守る必要がなくなれば、きっと、一人なら逃げおおせると信じたいが。

 しかし、と銀髪が揺れた。

「川上に街道はありませんし、あなたの服装からして猟師とも樵とも思えません。何故、このようなところに?」

 シエロは口ごもった。

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