第3話

 沙希は人間ではない。


 その言葉は、あまりにも衝撃的に蓮司の脳裏を直接殴りつけた。


「沙希が蛇の一族ナーガってどういうこと?」


「……そのままの意味です。あの子は普通の人間ではない。私達がかつて蛇の一族ナーガと戦っていた時に、奴らのプラントで見つけたのがあの子です」


 初めて沙希を見つけた時のことは、都も悟も決して忘れることができなかった。


 かつて、蛇の一族ナーガを初めとする組織と戦っていた時、奴らのプラントともいうべき場所を調査したが、そこには数多くの標本、そして実験体の残骸が無数に転がっていた。


 本来一つであるはずの頭部が双頭となった個体、手足が昆虫のように六本以上生えている個体、存在しない翼を持った個体、目を持たぬ個体、人と蛇を融合したかのような個体、いずれもが自然界に存在しえないはずの異形が散乱していた。


 そうしたいくつもの失敗作が散らばっていたプラントの中で、唯一マトモな姿をしていた水槽が存在した。


 その水槽の培養液の中で、人間の幼児の姿で生きていたのが沙希だった。


「あの子は人間では無い。蛇の遺伝子を持った別種の生物です」


「なるほどね。蛇の一族ナーガがあんたらを襲ってきた理由がよく分かったよ」


 沙希の人となりを知らないが、悠人は北条夫妻が蛇の一族ナーガの標的になった理由に納得した。


「連中からすれば、あの子はわざわざ報復してかっさらうぐらい、価値がある個体だったって訳か」


 すでに十数年以上経過している中で、手の込んだ陰謀と別の組織と手を組んで襲ってくることに悠人は疑問を持っていたが、そうするだけの価値があるからこそ奴らは動いたのだ。


 それを理解した時、悠人は蛇の一族ナーガの執念深さに反吐が出そうになった。

 

「片桐君、恥を忍んでお願いがある。あの子を……」


「そいつは言わなくても分かってるよ」


 事情が分かった以上、悠人は見て見ぬ振りなどするつもりなどはなかった。


「あんたらの娘さんは俺達が助け出す。普通とはちょいとばかし違う、少々複雑な生まれのお嬢さんではあるが……やることに変わりはねえからな」


 少々どころではない、複雑な事情を抱えた存在ではあるが、理由が分かった以上、やることは一つに決まっていた。


「ありがとう、片桐君……」


「頼みましたよ。私達の娘を……」


 安堵の表情を見せながら、北条夫妻がそう言った。


「ダメだ!」


 安堵の意味に気付いた蓮司は、肉体から魂が抜けていかないように二人の手を強く握った。


「おじさんとおばさんが死んだら、沙希になんて言えばいいんだよ。沙希を助けても、二人が死んだら何にもならないじゃないか!」


 おびただしいほどの血が二人から流れている。血の気を失った顔は、生気も失っている。


 強く握っている二人の手が、少しずつ冷たくなっているのを蓮司は感じた。


 二人は助からないからこそ、死ぬ間際に蓮司と悠人に大切な娘を託そうとしている。十年近く、共に過ごしてきたもう一人の両親の無念を蓮司は受け止めたくなかった。


 受け止めれば、二人は死んでしまう。致命傷を負った二人が、かろうじて生存しているのは、一人娘である沙希を自分達の命以上に大切に思っているからだ。


「おじさんとおばさんも助けて、沙希も助ける。そうじゃなきゃ、俺は引き受けない」


 握る手を強くする蓮司ではあったが、手の先に籠もる二人の熱は消え去ろうとしていた。本当に助かるならば、その為の術を知っている二人が、救命措置に入らない時点で二人の負っている怪我が助からない代物であることが伝わってきた。


「蓮司くん……ありがとう」


「あなたは……生き抜いて……私達の分まで」


 悟と都の口からその言葉と共に、魂までもが抜け出ていったかのように、二人の両目は重く閉じていった。


 二度と開くことのない瞳の意味と共に、無力感よりも後悔と無念の奔流が蓮司の心に吹き上がっていく。


「沙希に……なんて言えばいいんだ……」


 仮に沙希を助けたとしても、これでは意味が無い。


 助けられたとしても、沙希はひとりぼっちになってしまった。もう、沙希に弁当を作ったり、自分に忘れた弁当を届けるように頼む人も、沙希の面倒を見てくれるように頼む人も、いなくなってしまったのだ。


 家族を失った沙希に、どんな顔をすれば良いのか。何を語れば良いのだろうか。


 そんな思いの中で蓮司の意識は途切れた。


 今日沙希と話して、喧嘩別れになったあの会話が、最後の会話になってしまう後悔と共に。


***


「そうか、あいつらが……」


 ため息と共に、悲しみと後悔を体に押し込めるかのように、一条蓮太郎は手にした冷や酒を注いだ茶碗を一気に飲み干した。


「娘さんが攫われて、俺達に助けて欲しいって言ってたよ」


 蓮太郎と同じく、片桐悠人も冷や酒を注いだ茶碗に口を付けると、なんとも言えない内側に籠もる憤りを鎮めようとする。


 あの後悠人は、北条夫妻の遺体と、傷で倒れた蓮司を一条家に運び、蓮太郎に事情を説明していた。


 本来ならば、久しぶりの再開を祝う為に持ってきた特別製の山廃仕込み純米酒だったが、今では北条夫妻を弔う為の酒となっていた。


「それにしても、お前よく間に合ったな」


 昼間に蓮太郎が電話した時は、明日到着の予定であると悠人は答えていた。それが、一日早いことに蓮太郎は驚いていた。


「嫌な予感がしたからな。最近、蛇の一族ナーガ魔獣軍団ヴェスティ・ヴァッフェの連中が裏でチョロチョロやってるとは聞いてはいたが……」


 太古の昔から、蛇は人間に害を為す存在として、邪神、悪魔として知られていたが、蛇の一族ナーガはそうした邪神達や悪魔の血を受け継いだ者達で構成された秘密結社として裏の世界では有名であった。


