アナガリスの盾
みはる あきひろ
第1話 出会い
「
暗く湿った世界の中で、彼女は少女の声を聞いた。足は深く沼にはまったように動かせず、抜け出そうにもずぶずぶと絡め取られる。焦ってその手が空を切ると、再び声が反響する。
「玲央ちゃん、あのね」
彼女はこの言葉の先に何があるのかを知っている。だからこそここまで焦り、必死に何かを掴もうと手を伸ばす。成らない、この言葉の先は──。
「──」
確かに何も見えなかった暗闇で、彼女は少女の顔を見た。この世界に相応しくない笑顔で、そのままぐらりと身を傾けて。ようやく動き出した足では到底届かず、彼女はついに少女の手を掴むことができなかった。
「なんにも守れない最低な人」
呪詛が残る。少女の呪詛は、じわじわと内側を侵食するように広がっていく。肩に重みがのしかかり、彼女は再び深みにはまる。
「私のこと一生忘れないでね」
少女はこんな恨み言を吐かない、そう彼女が思っていても少女の心の内などもうわかるわけもない。これはきっと罰なのだ、豪語していたくせに何も守りきれなかった自身への──。
◆
──ひどく寝覚めが悪い中、彼女はゆっくり身体を起こした。悪夢を見てしまったのが丸わかりの汗だくの身体。ため息をついて衣服を脱ぎ、汗を洗い流すために個室のシャワーの蛇口をひねる。冷たい水は夢見の悪い彼女の頭を冷やし、覚醒させるには十分だった。
汗を流す程度であるため、ものの十数分で洗い終えた彼女は備え付けのタオルで身体を拭いて衣服を身に付ける。外はようやく日が昇り始めたようで、仕込みが必要な食事処や警備のために鎧に身を包んだ者たちが歩いていく。
(私も出なければ……)
彼女は化粧台の前に座り鏡を見る。細い糸のような金色の髪、血のように赤い瞳。「今の彼女」を作り上げるものは、「かつて捨てた彼女」とは全く異なるものだった。身だしなみのために薄く化粧を施し、長い髪を大きく三つ編みにし、最後にゴムで縛れば──冒険者、「レオナール・パラドフ」の完成だ。
シュテイル王国、王都ヴァプール。十八年前、レオナールはこの都から少し離れた小さな町、リュシュタンで生まれた。優しい母と逞しい父に育てられ、レオナールは大きな病気も怪我もなくすくすくと育っていった。ただ一つ、レオナールが他の子どもと違う点があるなら──「前世の記憶がある」ことくらい。
そのことを父と母に相談すべきか悩み、そして結果としてレオナールは相談しなかった。子どもだからと言って異端なことを口走れば、自らの立場を窮地に追いやる。人と違うものが少しでもある時点で、人間は迫害をするものだとレオナール自身が知っているから。
荷物をまとめて宿屋を後にし、レオナールは冒険者ギルドへと足を運ぶ。この世界は、かつてレオナールが生きてきた世界では決して有り得ないであろう空想が具現化されている世界だった。剣と魔法のファンタジー──誰しもが一度は夢を見て、描いたような世界だ。
魔族も存在し、そして今人類を脅かす魔王も存在する。しかし本来ならば魔王と相対する存在である勇者は、今この世界にはいないのだ。正確に言えば啓示こそあるものの、その啓示に見合う存在が現れない。
日々深刻化する魔族の進撃に手をこまねいている王国は、一時的な防波堤として冒険者ギルドに報奨金を与え討伐依頼を行った。戦える者は前線に出て、戦えない者は補助として薬草採取などを中心に依頼を受けることで勇者が現れるまでの時間稼ぎをしようと言うのだ。
レオナールは魔法の盾を駆使して前線に出る味方の補助を行う力を持っているため、当然与えられる依頼はほとんどが魔族討伐の依頼だった。魔族を殺すことは他の冒険者が担っているが、日に日に彼らに疲弊が見える。
王国直属の兵士たちも、いつ終わるかもわからない魔族たちの進軍を防ぐために戦うことに嫌気が差しているように思える。どうか早く、勇者が現れて全てを救ってくれないかと心の底から祈っているのだろう。
冒険者ギルドに到着したレオナールはその扉を開き、真っ先に受付嬢のもとへ向かう。心なしか沈んだ表情を浮かべていた受付嬢だったが、冒険者の前ではいつもの笑顔を取り
「おはようございます、レオナールさん。本日の依頼はこちらをお願いいたします」
手渡された依頼書を受け取り、レオナールはその内容を確認する。しかしいつもと異なる依頼内容に、彼女は
「今日は調査なのか?」
「はい。どうやらタンプの森で魔族が巣を張っている遺跡が見つかったようで……その遺跡の調査をお願いしたいんです」
「魔族がいた場合は?」
「討伐していただいて構いません。ただしレオナールさんの力で難しいようでしたらすぐに帰還と報告をお願いいたします」
「人数は?」
「……申し訳ありません、一人です」
遺跡の調査──その規模がどれほどになるかは定かではないが、恐らく戦闘力になる大多数は他の魔族討伐の依頼で忙しいのだろう。残るは実戦に出すには難しい、力と経験のない冒険者ばかり。レオナールに単独でこの依頼をすると言うことは、レオナール自身が持つ力が魔族の群れに遭遇しても生存率が高いからだろう。
「わかった、行ってくる」
申し訳なさそうに頭を下げる受付嬢にかける言葉も見つからないレオナールは、そのまま冒険者ギルドを後にした。疲弊しているのはシュテイル王国に住む者全てだろう。倒しても倒してもキリがない魔族たち、一向に現れない勇者──生活の安全が保証されないストレスは、人間同士にもどんどんと向いていく。