 超能力を持ち、人間よりも遙かに長い寿命と独自の科学力を持ち、世界各地で暗躍している。


魔獣軍団ヴェスティ・ヴァッフェの連中と手を組んでいるというのは初耳だな」


 意外そうな口調で蓮太郎がそう言った。


 魔獣軍団ヴェスティ・ヴァッフェ蛇の一族ナーガと違ってその設立の歴史は遙かに短い。


 だが、危険性という意味では蛇の一族ナーガと何ら変わりが無い。


 人間を超え、獣を超えた魔獣を科学的に生み出し、世界各地で様々な犯罪、テロを引き起こす秘密結社であり、悠人は幾度となく奴らとやり合った経験を持つ。


「奴ら、北条さん達と裏取引して、蓮司の命を狙ってきた」


「あいつがやられたのはそういうことか」


 悠人に担がれ、負傷で気絶した蓮司の手当をした蓮太郎だったが、蓮司を負傷させた輩の正体に納得する。


「じっちゃんが言ってたように、蓮司をいつまでも外に置いておけなくなったな」


 日本酒を一口含み、悠人がそう言うと、蓮太郎は視線を落とす。


 北条夫妻が殺され、一人娘の沙希は攫われ、そして蓮司は殺されかけた。


 たった一日であまりにも大きな事件が起きすぎていたが、相手が人間ではない文字通りの化物の所行ではあるが、その手口を知っていただけに、どうにかできなかかったのかという後悔が、二人の心を揺さぶっていた。


「沙希ちゃんが、あいつらの実の娘じゃないことは知ってはいたが、蛇の一族ナーガだったとはな」


 北条夫妻が子供ができない体質であったことから、蓮太郎は沙希が二人の実子ではないことを知っていた。


 沙希がかつて蓮太郎自身も身を投じた戦いの中で、北条夫妻が引き取った娘である事実は理解してはいたが、それでも蛇の一族ナーガであったという真実は簡単に受け止められるものではなかった。


「じっちゃんはどこまで知っていたんだ?」


「沙希ちゃんが裏の連中が作った実験体であるとは聞いていた。蓮司とやり合えるから、普通の子ではないことはあいつらからは教えて貰ってはいたがな」


 蓮太郎は空になった湯飲み茶碗に、一升瓶からそのまま酒を注いだ。夏場ならばロックで楽しむが、今はとても楽しんで酒を飲む気分にはなれなかった。


「だからこそ、ワシは蓮司を沙希ちゃんをへ住まわせようとした。特に蓮司は、お前と同じだからな」


 蓮司と沙希は常人ではない。そして蓮司は悠人と同じ部類に入る異形の存在だ。


「蓮司は蓮也さんの息子だ」


 湯飲みに注いだ酒をグイッと悠人は飲み干す。そして、悠人と蓮太郎はテーブルの真ん中に置かれた一枚の写真に視線を移した。


 そこには、白衣姿で眼鏡をかけた長髪の成年と、栗色のロングヘアで、同じく眼鏡をかけた美女の姿があった。

 

 蓮司の父である一条蓮也と、母の一条京香の写真に、蓮太郎はなんとも言えない無情を感じる。


「思えば、あの頃がなんだかんだで幸せだったな。蓮也も京香も生きていた」


 今よりもずっと激しい戦いの中に、悠人も蓮太郎も身を投じていたが、蓮司の両親である蓮也と京香がいた頃は、悲観的な状況であっても前向きではいられた。


 特に蓮也は、あきらめが悪い、と言うよりも絶望という言葉を辞書から消去しているほど、明るく振る舞い、打開策を講じては状況を好転させるのが得意だった。


「だが、あの人達はもういないんだ」


 どこか達観したかのように悠人はそう言った。冷たい言い方になってしまったが、それは誰よりも悠人自身が蓮也達がいれくれればという思いを持っている。


 悠人自身、蓮也の弟子であり、戦闘だけではなく、勉学と共に生き方まで教えてもらったほどだ。


 それを知るからこそ、すでに亡くなった人に頼るような腐抜けたことはしたくなった。だが、そう割り切れるには、まだまだ悠人も達観仕切れてなどいない。


「蓮司の奴にも、そういう話をしなきゃいけない。あいつには、伝えなきゃいけないことが山ほどある。力の使い方だけじゃない、蓮也さんのこと。あいつ自身がどういう存在なのかっていうこともな」


 事態は限りなく最悪の状況へと動き出している。その上で、蓮司には今まで話せなかった真実を語らなくてはならない。


「あいつもまた、蓮也さんの力を受け継いだジャガーノート、金色の鳥王ゴールデン・ガルーダなんだからな」


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