レオナールは他の冒険者に比べれば達観した性格で、他人に牙を剥いてまで怒るような人間ではない。それはこの世界の十八年と、前世の十六年の生を生き抜いた証とも言える。形こそ違えど、人間同士が向け合う歪んだ感情をぶつけられたことがあるからこそ、彼女はこの世界ではなるべく一人でいることを好んだ。
調査へ向かうための装備を整え、彼女はヴァプールの門をくぐって問題の遺跡へ向かった。道中は荒れ果て、所々血の痕さえ残っている。それが魔族の血であるのか、人間の血であるのかはレオナールにはわからなかった。
タンプの森と呼ばれる暗く湿った森の中にある遺跡自体は、他の冒険者が魔族を討伐していたおかげか、急襲されるようなこともなく見つかった。苔の生えた遺跡は、人々に忘れ去られた遺産のようだった。
遺跡の中へ入る前に、レオナールは耳を澄ませて魔族の声や足音が聞こえないかどうかを探る。聞こえてくるのは、元々タンプの森に住んでいる生き物たちの鳴き声や足音だけだった。
警戒を怠らずにゆっくり周囲を見回し、足を踏み入れるも一向に魔族の気配は感じられない。受付嬢の話が正しいのならば、この場所には魔族が巣食ってなければおかしいと言うのに。内部はそれほど広くなく、レオナール一人でも三十分あれば調査が全て完了するような簡易な作りだった。
隠し部屋などの可能性も考慮して動いていたが、見つかる気配はない。そうなると考えられるのは、誰かが討伐してしまったかその討伐に怯え別の場所へ巣を移したか。後者であればヴァプールに及ぶ危険性が高くなると踏んだレオナールは、うっすらと見えている足跡に注目した。
「……?」
蹄のような足跡、小動物の足跡、そしてレオナールが不思議に思ったのは人の裸足のような足跡だった。サイズはレオナールと同じくらいの大きさだ。
「……こんなところに……?」
タンプの森は魔族が活発化する以前から、光の差しにくい陰鬱な様子が国民に気に入られていない。親が子を叱りつける時に「悪い子はタンプの森へ置き去りにするぞ」とまで言うほどだ。不気味さすら感じられるこの場所に、子どもはおろか大人ですら意気揚々と足を踏み入れるものだろうか。
しかしもし何かの手違いで来てしまっていては危険だと足跡を見失わないように遺跡の奥を歩いていく。途中から洞窟のようになっている遺跡の石の壁は、徐々に土に飲み込まれていった。
「ん……?」
奥に行くにつれ暗さを増していくため、松明を左手に持って進んでいくと光に照らされて何かの影が見える。小さく丸いその影にゆっくりと近寄ると、影はレオナールの気配を感じ取ったのか身を起こした。
身体中がボロボロになった、紫色の髪をした同い年くらいの少女。レオナールがその少女が魔族であることに気がついたのは、人間にはない羊のような角が生えていることと猫の目のような縦長の瞳孔をした緑色の瞳からだった。
「……っ!」
少女はレオナールの姿を見た途端に、異様なまでに警戒心を剥き出しにした。見れば衣服もボロボロで、露出している肌は擦り切れ傷だらけだった。鋭い視線を向ける少女を萎縮させてはいけないとレオナールは膝をついて視線を落とす。例え討伐の対象である魔族であるにしても、この警戒心は尋常ではない。
「……私はキミを攻撃しない、約束する」
携えていた荷物を脇に置き、両手を上げて攻撃の意思がないことを伝える。すると少女はレオナールをじっと見やり、距離を保ちながらも話を聞く姿勢にはなったようだ。
「キミは……魔族だな?」
「……」
少女は小さく首を縦に振った。話を聞き取る能力はあるようで、レオナールは引き続き会話を促す。レオナールが今まで対峙した魔族はいずれも知性を持たないものばかりだった。この少女は──一体何者なのだろうか。
「なぜ、ここに?」
「……わたし、は……逃げて、きました……」
逃走を意味する発言に、レオナールは改めて少女の身体を見る。希にある奴隷の子かとも思ったが、それにしては枷が一切ないことが気になったのだ。少女は言葉を続ける。
「……父から……ヴィクシムから……わたしは……わたしは、戦いたくない……」
「ヴィクシム……!?」
少女が口にした名前は、レオナールにとって聞き捨てならないものだった。ヴィクシム──人類を脅かす魔族の頂点に立つ、魔王の名前。そして彼女は彼の名を父と称し、自らが魔王の血縁であることを示したのだ。
レオナールは、未だ警戒を解くことのない少女の言葉を
レオナールは自らの荷物から止血剤と包帯を取り出し、適当な袋に包んで彼女の足元へ放り投げる。投げられたものの中身をよく見ていなかった彼女は、不信の目でレオナールを見た。
「傷口を押さえるのに使え」
「……なぜ? わたしは、魔族です。あなたたち、人間の、敵でしょう」
「だが戦いたくないんだろう? 元より私の力は殺すために在るものじゃない」
松明を地面に突き立てて尻を地につけ、完全にくつろぐような姿勢になったレオナールを見て、少女はおずおずと袋に手を伸ばした。傷の手当てをしている最中、レオナールは彼女から何か魔族の情報が引き出せないかと口を開いた。
「キミの名前は?」
「……ハルシフィア。みんなは、ハル、と……呼んで、いました」
少女──ハルシフィアの声は細く、それでいて透き通るような声だった。松明の火が揺れる中、レオナールとハルシフィアの会話は続いていった。
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